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遺跡はどうあるべき? ベルガマ -エーゲ海沿岸②- 1998.8.19
今回はベルガマ!です。
チャナッカレからバスで走ること3時間半、ベルガマに着く。途中休憩の道端の露店には名産のピスタチオが売られている。
車内ではピスタチオを齧りながらベルガマへ
ベルガマは、かつてはベルガモンと呼ばれ、ヘレニズム文化が大きく花開いた遺跡都市。アレキサンダー大王の死後、分割された領土はフィレタイロスがここにベルガモン王国を築いた。
ベルガモン遺跡は丘を利用し神殿、大劇場などが建設された「アクロポリス」と医療施設を備えた町の中心地「アスクレピオン」から成る。
(左)アスクレピオン地区の聖なる道(後方の丘がアクロポリス)(右)古代医療センター兼神殿の北回廊の列柱
まず我々が降り立ったのは「アスクレピオン」地区。アスクレピオスというギリシャの医療の神の名に由来する古代医療センターと神殿を兼ね備えた跡地である。140mの聖なる道の先に北回廊の列柱が聳え立っている。広場には蛇の彫刻を有する円柱が残っている。医療のシンボルとして脱皮する蛇の姿が健康回復のイメージと結びつけられたようだ。
(左)健康回復と蛇のイメージは一致する? (右)医療センター側の小劇場、治療しながらの娯楽殿堂?
2千数百年前の図書館、聖なる泉、治療棟、劇場などの施設が、炎天下の日差しに耐えて当時の社会の有り様を我々に物語っている。
丘の上の「アクロポリス」は、かつてのヘレニズム文化が最も栄えた場所の一つ。ベルガモン王国時代の王宮跡地にローマ皇帝ハドリアヌスによって造営されたトリアヌス神殿。その6×9柱のコリント式神殿は、すべて大理石で造られ、青空に白い神殿がよく映えている。
青空に映える真っ白な大理石のトリアヌス神殿
図書館は、紀元前2世紀にエジプト・アレキサンドリア図書館に対抗して造られ、当時は20万冊の蔵書を誇っていた。伝説によると脅威を覚えたエジプトがパピルスの輸出を禁止したため、ベルガモン王エウメネス2世が羊皮紙を発明したと言われているそうだ。ちなみに「羊皮紙の独語名ペルガモントは、当地に由来」するそうだ。
1万人収容の大劇場、すり鉢の底に降りるような恐怖感
急峻な丘の斜面を利用して造られた劇場は収容人員1万人の大劇場。下に降りる時には目がくらむほどの斜面である。
さて、エウメネス2世が戦勝記念に造らせた「ゼウスの大祭壇」というのがアクロポリスにあった。神々と巨人達の戦いがモチーフとして描かれた祭壇で、キリスト教徒からはサタン(悪魔)の祭壇として恐れられているが、今はその跡地に2本の大木が茂っている。
じゃあ、祭壇は?というと、ドイツ・ベルリンの「ペルガモン博物館」にある。19世紀ドイツ発掘隊が発見し、運び去ったという。何故、そんな巨大なものを?と思うが、博物館に巨大祭壇が圧倒的迫力で再建されている。
ベルリン「ペルガモン博物館」に復元された「ゼウスの大祭壇」
古代遺跡や美術工芸品が、様々な理由でもともとあった場所を離れ、離散してしまっている例が多々ある。
この大祭殿のように立派に修復・復元されているものから、管理不十分でもはや破壊、消滅してしまったものまで、多種多様な履歴があるのだろう。
今回の例を見る限り、古代施設は十分管理保存されているものの、残念ながらベルリンのペルガモン博物館の大祭殿からは、その「臭い」を嗅ぎ取ることは出来ない。
ベルガモンの他の古代遺跡との調和の中で、初めてゼウス大祭殿が「2千年前の臭い」を発するのである。探険家や戦勝国が持ち去った戦利品は、現地の管理能力を前提として、もとあった場所に戻されることが真の世界遺産と言えるのではなかろうか。
(左)ベルリンのベルガモン博物館 (右)パンフレット表紙を飾るゼウスの大祭壇の東フリーズの部分図「女神アルテミス」
ちなみに、ペルガモン博物館は古代美術コレクション、西南アジア博物館の2大要素を有しており、ベルガモン以外にバグダード近郊バビロンの遺跡も復元されている。
(異文化体験25 中・東欧の旅その6「オッシーとベッシー」参照)
ベルガモン観光を済ませ、1時間半のバスの旅でトルコ第三の都市イズミールへ。今宵の宿舎はIsmiraという三ツ星ホテル。夕食後、同じグループの若い女性達と美味しい珈琲を求めて夕暮れの街を散策する。イズミル湾に面したジェムフリエット広場まで歩いたが、結局らしき店もなくホテルに戻る。
(左)今宵の宿舎「ホテル・イスミラ」
(中)美味しい珈琲を求めてジェムフリエット広場まで来たけれど・・
(右)前夜は暗闇でよくわからなかったが、この像は建国の父ケマル・アタチュルクの像
遺跡はどうあるべき? ベルガマ -エーゲ海沿岸②- 1998.8.19
今回はベルガマ!です。
チャナッカレからバスで走ること3時間半、ベルガマに着く。途中休憩の道端の露店には名産のピスタチオが売られている。
車内ではピスタチオを齧りながらベルガマへ
ベルガマは、かつてはベルガモンと呼ばれ、ヘレニズム文化が大きく花開いた遺跡都市。アレキサンダー大王の死後、分割された領土はフィレタイロスがここにベルガモン王国を築いた。
ベルガモン遺跡は丘を利用し神殿、大劇場などが建設された「アクロポリス」と医療施設を備えた町の中心地「アスクレピオン」から成る。
(左)アスクレピオン地区の聖なる道(後方の丘がアクロポリス)(右)古代医療センター兼神殿の北回廊の列柱
まず我々が降り立ったのは「アスクレピオン」地区。アスクレピオスというギリシャの医療の神の名に由来する古代医療センターと神殿を兼ね備えた跡地である。140mの聖なる道の先に北回廊の列柱が聳え立っている。広場には蛇の彫刻を有する円柱が残っている。医療のシンボルとして脱皮する蛇の姿が健康回復のイメージと結びつけられたようだ。
(左)健康回復と蛇のイメージは一致する? (右)医療センター側の小劇場、治療しながらの娯楽殿堂?
2千数百年前の図書館、聖なる泉、治療棟、劇場などの施設が、炎天下の日差しに耐えて当時の社会の有り様を我々に物語っている。
丘の上の「アクロポリス」は、かつてのヘレニズム文化が最も栄えた場所の一つ。ベルガモン王国時代の王宮跡地にローマ皇帝ハドリアヌスによって造営されたトリアヌス神殿。その6×9柱のコリント式神殿は、すべて大理石で造られ、青空に白い神殿がよく映えている。
青空に映える真っ白な大理石のトリアヌス神殿
図書館は、紀元前2世紀にエジプト・アレキサンドリア図書館に対抗して造られ、当時は20万冊の蔵書を誇っていた。伝説によると脅威を覚えたエジプトがパピルスの輸出を禁止したため、ベルガモン王エウメネス2世が羊皮紙を発明したと言われているそうだ。ちなみに「羊皮紙の独語名ペルガモントは、当地に由来」するそうだ。
1万人収容の大劇場、すり鉢の底に降りるような恐怖感
急峻な丘の斜面を利用して造られた劇場は収容人員1万人の大劇場。下に降りる時には目がくらむほどの斜面である。
さて、エウメネス2世が戦勝記念に造らせた「ゼウスの大祭壇」というのがアクロポリスにあった。神々と巨人達の戦いがモチーフとして描かれた祭壇で、キリスト教徒からはサタン(悪魔)の祭壇として恐れられているが、今はその跡地に2本の大木が茂っている。
じゃあ、祭壇は?というと、ドイツ・ベルリンの「ペルガモン博物館」にある。19世紀ドイツ発掘隊が発見し、運び去ったという。何故、そんな巨大なものを?と思うが、博物館に巨大祭壇が圧倒的迫力で再建されている。
ベルリン「ペルガモン博物館」に復元された「ゼウスの大祭壇」
古代遺跡や美術工芸品が、様々な理由でもともとあった場所を離れ、離散してしまっている例が多々ある。
この大祭殿のように立派に修復・復元されているものから、管理不十分でもはや破壊、消滅してしまったものまで、多種多様な履歴があるのだろう。
今回の例を見る限り、古代施設は十分管理保存されているものの、残念ながらベルリンのペルガモン博物館の大祭殿からは、その「臭い」を嗅ぎ取ることは出来ない。
ベルガモンの他の古代遺跡との調和の中で、初めてゼウス大祭殿が「2千年前の臭い」を発するのである。探険家や戦勝国が持ち去った戦利品は、現地の管理能力を前提として、もとあった場所に戻されることが真の世界遺産と言えるのではなかろうか。
(左)ベルリンのベルガモン博物館 (右)パンフレット表紙を飾るゼウスの大祭壇の東フリーズの部分図「女神アルテミス」
ちなみに、ペルガモン博物館は古代美術コレクション、西南アジア博物館の2大要素を有しており、ベルガモン以外にバグダード近郊バビロンの遺跡も復元されている。
(異文化体験25 中・東欧の旅その6「オッシーとベッシー」参照)
ベルガモン観光を済ませ、1時間半のバスの旅でトルコ第三の都市イズミールへ。今宵の宿舎はIsmiraという三ツ星ホテル。夕食後、同じグループの若い女性達と美味しい珈琲を求めて夕暮れの街を散策する。イズミル湾に面したジェムフリエット広場まで歩いたが、結局らしき店もなくホテルに戻る。
(左)今宵の宿舎「ホテル・イスミラ」
(中)美味しい珈琲を求めてジェムフリエット広場まで来たけれど・・
(右)前夜は暗闇でよくわからなかったが、この像は建国の父ケマル・アタチュルクの像