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旅行記、世相独言

迷路の館 - アムステルダム - (異文化体験7 世界一周の旅4)

2010年07月06日 11時25分15秒 | 異文化体験_北欧
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迷路の館 -アムステルダム-  1985.2.22~23


 オランダ経済省の訪問を終え、左右に風車を見ながらハイウェイを一路アムステルダムに向う。ホテル・オークラにチェックイン後、早速夕刻の町の探訪を始める。

  
  (左)ホテル・オークラ・アムステルダム      (右)オランダといえばダイヤモンドの世界的集散地


  
  (左)街中にはハイネケンの工場も     (右)街にはりめぐされた運河は氷結しているが、一部融けている所も

 160の運河と1000以上の橋が、北のベニスと呼ばれるこの街の景観を盛り上げる。市電の走るライツェ通りやスピーヘル通り界隈をぶらつき、民芸木靴や木製のワイングラスを購入。世界的に有名なダイヤモンドのウィンドショッピングやハイネケンの工場を遠目にしながら3kmの道を再びホテルに引き返す。市内の運河だけに氷は所々溶け始めており、それでもスケーターは安全な場所を選んで楽しんでいる。しかし、中には溶け始めた氷の割れ目から水中に落ちる頓馬なスケーターもあとを絶たぬとか。


 レストランFive Flies (D_VIJFF_VLIEGHEN)の入口棟(左5棟が一体レストラン)

 夕食は「Five Flies」(「5匹の蝿」)という名のレストラン。1627年のオランダ建築をそのままにルネッサンス様式の家具で囲まれた7つのダイニングルームを有するレストランである。5匹の蝿という名前は、このレストランが外見上5つの連なった館で構成されることからきた名前なのだろう。

  
(左)レンブラントのエッチング画が残されたレンブラントの間 (右)トレードマークの5匹の蝿

 食後、満員の7つのダイニングルームを見学させて貰う。迷路さながらに2階に上がったり、狭い廊下の先に大きな部屋があったりで、まあその広いこと。他のお客は一体この東洋人達は何をしているのかといった目つきで我々を見る。出口を見失った我々はウエイター氏のお世話になって無事店外に脱出出来た。
入口から想像できない空間の広がり、中世欧州の建物は京都の町屋を連想させる。

   
   レストランの御由緒書 左の表紙の絵の通り5連棟のレストラン(入口は右端)



 レストランを後にした我々は、夜の歓楽街「飾り窓の女」のいるライツェ、レンブラント広場一帯を散策する。いる、いる。通りに面した建物の1階1坪ほどの小部屋に、様々な色の蛍光灯で照らし出された下着姿の女の子。白人に混じって黒人の女の子もいる。客待ちもいれば値段の交渉中のもいる。カーテンの引かれている部屋は目下進行中。夜目、遠目、笠の内とは良く言ったもの。何やら欲情をそそる怪しげな雰囲気が辺りに充満している。興味がありながら、なさそうな顔で目だけはしっかり彼女達の裸身を捉え通り過ぎる。欧州のビデオは日本ではそのまま再生出来ない。アダルトショップのお兄ちゃんが、「2本だけ日本式のが残ってるよ!」と言葉巧みに誘う。かつて放棄同意書を書いたことのある小生。立ち読みが一番。

  
  (左)夏の飾り窓界隈の風景(参考)            (右)飾り窓の女 ざっとこんな感じ

 翌朝、国立美術館にレンブラントの絵を訪ねる。最大の作品「夜警」は大きな部屋に単独展示されている。全体に暗い色調の中、躍動美を感じさせるこの作品は、永らくその複製画が我家の応接室を飾ることになる。

 
   (左)国立美術館        (右)レンブラントの代表作「夜警」、永らく複製画が我が家のリビングを飾る

 アンネ・フランク・ハウス。アンネの日記で一躍世界的に有名になった舞台である。アンネがナチの執拗な迫害から身を守るため1942.7~1944.8の発覚まで隠れていた家は現在アンネ・フランク財団によって保存されている。迷路のようなこの隠れ家は1635年の建造。

 
(左)アンネ・フランク・ハウス  (右)アンネとその日記(財団HPより)


 当時建物の価格が表通りの間口幅で決められたので、人々は奥行きを深くすることで広さの確保を図ろうとしたようだ。このため、アムステルダムの古い街並みは間口の狭い、それでいて奥行きの異常に深い建物が立ち並んでいる。この種の家は採光のため、中庭をはさみ表の本館と裏の別棟(ANNEXという)を渡り廊下で結ぶ形式のものが多い。

 Anne Frank Huis, Five Flies等々, 「迷路の館」の謎のムックである。