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旅行記、世相独言

Canal Grande -ベネツィア-(異文化体験14 港湾空間を巡る旅6)

2011年06月13日 17時51分40秒 | 異文化体験_西欧
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Canal Grande -ベネツィア-  1992.7.22~24


         
(左)ベネツィアへの入口サンタ・ルチア駅 (右)駅から歩くか、水上バスか、水上タクシーか

 ローマ広場でバスを降りると、今回の宿舎「Bauer Grunwald & Grand Hotel」までは水上バスで行く。狭い運河に行き交うゴンドラを避け、橋に身を縮め、路地の観光客に手を振りながら楽しむこと15分程で、サン・マルコ広場近くのホテルに横付けされる。今宵も有志でサン・マルコ広場に面した「Quadri」という由緒あるレストランで食事を楽しみ、食後はレストラン前の広場のカフェで音楽を楽しみながらジェラートで酔いを覚ます。

 
(左)「Bauer Grunwald & Grand Hotel」     (右)ホテル(左横)の船着き場の水路

 
(左)サンマルコ広場のレストラン「Quadri」    (右)レストラン内部、赤を色調の重厚な内装

 初めて訪れたベネツィア。カナル・グランデを中心に幾つもの迷路のようなカナル群。ゴンドラが行き交い、そこに響き渡るカンツォーネ。地上はサン・マルコ広場を中心に旧市街の狭い路地がカナル同様迷路のように伸び、土産物屋が軒を並べる。この街全体が正に巨大なテーマパークと言える。

 街の中心 カナル・グランデに架かるリアルト橋

 アミューズメント空間としてこの旧市街地を捉えると、一見成功しているかのように見えるが、生活排水の垂れ流しによるカナルの水質悪化、水位上昇に伴う膝までの冠水(最近では年に1回は発生するという)、カナル交通量の増大に伴う通行制限等、水上都市としての機能が揺るぎ始めている。
また、生活空間として見ても、400の橋で各地区が結ばれているものの、海上輸送手段しか持ち得ない現実、カナルが故に寸断される都市基盤施設等々、かなり効率の悪い都市活動が余儀なくされる。過去15万人が住んだこの街も、就業機会の減少や観光客の定住で、今や7万人弱になっていると言う。

 
(左)リアルト橋から見たカナル・グランデ     (右)ベネツィア名物ゴンドラ遊び


 過去、外敵から身を守るためにラグーン上に建設されたこの街は、今やショーアップされた観光都市へと変身した。大勢の観光客を過去の栄華に酔わせしめるこれほど楽しい街は数少ないが、この街の全ての建物、いや街全体を下支えする何万本、何十万本もの松杭や街のあちこちから、大改造を求める悲鳴が私には聞こえてくる。

          
(左)リアルト橋の袂に広がる露店市場街  (右)そのうちの一つ、魚屋さんの店頭

 けたたましい電話の音で叩き起こされ、電話に出ると添乗のS氏が「皆さん、お揃いですよ」と言う。時計を見るとなんと10時!「適当に先に行ってて!」どうも寝過ごしたようだ。どうせ今日は一日中この狭い旧市街の見物なのだからどっかで出くわすだろう、とゆっくり身支度して一人で散策に出る。

 二月のカーニヴァルの仮装仮面、仮面屋さんも沢山ある

 リアルト橋(Ponte di Rialto)から大運河でゴンドラ(30分で80000リラ程度)を楽しむ人々を見つつ、近くの市場を見物。見慣れぬ魚とそのさばきを見物し、スイカで喉を潤し、2月のカルナヴァーレの仮面や屋台の店を覗いていると時間の経つのも忘れる。
 小さなカナル沿いの路地裏で撮影中の建築家安藤忠雄氏にもばったり会う。「こんなとこで、何してまんねん?」「あんたこそ、なにしてんねん?」 久々に聞く大阪弁だ。

 
(左)街のもうひとつの中心、サンマルコ広場    (右)「Quadri」の前の「Cafe Florian」
 
 夕刻からはベネツィア国際水都センター事務局長を囲んでベネツィアの都市問題の懇談会。会食後、通訳をしてくれたお嬢さんがこれからミラノに帰るというので、有志がサン・マルコ広場の「Café Florian」で列車の時間調整。18世紀のプレイボーイ、カサノヴァがここの常連であったとか。同郷のO氏が張り切って駅までお嬢さんをお送りすると言う。
全員曰く「お年寄りだから、まあ、良いか!」

 海軍博物館の前に広がるベネツィア・ラグーナの景色




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