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旅行記、世相独言

憧れの東西文明結節点へ -トルコ-(異文化体験31 東西文明十字路の旅1)

2013年06月09日 11時54分21秒 | 異文化体験_中・東欧
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憧れの東西文明結節点へ -トルコ- 98.08.17-08.26

 世界3大料理の一つとされるトルコ料理、チャイがなければ何も始まらない国、ベリーダンス、ブルーのタイルや数珠、水パイプやメアシャム・パイプ、何はなくともトルコ絨毯、タラソ(仏)、ヘナ(印)、あかすり(韓)、マッサージ(タイ)、そしてトルコのハマム。
 東西文明の結節点トルコには、数々の古代遺跡と共に興味深い独自の文化がある。

 オスマン朝の赤色をベースに月と星は民族の進歩と国家の独立

 昨年のアンダルシアの旅に続いて、今夏も東西文明の十字路トルコを旅することにした。イスタンブールを起点にエーゲ海沿岸のトロイやヘレニズム文化の諸都市を巡り、カッパドキア等の中央アナトリアからイスタンブールに戻る10日間のグループツアーである。

       
 (左)今回のツアーの主要な訪問地   (右)ヨーロッパ(左)とアジア(右)の結節点

  初回の今回は、旅行記は次回からということにして、自らの勉強も兼ねてトルコの歴史を少し振り返ってみたいと思いますので、歴史に興味のない方は是非次回からご覧下さい。

紀元前3000年頃:トロイは最盛期を迎え卓越した文化・芸術を誇っていた。

紀元前2000年~紀元前700年頃(ヒッタイト時代):アナトリア最初の統一国家「ヒッタイト古王国」が出現。ヒッタイトは黒海を渡って来た北方系民族。紀元前1285年ラムセスⅡ世率いるエジプト軍を撃退するほど強大であった。

紀元前547年:ペルシャが征服し全アナトリアを含む強大な帝国に発展。

紀元前334年~紀元395年(ヘレニズム・ローマ時代):200年のペルシャ支配の後、アナトリアは若き英雄「アレキサンダー」の支配下に入る。彼は一大帝国を建設し、死後彼の将軍達に分割された。その一つ「ペルガモン王国」はアナトリアの文化・経済の中心として栄えた。徐々に力をつけたローマは、ここを足掛かりにアナトリア全域を支配した。

395年~1071年(ビザンティン帝国時代):330年「コンチタンティヌス帝」はビザンティウムに遷都し、町の名を「コンスタンティノープル」と改名。以後、東西結節点として益々発展する。395年東西ローマ分裂で、アナトリアは東ローマ帝国の一部となる。徐々にローマ色が薄まり、東方的色彩が強まり「ビザンティン帝国」と呼ばれるようになった。8世紀にイスラム軍の侵入を受け、1071年セルジューク朝に破れ、アナトリアにトルコ族が入っていく。

 スレイマン大帝(Wikipediaより)

1071年~1922年(セルジューク朝、オスマン朝):スンニ派イスラムのトルコ系王朝「セルジューク朝」は、首都をコンヤに置く。セルジューク朝の内紛の中でオスマン・ベイは1326年ブルサを攻めそこに首都を置く。世界帝国「オスマン朝」の始まりである。勢力を伸ばし1453年コンスタンティノープルを占領、「イスタンブール」と改名。16世紀のスレイマン大帝時代に最盛期を迎える。彼の死後、度重なる戦争にことごとく敗戦し、19世紀にはエジブト、ギリシャ、ブルガリア等バルカン諸国が独立、第1次大戦では敗戦側に。

1923年10月29日:ムスタファ・ケマルがトルコ共和国を成立させ、初代大統領になり、首都をアンカラとした。アタトゥルク(トルコの父)と言われている。

    
                今回のイスタンブールでのホテル「RESIN TAKSIM」

 関空を13時10分に飛び立ったアシアナ航空OZ111便は、一路ソウルへ。3時間の乗り継ぎ待ちの後、18時05分ソウル発のアシアナ航空OZ551便は、無事イスタンブールに23時50分到着。市内のホテル「Eresin Taksim」には深夜のチェックインとなった。