(写真はクリックで拡大します)
アリゾナ州ペイジ→ユタ州セントジョージ→ネバダ州ラスベガスと3つの州、総距離445kmのバス移動ともなれば5時間くらいはかかるだろう。
現地ガイドのF氏が、ユタ州はモルモン教徒が盛んな州、ネバダ州はかつての地下核実験場で地下水汚染のため土地の多くが国有地、等々皆を飽きさせない話で繫いでいく。
そんな彼が話してくれたラスベガスの歴史を少々。(wikipediaで補足しつつ)
スペイン語で「肥沃な土地」を意味するvegasが固有名詞となったラスベガスは、1820年代後半、ネバダ砂漠の中で窪んだオアシスとなっているのをモルモン教徒が発見。1840年代末にカリフォルニアでゴールドラッシュが起こると、砂漠の中の中継地点として定住者が現れ、1905年、ユニオン・パシフィック鉄道の開通に伴って、水の便の良いラスベガスは蒸気機関車の給水地となり、駅も造られた。
ゴールドラッシュも終わり、1929年の大恐慌で産業のないネバダ州は税収確保のため1931年賭博を合法化した。丁度街の南東48kmにフーバーダムが着工され、1936年に完成。労働者の流入と安価な電力の供給で、街は大きく発展。第二次世界大戦中にはネバダ砂漠に軍事基地や核実験場(ネバダ核実験場)が続々と建設され、その関係者も町に住むようになった。街の北西約105kmの距離にネバダ核実験場がある。
ネバダ核実験場(ラスベガスからわずか100kmほどの距離にある)
人が集まるとギャンブルも盛んになる。終戦後の1946年、「ベンジャミン・シーゲル」が「The Pink Flamingo Hotel & Casino」を6百万ドルで建設、カジノが収益を上げることが判ると、マフィアが続々とホテルを建設し、集客のためにフランク・シナトラやサミー・デイヴィスJr.などのショーを行い、街の建設資金の大半をモルモン教徒が融資した。
Benjamin “Bugsy” Siegel 1946年のThe Pink Flamingo Hotel & Casino 1952‐53年ころのホテル
現在のフラミンゴ・ホテル L.V.ストリップとダウンタウンの主要施設
しかし1960年代後半頃から当局の取締りが厳しくなり、マフィアは次々とホテルの経営権を手放し、ハワード・ヒューズのような大富豪などがこれらのホテルやカジノの経営権を引き継いだ。その後も、限定的なマフィアの介入はあったが、ゲーミング・ライセンス(カジノ開設、運営の権利を定める一連の州法など)の厳格化に伴いその影響力は漸減し、1990年代にはほぼ払拭された。1980年代末頃から巨大テーマホテルブームが起こり、市街は南方に大きく拡張し現在に至っている。現在、客室数ベースで世界12大ホテルのうち11軒がラスベガスに存在する。一定規模以上のカジノの建設は、客室数200室以上のホテルの付帯施設としてしか認可されない。
なお、ネバダ州の人口はわずか270万人、そのほとんどがラスベガス周辺に居住している。
ラスベガスの人、それはやはりフラミンゴのベンジャミン・シーゲルであろう。
今宵のラスベガスの宿舎は、「サーカス・サーカス・ホテル・カジノ&テーマパーク」。ダウンタウンに近いストリップ大通りの北部にあり、ファミリー層をターゲットにした巨大ホテル。
午後7時ころ、バス移動から解放され、ホテルチェックイン後、ただちにオプショナルツアーの「和食ディナーとイルミネーションツアー(何と$165、高い!)」に出発。
まずは、腹ごしらえ。Oodle-Noodleという日本食の店。所詮はうどん屋なのだが、一応会席風の料理がすでに並んでいる。どう高く見積っても$30、残り$135は?と思いつつ食事を済ませる。
アンテロープ・キャニオンから5時間、L.V.に到着 今宵の宿舎サーカス・サーカス サーカスのアトラクションを併設
日本食の店「Oodle-Noodle」と店の名刺
最初に向かったのは、15号線に乗って右手にネオンキラキラのホテル群を見ながらダウンタウンのフリーモントストリート。お目当ては日没後1時間おき約8分の映像と音楽をハイテクアーケードで見るのだが、いやはや大変な人出である。丁度9時前に到着して、1260万画素、60フレーム/秒、2.2MW(発光体)、0.55MW(サウンド)、220台のスピーカーからなる芸術作品?を鑑賞。ストリートの人々の頭上を時折3列のジップラインが走る。
15号線でダウンタウン方面に(右手にサーカスサーカス) フリーモントストリートのジャズライブ どこかで見たような海賊さん
ハイテクアーケードのショーの始まり 時折アーケードのジップラインを人が飛んでいく(写真の黒い人影がそれ)
次なるは、高さ350mのストラトスフィア・タワー(Stratosphere Tower)からの夜景見物。インサニティ、エックス・ストリーム、ビッグ・ショットの3種類の高さを売りにしたアトラクションがあるが、お金をもらっても御免被るアトラクションだ。正直、東京や大阪の夜景と寸分違わない夜景だが、空中遊覧のヘリコプターが結構目線で飛んでいる。
高さ350mのストラトスフィア・タワー 夜のタワー 入場チケット
L.V.の夜景 地上300mの3つのアトラクション 幸いこのアトラクションは乗客なし
最後に向かったのが、ベラッジオの噴水ショー。コモ湖を模したというホテル正面の人造湖で夜は15分ごとに繰り広げられる。パリス、バリーズを背に見るのとベラッジオを背に見るのとでは、幾分雰囲気が異なるのかも。ショーの後はベラッジオのロビーに入りアメリカ人好みのけばけばしいイタリアン装飾を見て、11時頃ホテルに戻る。
パリス、バリーズを正面に噴水ショーを待つ コモ湖を模したというホテル正面の人造湖
15分ごとに繰り広げられる噴水ショー 湖の周りはそぞろ歩きの人でいっぱい
ホテル・ベラッジオのエントランス ロビーを飾る米国人好みにしつらえたきんきらきんのイタリアン装飾
ちなみに1996年春、女房と行ったコモ湖から船で1時間、岬の突端の高級リゾート・ベッラージオとは似ても似つかぬL.V.のべラッジオ・ホテルであった。
食事とタワー入場料(平日$20)以外は無料のショー、3時間半ほどの車と案内・手配で約1万円強、なかなかの商売である。
1996年コモの町から船で1時間、岬の突端のベッラージオの町にて
翌朝なんと4時にホテル出発、ラスベガス発7時20分のAC1899便でバンクーバーに。乗り継ぎで12時50分のRV-1951便で関空に無事到着。
バンクーバーでのトランジットの間、ワールドカップ・ノックアウトステージの初戦「日本対ベルギー」、後半日本が2点先取で大いに盛り上がっていたが、搭乗時刻となり機上の人に。お隣のH氏とこれで3点も取られことはないよね!と勝ちを信じて関空に降り立ったら、まさかまさかの結果。
ラスベガス帰りだけに、カジノ同様一瞬喜ばせて最後はやはり負け。
17名の皆さんと一緒にたくさんの写真を土産に50回目の海外渡航の旅を終えました。
今回の国際線飛行マイルは11639マイル。生涯国際線飛行マイルは、469059マイルとなった。
異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅
その9.金と鉄道とカジノとホテル、そして核実験場 ラスベガス(Benjamin Siegel)
2018.07.01
アリゾナ州ペイジ→ユタ州セントジョージ→ネバダ州ラスベガスと3つの州、総距離445kmのバス移動ともなれば5時間くらいはかかるだろう。
現地ガイドのF氏が、ユタ州はモルモン教徒が盛んな州、ネバダ州はかつての地下核実験場で地下水汚染のため土地の多くが国有地、等々皆を飽きさせない話で繫いでいく。
そんな彼が話してくれたラスベガスの歴史を少々。(wikipediaで補足しつつ)
スペイン語で「肥沃な土地」を意味するvegasが固有名詞となったラスベガスは、1820年代後半、ネバダ砂漠の中で窪んだオアシスとなっているのをモルモン教徒が発見。1840年代末にカリフォルニアでゴールドラッシュが起こると、砂漠の中の中継地点として定住者が現れ、1905年、ユニオン・パシフィック鉄道の開通に伴って、水の便の良いラスベガスは蒸気機関車の給水地となり、駅も造られた。
ゴールドラッシュも終わり、1929年の大恐慌で産業のないネバダ州は税収確保のため1931年賭博を合法化した。丁度街の南東48kmにフーバーダムが着工され、1936年に完成。労働者の流入と安価な電力の供給で、街は大きく発展。第二次世界大戦中にはネバダ砂漠に軍事基地や核実験場(ネバダ核実験場)が続々と建設され、その関係者も町に住むようになった。街の北西約105kmの距離にネバダ核実験場がある。
ネバダ核実験場(ラスベガスからわずか100kmほどの距離にある)
人が集まるとギャンブルも盛んになる。終戦後の1946年、「ベンジャミン・シーゲル」が「The Pink Flamingo Hotel & Casino」を6百万ドルで建設、カジノが収益を上げることが判ると、マフィアが続々とホテルを建設し、集客のためにフランク・シナトラやサミー・デイヴィスJr.などのショーを行い、街の建設資金の大半をモルモン教徒が融資した。
Benjamin “Bugsy” Siegel 1946年のThe Pink Flamingo Hotel & Casino 1952‐53年ころのホテル
現在のフラミンゴ・ホテル L.V.ストリップとダウンタウンの主要施設
しかし1960年代後半頃から当局の取締りが厳しくなり、マフィアは次々とホテルの経営権を手放し、ハワード・ヒューズのような大富豪などがこれらのホテルやカジノの経営権を引き継いだ。その後も、限定的なマフィアの介入はあったが、ゲーミング・ライセンス(カジノ開設、運営の権利を定める一連の州法など)の厳格化に伴いその影響力は漸減し、1990年代にはほぼ払拭された。1980年代末頃から巨大テーマホテルブームが起こり、市街は南方に大きく拡張し現在に至っている。現在、客室数ベースで世界12大ホテルのうち11軒がラスベガスに存在する。一定規模以上のカジノの建設は、客室数200室以上のホテルの付帯施設としてしか認可されない。
なお、ネバダ州の人口はわずか270万人、そのほとんどがラスベガス周辺に居住している。
ラスベガスの人、それはやはりフラミンゴのベンジャミン・シーゲルであろう。
今宵のラスベガスの宿舎は、「サーカス・サーカス・ホテル・カジノ&テーマパーク」。ダウンタウンに近いストリップ大通りの北部にあり、ファミリー層をターゲットにした巨大ホテル。
午後7時ころ、バス移動から解放され、ホテルチェックイン後、ただちにオプショナルツアーの「和食ディナーとイルミネーションツアー(何と$165、高い!)」に出発。
まずは、腹ごしらえ。Oodle-Noodleという日本食の店。所詮はうどん屋なのだが、一応会席風の料理がすでに並んでいる。どう高く見積っても$30、残り$135は?と思いつつ食事を済ませる。
アンテロープ・キャニオンから5時間、L.V.に到着 今宵の宿舎サーカス・サーカス サーカスのアトラクションを併設
日本食の店「Oodle-Noodle」と店の名刺
最初に向かったのは、15号線に乗って右手にネオンキラキラのホテル群を見ながらダウンタウンのフリーモントストリート。お目当ては日没後1時間おき約8分の映像と音楽をハイテクアーケードで見るのだが、いやはや大変な人出である。丁度9時前に到着して、1260万画素、60フレーム/秒、2.2MW(発光体)、0.55MW(サウンド)、220台のスピーカーからなる芸術作品?を鑑賞。ストリートの人々の頭上を時折3列のジップラインが走る。
15号線でダウンタウン方面に(右手にサーカスサーカス) フリーモントストリートのジャズライブ どこかで見たような海賊さん
ハイテクアーケードのショーの始まり 時折アーケードのジップラインを人が飛んでいく(写真の黒い人影がそれ)
次なるは、高さ350mのストラトスフィア・タワー(Stratosphere Tower)からの夜景見物。インサニティ、エックス・ストリーム、ビッグ・ショットの3種類の高さを売りにしたアトラクションがあるが、お金をもらっても御免被るアトラクションだ。正直、東京や大阪の夜景と寸分違わない夜景だが、空中遊覧のヘリコプターが結構目線で飛んでいる。
高さ350mのストラトスフィア・タワー 夜のタワー 入場チケット
L.V.の夜景 地上300mの3つのアトラクション 幸いこのアトラクションは乗客なし
最後に向かったのが、ベラッジオの噴水ショー。コモ湖を模したというホテル正面の人造湖で夜は15分ごとに繰り広げられる。パリス、バリーズを背に見るのとベラッジオを背に見るのとでは、幾分雰囲気が異なるのかも。ショーの後はベラッジオのロビーに入りアメリカ人好みのけばけばしいイタリアン装飾を見て、11時頃ホテルに戻る。
パリス、バリーズを正面に噴水ショーを待つ コモ湖を模したというホテル正面の人造湖
15分ごとに繰り広げられる噴水ショー 湖の周りはそぞろ歩きの人でいっぱい
ホテル・ベラッジオのエントランス ロビーを飾る米国人好みにしつらえたきんきらきんのイタリアン装飾
ちなみに1996年春、女房と行ったコモ湖から船で1時間、岬の突端の高級リゾート・ベッラージオとは似ても似つかぬL.V.のべラッジオ・ホテルであった。
食事とタワー入場料(平日$20)以外は無料のショー、3時間半ほどの車と案内・手配で約1万円強、なかなかの商売である。
1996年コモの町から船で1時間、岬の突端のベッラージオの町にて
翌朝なんと4時にホテル出発、ラスベガス発7時20分のAC1899便でバンクーバーに。乗り継ぎで12時50分のRV-1951便で関空に無事到着。
バンクーバーでのトランジットの間、ワールドカップ・ノックアウトステージの初戦「日本対ベルギー」、後半日本が2点先取で大いに盛り上がっていたが、搭乗時刻となり機上の人に。お隣のH氏とこれで3点も取られことはないよね!と勝ちを信じて関空に降り立ったら、まさかまさかの結果。
ラスベガス帰りだけに、カジノ同様一瞬喜ばせて最後はやはり負け。
17名の皆さんと一緒にたくさんの写真を土産に50回目の海外渡航の旅を終えました。
今回の国際線飛行マイルは11639マイル。生涯国際線飛行マイルは、469059マイルとなった。
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