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山間のシンデレラ城 ノイシュバンシュタイン -ヒュッセン- 2002.08.05
バイエルン州の州都ミュンヘン郊外のホテルから、小雨が降ったり止んだりする曇空の中を旅の前半のハイライト、「ノイシュバンシュタイン(白鳥城)」目指してロマンティック街道のバスの旅が再開される。
ノイ(新しい)シュバン(白鳥)シュタイン(お城)、新白鳥城ともシンデレラ城とも言われているお城である。
はるかかなたに「あのお城」が見え隠れ
アルプス山麓を走る頃になると、生憎の天気も少し回復し始めた。山の中腹にあのお城が見え隠れし出すと、それまで静かだった車内に一気に活気がよみがえる。
麓の駐車場から別の専用バスに乗り換え、中腹のお城近くで下車し、そこからは徒歩。その途中の谷を渡す「マリーエン橋」に来ると、よく目にするノイシュバンシュタイン(白鳥城)の雄姿が一気に広がる。
マリーエン橋から見た「山間のシンデレラ城」
中世にはアウグスブルグからチロル経由でイタリアに至る重要な交易路があり、4つの城が街道を守っていた。
マックスⅡ世は、1832-38年にホーエンシュヴァンガウ城を現在の場所に再建したが、そこには以前「シュバンシュタイン」があったようだ。
バイエルン国王ルートヴィヒⅡ世は、1869年9月に昔の表、裏2つのホーエンシュヴァンガウ城のあった岩山に「夢の城」の建設に着手した。ノイ(NEW)という冠がつくのはこのためである。
1883年に本丸が完成し、84年春には4階の王の住居は入居可能となり86年6月の王の死までの2年間、およそ1/4をここで過ごしたと言われる。
(左)ノイシュバンシュタインの入場券 (右)1900年当時のノイシュバンシュタイン(Wikipediaより)
ノイシュバンシュタインの中で最も印象深い部屋は、王座の広間である。
1886年王の突然の死により作業開始前の契約は全て解約され、王座の製作も行われなかったようだ。現在、復元されているバジリカ様式の台座は、神の恩寵を受けた王国を賛美するものである。
(左・右) ノイシュバンシュタインの最も印象深い部屋「王座の間」 (中)ルートヴィヒⅡ世
王座の間のバルコニーからは、左にアルプ湖、右にシュヴァーン湖(白鳥湖)、その間にホーエンシュヴァンガウ城がチロルアルプスの山々を背景に、見事な景色が展開している。
ルートヴィヒⅡ世は、リヒャルト・ワーグナーに「私はホーエンシュヴァンガウの古い城の廃墟に、新しい城を建てようと思っている。見つけうる限り最も美しい場所です」と書いている。
(左)王座の間からみた深い谷を渡すマリーエン橋 (右)マリーエン橋の拡大、この橋からがお城の撮影ポイント
(左・右)ルートヴィヒⅡ世がワグナーに「見つけうる限り最も美しい場所」と言った王座の間からの眺望
1845年生れのルートヴィヒⅡ世は、私の100歳年上の男。
永らく政治的策略に巻き込まれたことから、自分の世界に浸り、貴く美しく悪しきものが入り込む余地のない世界を創ることに傾注し、王の年収をはるかに凌ぐお城つくりは王の罷免の動きに結び付いていった。
1886年精神病者という鑑定により王を白鳥城からベルク宮に移した翌日、夜の散歩に出た王と医師は、湖で溺死体で発見された。
謎の死は今でもいろいろな伝説が語り継がれている。
ホーエンシュヴァンガウ城
お城からは、馬車も通るなだらかな下り道が駐車場まで続いている。
城門近くには様々な土産物屋が並んでいるが、ノイシュバンシュタイン城の四季折々の絵や写真が、やはり一番人気である。ルートヴィヒⅡ世が少年時代の大半を過ごしたホーエンシュヴァンガウ城が下界真近に見える。
麓から見た「ノイ(新しい)・シュバン(白鳥)・シュタイン(お城)」
さあ、次なる目的地はこの旅のハイライト「アイガー北壁とユング・フラウ・ヨッホ」。天気が心配だあ!
山間のシンデレラ城 ノイシュバンシュタイン -ヒュッセン- 2002.08.05
バイエルン州の州都ミュンヘン郊外のホテルから、小雨が降ったり止んだりする曇空の中を旅の前半のハイライト、「ノイシュバンシュタイン(白鳥城)」目指してロマンティック街道のバスの旅が再開される。
ノイ(新しい)シュバン(白鳥)シュタイン(お城)、新白鳥城ともシンデレラ城とも言われているお城である。
はるかかなたに「あのお城」が見え隠れ
アルプス山麓を走る頃になると、生憎の天気も少し回復し始めた。山の中腹にあのお城が見え隠れし出すと、それまで静かだった車内に一気に活気がよみがえる。
麓の駐車場から別の専用バスに乗り換え、中腹のお城近くで下車し、そこからは徒歩。その途中の谷を渡す「マリーエン橋」に来ると、よく目にするノイシュバンシュタイン(白鳥城)の雄姿が一気に広がる。
マリーエン橋から見た「山間のシンデレラ城」
中世にはアウグスブルグからチロル経由でイタリアに至る重要な交易路があり、4つの城が街道を守っていた。
マックスⅡ世は、1832-38年にホーエンシュヴァンガウ城を現在の場所に再建したが、そこには以前「シュバンシュタイン」があったようだ。
バイエルン国王ルートヴィヒⅡ世は、1869年9月に昔の表、裏2つのホーエンシュヴァンガウ城のあった岩山に「夢の城」の建設に着手した。ノイ(NEW)という冠がつくのはこのためである。
1883年に本丸が完成し、84年春には4階の王の住居は入居可能となり86年6月の王の死までの2年間、およそ1/4をここで過ごしたと言われる。
(左)ノイシュバンシュタインの入場券 (右)1900年当時のノイシュバンシュタイン(Wikipediaより)
ノイシュバンシュタインの中で最も印象深い部屋は、王座の広間である。
1886年王の突然の死により作業開始前の契約は全て解約され、王座の製作も行われなかったようだ。現在、復元されているバジリカ様式の台座は、神の恩寵を受けた王国を賛美するものである。
(左・右) ノイシュバンシュタインの最も印象深い部屋「王座の間」 (中)ルートヴィヒⅡ世
王座の間のバルコニーからは、左にアルプ湖、右にシュヴァーン湖(白鳥湖)、その間にホーエンシュヴァンガウ城がチロルアルプスの山々を背景に、見事な景色が展開している。
ルートヴィヒⅡ世は、リヒャルト・ワーグナーに「私はホーエンシュヴァンガウの古い城の廃墟に、新しい城を建てようと思っている。見つけうる限り最も美しい場所です」と書いている。
(左)王座の間からみた深い谷を渡すマリーエン橋 (右)マリーエン橋の拡大、この橋からがお城の撮影ポイント
(左・右)ルートヴィヒⅡ世がワグナーに「見つけうる限り最も美しい場所」と言った王座の間からの眺望
1845年生れのルートヴィヒⅡ世は、私の100歳年上の男。
永らく政治的策略に巻き込まれたことから、自分の世界に浸り、貴く美しく悪しきものが入り込む余地のない世界を創ることに傾注し、王の年収をはるかに凌ぐお城つくりは王の罷免の動きに結び付いていった。
1886年精神病者という鑑定により王を白鳥城からベルク宮に移した翌日、夜の散歩に出た王と医師は、湖で溺死体で発見された。
謎の死は今でもいろいろな伝説が語り継がれている。
ホーエンシュヴァンガウ城
お城からは、馬車も通るなだらかな下り道が駐車場まで続いている。
城門近くには様々な土産物屋が並んでいるが、ノイシュバンシュタイン城の四季折々の絵や写真が、やはり一番人気である。ルートヴィヒⅡ世が少年時代の大半を過ごしたホーエンシュヴァンガウ城が下界真近に見える。
麓から見た「ノイ(新しい)・シュバン(白鳥)・シュタイン(お城)」
さあ、次なる目的地はこの旅のハイライト「アイガー北壁とユング・フラウ・ヨッホ」。天気が心配だあ!