玄徳道

道を語るブログです。

出口王仁三郎 尋仁道。

2018-12-20 20:14:37 | 地道
嗚呼、至聖先天老祖の弟子、六万年前のいにしえの、えにしによる石門の弟子には、必ず老祖より、名を賜る。

出口王仁三郎氏は、「尋仁。」死後、老祖より、元化真君として、錫位され後、昭和四十七年、神の位として、霊績真人兼、中和成化普渡天尊と錫位された。大本二代教主こと、大地の母ねる出口スミ氏は、「承仁。」娘の直日氏は、「耀宗。」直日氏の旦那の出口日出麿氏は、「運霊。」この運霊は、吾が師、老祖は、その義父である、尋仁よりも、その働きを期待されておられたが、魔盛ん鳴るとき、拷問により、その霊を砕かれた。
そして、娘婿の出口宇知麿氏は、「悟天。」出口和明さんの父でもあります。

ちなみに、伊勢白山道リーマン氏は、出口王仁三郎聖師を天狗風情としか観れていない。はじめて、伊勢白山道リーマン氏の正体の御魂を天照大神と審神した、小長谷修聖氏すらも、蛇と観る。天照大神とされた言葉をアピールして、他を排斥するは、愚者なり。

蛇や狐、天狗と侮る能力者は、すべからく主神の意を汲めず、人を動物と差別される。

天狗も弧霊も、天蛇もすべからく主神の使いなどである。

どの世界、時間軸にても、人とは、差別し、階級を定めて、自己を誇るのである。

世界平和への祈りを提唱された、白光真宏会の五井教祖は、「晃修。」元、日本船舶振興会の会長であり、紅卍字会の会長にとフーチにより、示された笹川良一さんは「正謙。」鶴に乗った仙人こと、笹目老人は、「秀和。」大本の物語、「大地の母」の著者、出口和明氏こと、野上龍氏は、「誠荷。」言霊学の権威にして、大本の大久保彦左衛門こと、神声天眼道立神示を著した倉田地久氏は、「正晶。」中部、宗教団体の三五教の教祖、中野与之助氏は、「震甦。」六命星術の細木数子氏と縁があられた、陽明学者、安岡正篤氏は、「誠恪。」etc.

道名とは、その御魂に備わった、修道の目標であり、指針であり、その人の本質でもある。

尋とは、右手と左手を重ねる意があり、普遍なる普通の意もある。人には、右寄り左寄りと好悪がある。それに左右されない、普遍なる、おもいやり、愛を探求せよ。

出口王仁師は、警察に追われてていた、共産主義者の娘を頼まれ預かり、自分の不始末で出来た子として、信者に預けた経緯もある。

当然、出口王仁師は宗教家であり、共産主義とは相容れないと考えるが、王仁師とは正に仁道主義者である。

後日談で、その娘と預けられた、信者は本気で王仁師の子として大切に育てた。後、共産主義の父親が名乗り出た。おそらく、「あんぐり。」


五十歳となった星田悦子は田中家の女将として、遊廓きっての男勝りと人に言われ、定まった亭主を持たず、子も産まず、ただがむしゃらに働いた。しかし、老いた肉体。女たちの憎しみや涙で築いた財産にある時、たまらぬ嫌悪を感じたりもした。
大本を知り、貧しい身なりでも食うに困っても、元気はつらつな大本人に感化された。
尚且つ、大本教祖出口直の粗末な綿服にも包みきれぬ人格。高潔な魂の輝き。生きている神のごとく厳格と優しさに心打たれた。まして、直の御魂は、稚姫君尊といい、神代では色の道を違えて地に落とされ、艱難辛苦の道を極めたと聞き、自分の生業を省みて愕然とした。

大本教主出口王仁三郎にしても、男を見る眼識を自負していた悦子は、はじめて観た男でもあった。豪放磊落な男も知っている。正直に野放図な強い男も知っている。几帳面な紳士も知っている。されど、王仁三郎は、それらの基準で計れないほど、タガが外れていた。人前構わず裸となり、詰まらぬ取り巻きと野卑な会話し、女癖が悪いと評判な王仁三郎。とても嫌いであった。
しかし、女癖が悪いと言っても男たちの取り巻きが普段いる。それとなしと見ると、噂の女達自身が、それを匂わせる言動と態度で自己宣伝しているのに気がついた。女達にそうさせずにはおれぬほど、王仁三郎の魅力とカリスマ性があるのかも知れないと考えた。そして、どんな噂が流れても、決して、言い訳、弁解を王仁三郎の口から聞いたこともなかった。

ある昼とき、神苑内を歩いた、某女に背後から、王仁三郎が抱きつき、羽交い締めにした。女が驚き悲鳴を上げた。近くにいた信者達が飛び出して、王仁三郎を取り押さえた。王仁三郎は、照れた顔でにやっと笑い、引っ張られて行った。
目撃者達は、大本教主とは痴漢かと怒り心頭。悦子もそれを知り、激しい怒りが沸いた。「この大本こそは、情欲の泥沼のような汚れきった遊廓とは最も遠い、純で清らかな聖地と信じたからこそ、己れの過去を棄て、全てを投げ打って来たのに、それなのに教主ともあろう男が痴漢の行為をするとは。」
悦子は王仁三郎にぶつかろとした。その前にその某女にあって、直接真偽を確かめねばならぬ。
悦子はその女を訪ねた。一人暮らしの女性であった。
そこで意外な事実を知った。

その女性な泣く泣く語りだした。

十数年前、相手の夫は、妻と子を捨てて去った。子供が死に、ただ一人となって彼女は生きてきた。日々に夫を呪い、世間を恨んでは泣いた。
何度も自殺未遂を犯したが、死にきれなかった。ふと、大本の噂を聞き、大本に来てみる気になった。信者たちのうしろに座って教主さまに面会したが、特別に声をかけてもらえたわけでもなかった。「神さまなんて、あるわけない。やっぱり死んだ方が利口や。」後悔しながら、とぼとぼ帰りかけたら、ふいに、うしろからふわっと誰かに抱きすくめられた。大きな強い手が肩をつかんで引き寄せ、広い胸に抱かれた、無言で頬ずりされた。幼い時、もしかしたら、お父さんにあんな、抱かれ方をされたかも知れない。一瞬そう思ったほど、それは暖かい、やさいしい抱擁で在った。
その人が今、面会してきたばかりの教主さまと、知った時、思わず驚きの叫び声を上げてしまった。人が来て、それっきりであった。その場にへたり込んで、おいおい泣いた。人がいなければ、教主さまの膝にすがって泣きたかった。恨みも呪いも解けてしまって、凍えきっていた体中の血がら熱く流れ始めていた。

「あの時、長い間背中にへばりついていた死神が離れたのでっしゃろ、胸がすっと軽うなって、空の青いのにしみじみ気付いたぐらいです。あのことは、うち一生忘れまへん。」

涙の中から彼女は嬉しそうに笑った。

愛に飢えた孤独の暮らしがどんなものか、吾がことのように分かるだけ、悦子には彼女の心境が実感できた。
どんなにありがたい説教や難しい理屈よりも、ただ瞬間の抱擁一つが、この女を救ったのだ。

教主の身でありながら、人目や誤解も恐れず、それを出来る男がいるのであろうか、出口王仁三郎の他に出来るだろうか。王仁三郎こそ、肉を越えた途方もなく広い慈愛の持ち主なのかも知れない。

悦子はめまいを感じた。自分もそんな風に男に抱かれたことがあったろうか。

星田悦子の前に新しい人生が開けた。夢中になって大本に加わり、信仰と、奉仕に打ち込んだ。千万金投じても味わえない心の充足を覚えた。

のち、星田悦子さんは、出口直さんから、義理天上日之出神が憑く、福島久さんと対立する出口王仁三郎との和合を取り持ってくれと頼まれ、苦しい信仰の道を歩まれた方でございます。


老祖訓

「尋仁一団(大本信徒)の和気は多くの信徒と異なり、霊光の明らかなること常人に倍す。誠に衆生の光明にして濁海の導師なり。…尋仁の天性として生まれながらに受けたる所は人と同じきのみ。その誠なるによる故によくその道を成し、その信ずるによる故によくその心を成せり。…その悟るところを以てすれば、僅かに東亜一方の危を安んずるに関わるのみならず、その行ずる所を以てすれば実に以て世界人群物類の平安を奠(さだ)むるに足るなり。故に仁者は天に相するに、必ずその道を尋ねて自然に帰するのみ。」
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詫び道と回光

2012-08-16 20:44:18 | 地道
大変御無沙汰しております。先ず私の未熟な記事を読んで下さり方に感謝致します。
私は、十年以上前から、「人心の回光」という言葉が顕われました。文献や書物等により自分の心に根ざした言葉かも知れません
しかし私は、その言葉の意味を、吾が師、至聖先天老祖の感化として、大事にしておりました。

現代の人は、自分の本当の気持よりも、他人や流行りを気にしています。宗教界でも、自分の考えを述べる事はタブーであり、教祖や教義に順じなければ、教祖や幹部や仲間であるはずの信徒から排斥されたりします。ゆえに真なる自分を見失っている人がほとんどです。

確かに欲心の赴くままに自分の気持ちを大事にするには、「道」ではありません。それはエゴイズムであり、欲心であり、我良しであります。そして、それらの自分勝手な心を「人心」と呼びます。

例えば、母と息子がおり、息子は社会では品行方正であるとします。しかし、母親には甘えがありストレスを平気でぶつけ、母親を困らせます。息子は心の奥では、母親を一番大切に思い大事に思っているのですが、長年の惰性と狎れにより、どうしても母親には罵声をあげてしまいます。ここで云う人心は母を困らせる心であり、道心は心の奥で大事に思う心です。

人心の回光とは、その欲心を、本来生まれ持った本性、道心に帰らせる道です。

イエスは神は愛なりと申します。そして、愛とは光でもあります。本来持っている、仁愛の本性に気がつくと光は、チャクラの回転盤と同様に回り、根源鳴る神に回帰します。回帰した光は、止むこと無く、自身の本性へとまた帰還するのです。その永遠に続く回光が安定する事を、神道では神人合一と述べます。道教では真人です。儒教では聖人です。

道院の老祖の弟子たちが、坐し、仁愛ある救済を志すのは、この為でもあります。坐とは自身の本性に還りやすく、道慈を為すのは神の本質を悟るからです。吾が師は坐こそが自分を救う法であると述べています。そして、如何に坐が良く出来ようとも生活の中で、愛と真心が無ければそこに真は得られないとも申しています。


今日、詫び道と書かせていただいたのは、皆さまに謝らねばならないからです。ブログをできるだけ毎日更新するとしながらも、それを怠った罪です。
私は、道を判ったつもりで書いていましたが、それが私の社会生活での心に反する事がありました。私が弱い人間である事を痛感させられました。心に靄がある以上、それが晴れるまで、ブログを書きたくないと言う決意が生まれました。

約束しながら、申し訳ございませんでした。

これからは、方針を変え、私自身の心の神、内なる神のままに、素直に書かせていただきたいと思います。ゆえに毎日書こうと想わずに、魂が清まり、先天炁の発露した時に書かさせていただきます。勝手な事で申し訳ありませんがどうか宜しくお願い申し上げます。

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内省と修道

2012-06-25 20:49:44 | 地道
修道とは、自分で道を定め、歩む道です。ここに於いて君子は独りを慎みます。
慎むとは自分の歩む道に、日常に、省みる事でもあります。他人に対して、威張ったり、ズルをしたり、しんどい事を他人任せにしなかったか、悪口を言わなかったか、そして、一番大事な事は、行動する心に誠があったであろうかを反省する事です。
ここに他人を挟めば、独りを慎む道、修道から離れてしまします。「あいつが生意気だから懲らしめてやる、気に食わんからいじめてやる、あいつの失敗のせいで迷惑がかかりしんどい思いをした、あいつの尻拭いをした。あいつが悪い。」人間は他人の欠点をすぐ解かり理解する動物です。そして他人の欠点が愉快でたまらないのです。

汚い話ですが、「吾が糞は臭くない。しかし他人の糞は死ぬほど臭い。」これは、人間にとって永遠の真理です。

修道とは、他人の過失を見ずに自己の過失を改めることにあるのです。他人に過失を見てもこれを自己の事と考え、慎み、自己を戒めるのです。故に聖賢の恐れるところは、我が不明を恐れるのです。

心に誠と書きましたが、誠とは、真心であります。人倫は人の守るべく道義であり、「他人がして欲しくない事をしない」と言う思いやりから来ます。思いやりは仁であり、愛であります。他人を慈愛する心は人にとっての本性であり、真の心です。真の心のみが唯一、天地と感合するのです。これを「誠」と称します。誠は天の道であり、道を修める人は、心に誠を掲げねば道を得ることは、出来ないと考えます。

「われ日に三たび我が身を省みる。人の為に謀って忠ならざるか、朋友と交わって信ならざるか、伝えて習わざるか。」
「非礼視るなかれ、非礼聞くなかれ、非礼言うなかれ、非礼動くなかれ。」


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潜修道

2012-05-30 03:38:58 | 地道
陰徳あれば陽報あり。道を歩む人は自己を誇ることを戒めます。驕れば滅びるのが天の摂理だと知るからです。
何故、潜(ひそか)に道を修めることが重要なのでしょうか。人には自己愛があります。真の自分自身を愛することは素晴らしいことです。それは内在神を大切にする意味であります。
しかし、エゴの自己愛とは、他人から愛されたい、良く見られたい、尊敬されたい等欲望がからみます。幕末の西郷南州(隆盛)さんは「己を愛することが善からぬことの始まりなり。」と申されているようですがエゴの自己愛の事を述べられています。
人は他人が見ている所では、偽善心を発揮し、善行を盛んにするようです。それが上司や教祖様であればよく見てもらおうとさらに偽善心を発揮します。ましてや自分が好きな人が見ていれば尚のことです。職場とかに要領がいい人がいると思います。
だけど、他人が見ていない所となると、怠けたり、スケベな事を考えたり、惰性で働くのであれば、たとえ他人が見ているところでよく働いても陰徳になりません。自己の心を偽っているだけです。ここが聖人、君子と小人との差であります。小人は、人の見えるところでよく働き、聖人は人の見えないところでよく働きます。

だからこそ君子はその独りを慎むのです。聖人はその見えざる所を修養の要(かなめ)にしているのです。
最初からの聖人はいやしません。自己の道を歩み研鑽し、他人が見ていないところで必死に努力をして道を修め、聖人と成るのです。

最近の教祖様は、どちらさんも自分を誇ります。霊的世界の前世も誇りますね。自分がお釈迦様の弟子であったとか聖徳太子だとか、ゾロアスター教の教祖だったとか、ダビデの王とか、おまけにミカエルだのスサノオだの神様まで出てきます。
道を歩む人は、このような事を誇り騙る道理はありません。

誰も知られずに道を歩み修める事を「潜修」と申します。誰に褒められることも望まず黙々と道を修めるのです。

「道は須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。この故に君子その見ざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐懼す。隠れたるより見るるはなく、微かなるより顕なるはなし、この故に君子その独りを慎むなり。」

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大いなる坤道、地球神

2012-05-25 22:03:59 | 地道
最近、仕事で失敗しました。下請けさんがミスをしてしまい、私は取引先に謝りに行きました。ははは、ボロクソニ怒られました。うちの社長まで呼び出しをくらい、私は、取引先と社長に謝るのみです。
下請けさんの仕事のきつさを知ってるだけに下請けさんを責めることはしません。だけど、ボロクソニ怒られたのはさすがに凹みます。人は、怒鳴られるとやはり、精神が変調します。トンチンカンな私がさらに迷走し危なく更なるクレームを起こすところでした。ふぅぅ。
だけど、不思議と怒られ、ストレスが発生すると私は周りに優しくなります。なんでかは知りませんが。
道を歩み、道を修めようとする人間は、他人に如何に罵られ、侮蔑を受けようとも、相手を呪ったり悪感情を持ってはいけません。一念は三千世界を汚しも清めもするからです。ストレスが発生し溜まろうとも、私には先天坐があります。坐は、心を浄化します。私は、いつも、ここで至聖先天老祖に感謝します。「坐を伝授してくれてありがとう。」

職場や学校、主婦の場も人間関係がある以上、多かれ少なかれストレスがありますね。ストレスは病の因です。それを解消する道があれば人は、簡単に幸せに成れます。

我らが地球は人が耐えられぬ程、日々ストレスを受けています。様々な悪想念を、公害汚染を受ける地球にも当然痛みがあります。そのほとんどが人類がもたらせる因業です。
地球の痛みの波動を受けた方は解かると思いますが、人たるものにその痛みは、耐えられません。耐えようがない痛みが地球を覆っているのです。
伊勢白山道氏は、地球が太陽にSOSを送っていると述べていますが、私それでも耐えている地球を感じています。
人が生み出す様々な刧障をも地球神は耐えています。それは子供を産む陣痛であるかのように見守り全てを受け入れるつもりでひたすら耐えています。母なる地球の愛とは偉大です。これこそ、無償の愛です。道を修める人はこれを知らねばなりません。

地球の痛みを緩和するには人心の安寧が不可欠です。坐や瞑想による坐軸、中心軸の固定(堅実)は地球軸に安定をもたらします。
何故なら我々が坐で回光する気は先天の炁と合化し、我々を浄化します。体内でさらに精製された炁は根源の回帰します。光は根源へと周るのです。つまり母なる地球にも光は至るのです。

地球神は柔順中正であります。坤道の至美至大はここに象徴されます。今、地球の愛を感じ取れる人間は如何ほどいられるのでしょうか。

「至れるかな坤元、万物資りて生ず。すなわち順(したが)て天を承く。」

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