
昨日は一日以前から頼まれていたダンスの衣装の裁断を公民館の講堂に広げて仲間たちと作ってきた。
70M位買ってきた超薄い生地での裁断は気を遣う。でも今の私は何かに夢中になっている方が楽なのである。
夕方帰宅すると次男の孫たちが夕食頃来ると言う。疲れているので本当は明日にして欲しいがあちらにも予定はあるだろうと夕食の買い物に出かける。
私は一週間前に孫たちと旅したばかりなのだが、Gにとっては久しぶりの賑やかな夕食となり、孫の顔を眺めながら満足顔である。
末孫を膝に抱いて「重くなったなぁ~もう抱っこしてあげられないな・・・」と抱きしめている。後のふたりは「僕たちが膝に座ったら爺ちゃん潰れちゃうよ」と言って逃げた。三人を並ばせてじっと眺めていたいようだが孫たちはそうは思うようにはならない。
8/11の血便の後すぐ地域の病院にて大腸検査した結果即総合病院に紹介状を書いてもらい22日に診察に行ってきた。
地域病院にての大腸内視鏡検査の映像を見て「これは場所が悪いです・・・」という言葉のあと画面の説明ではただのポリープではないので簡単に取ることはできないので精密検査をすることになった。
医師の見解では肛門のすぐ近くに腫瘍があり深さもあるので開腹手術になるという。
どんな手術かというと①人工肛門を付けるか②直腸を切って直接肛門に繋げる③そのまま放置しておくと2,3年経つと進行性ガンとなって転移する可能性あり・・・という選択肢があるという説明を受ける。
とにかく決定する前に精密検査を受けることになった。8/25・9/1・9/3・9/5 という日程で検査が続く。
脳梗塞の関係で体力がなけらば手術は受けられない。
いろいろ調べると人工肛門のマイナス面もわかってきた。かといって②にすると陰部神経の温存がうまくいかないと便失禁という状態になる。③はがん細胞転移で2,3年が限度となる。
Gはいろいろ調べるなという。。。。が彼の判断だけに頼ってはいられない。一応下調べは必要なのでインターネットや本で調べているこの頃である。
今日の題名の何と答えればいいのだろうか。。。。。というのは別問題で上の話とは関係ない。
脳梗塞改善のリハビリをしているので歩き方を気にして自分の歩き方の変化を見てくれというのだが、そんなに目に見えてよくなるものではないが「どうだ!前より良くなっただろう?普通に歩いているように見えるだろ?」と問われて答えように困るのである。
どう見ても体全体が左下がりで足は引きずっているのだが、自分ではチャンと歩いていると思っているので「大丈夫よ!歩けているよ」と言うしかない。すると出かけるときもう杖を持たないのである。それも危険なことだ。
今の私はこの絵のように海底で何か一つでも明るさを求めている。昔描いたパソコン画

6時出発の予定が7時過ぎになってしまった。
お盆過ぎなので渋滞は避けられると思いきや事故があったのか途中から渋滞で4時間弱かかってしまった。
一日目はまずはGの実家のお墓にお参りする。暑い!お墓の暑さは特別だ!

次は私の実家→
最後に嫁さんの父親のお墓参り
お墓参りの後私は妹の家に送ってもらい、次男家族は嫁さんの母親の実家に挨拶に出かける。
その日は夕食はそれぞれ別で私は妹宅にてご馳走になる。庭から採ってきたイチジクが美味しかった。

翌日は孫たちの希望で富士急ハイランドに出かけた。途中河口湖に立ち寄る。
さぁ~いっぱい遊ぶぞ~と意気込んで歩く次男家族とそのあとに続くは婆二人(私と嫁の母親)=計7名

人気のある乗り物は待ち時間は1時間以上で年齢制限と身長制限があるため二組みに分かれて楽しむことになる。
何とパパママ長男孫組み・私は魁・慧の小さい組みを任されてしまった。パパママも自分たちが楽しみたいのでチビ達は私に決めたようだ。もう~\(●o○;)/チビ達の乗り物なんかたかが知れている。私だってスピートのある乗り物に乗りたいのにィ~
パパと一緒でこの嬉しそうな顔(パパは切り取る)
雪すべりだよ~ 
嫁さんの母親は 心臓ペースメーカーを入れているので乗り物は一切できないという。辛抱強くレストランの木陰で座っているのだがこれも大変なことである。チビ孫たちの乗り物は待ち時間がないので10ヶ所以上乗り歩いた。途中魁君が迷子になって大慌て、あの広い中では探しようがない。ママに連絡しても携帯が繋がらない。
仕方がないので居なくなった場所でじっと待つことにした。3、40分したら戻ってきた。恵美子ばあちゃんが心配になって見に行ってきたという。いいとこあるよなァ~ 親は一生懸命遊び回っているのに孫が心配してばあちゃんの様子を見に行くとは 魁くんはエライ!と褒めてあげた。
夜の景色も見せたいと言って終了までいた。


最後に家族全員でパチリと末孫が私を写してくれた。ボケ具合が素晴らしくよろしいようで・・・
お盆過ぎなので渋滞は避けられると思いきや事故があったのか途中から渋滞で4時間弱かかってしまった。
一日目はまずはGの実家のお墓にお参りする。暑い!お墓の暑さは特別だ!



お墓参りの後私は妹の家に送ってもらい、次男家族は嫁さんの母親の実家に挨拶に出かける。
その日は夕食はそれぞれ別で私は妹宅にてご馳走になる。庭から採ってきたイチジクが美味しかった。

翌日は孫たちの希望で富士急ハイランドに出かけた。途中河口湖に立ち寄る。
さぁ~いっぱい遊ぶぞ~と意気込んで歩く次男家族とそのあとに続くは婆二人(私と嫁の母親)=計7名

人気のある乗り物は待ち時間は1時間以上で年齢制限と身長制限があるため二組みに分かれて楽しむことになる。
何とパパママ長男孫組み・私は魁・慧の小さい組みを任されてしまった。パパママも自分たちが楽しみたいのでチビ達は私に決めたようだ。もう~\(●o○;)/チビ達の乗り物なんかたかが知れている。私だってスピートのある乗り物に乗りたいのにィ~



嫁さんの母親は 心臓ペースメーカーを入れているので乗り物は一切できないという。辛抱強くレストランの木陰で座っているのだがこれも大変なことである。チビ孫たちの乗り物は待ち時間がないので10ヶ所以上乗り歩いた。途中魁君が迷子になって大慌て、あの広い中では探しようがない。ママに連絡しても携帯が繋がらない。
仕方がないので居なくなった場所でじっと待つことにした。3、40分したら戻ってきた。恵美子ばあちゃんが心配になって見に行ってきたという。いいとこあるよなァ~ 親は一生懸命遊び回っているのに孫が心配してばあちゃんの様子を見に行くとは 魁くんはエライ!と褒めてあげた。
夜の景色も見せたいと言って終了までいた。


最後に家族全員でパチリと末孫が私を写してくれた。ボケ具合が素晴らしくよろしいようで・・・


昨年小さな鉢植えで買ったサザンクロスの花が咲いた。
今年の冬のあの大雪の時旅行中で大切な鉢がたくさんダメージを受けた、シャコバも3鉢腐ってしまった。
小さい鉢のこの花などは枯れ切って隅の方に捨てられた形だった。なのに季節が来たら咲いてくれたではないか。

捨てられても見放されてもキチンと時がが来れば自分を主張できる生命力にあっぱれじゃ!と感謝状を上げたい。
今年は植えなくても朝顔が咲いた。金魚草も咲いた。予想外に咲いてくれると嬉しく感謝の気持ちである。
送り盆も終えて明日いよいよ次男家族と山梨に出かける。6名+途中から嫁の母親の7名で一日目は3ヶ所のお墓参りをしてあと二日は孫たちの遊びを中心に過ごす。Gは一人お留守番だ。嫁さんも置いては行かれないと何度も電話で誘ったが断られたようである。
行かない方が正解だと思う。みんなが気を使って楽しさも半減してしまうから・・・・
孫たちと一緒に遊べるのはあと1年ぐらいだろうと思うので思い切り楽しんでおこう。体力が続くかな??

パソコン水彩画
今年の冬のあの大雪の時旅行中で大切な鉢がたくさんダメージを受けた、シャコバも3鉢腐ってしまった。
小さい鉢のこの花などは枯れ切って隅の方に捨てられた形だった。なのに季節が来たら咲いてくれたではないか。

捨てられても見放されてもキチンと時がが来れば自分を主張できる生命力にあっぱれじゃ!と感謝状を上げたい。
今年は植えなくても朝顔が咲いた。金魚草も咲いた。予想外に咲いてくれると嬉しく感謝の気持ちである。
送り盆も終えて明日いよいよ次男家族と山梨に出かける。6名+途中から嫁の母親の7名で一日目は3ヶ所のお墓参りをしてあと二日は孫たちの遊びを中心に過ごす。Gは一人お留守番だ。嫁さんも置いては行かれないと何度も電話で誘ったが断られたようである。
行かない方が正解だと思う。みんなが気を使って楽しさも半減してしまうから・・・・
孫たちと一緒に遊べるのはあと1年ぐらいだろうと思うので思い切り楽しんでおこう。体力が続くかな??


パソコン水彩画
お墓参りが盆過ぎになってしまう。
お盆中は仏様もそれぞれの家に出かけているだろうからお墓は留守だね。我が家の夫婦の両親はもういない、私の母を一番最後に見送ったのだ。
亡くなった人たちを思い出すのも一人で思い出すのはさみしいが話す相手もいないのでアルバムを出して眺めることにした。
父は50年前に亡くなっている。父親っ子だった私は父の事を語ると長くなる。
明治生まれの父は12,3歳で流行病で両親を失ったので、家族を大切にする優しい父だった。早くに亡くなったので若い頃の写真しかない。自分の子供たちの晴れ姿も見ることもなく逝ってしまった。
亡くなる前の年に私が結婚はしたくない(事情が有って)と言って渋っている時「自分の家族を持つということは素晴らしいことなのだよ・・・」と父の育ってきた話をしてくれたのを思い出す。一度父の波乱の生涯を書いてみたい。苦労をした分優しさのある父だった。

母は95歳で亡くなった。痴呆が進み亡くなる3年前くらいから寝たきり状態になり子供たちの顔もわからなくなっていた。気丈な母で気性の強い人だった。早くに未亡人になったので4人の子供たちを一人前に自立(結婚)させねばならないという焦りというか心構えが強すぎて私は随分反抗したものである。
認知症が進行してからも歩けるうちは毎年三姉妹と連れ立って旅行をした。
この写真はまだ母が髪を染めているのでいくつの時だろうか。白髪ではない私は65歳前である。この時はもう母は認知症が進んでいた。

この写真が↓寝たきりになる前の年に行った旅行で母+三姉妹の最後の旅になってしまった。仲良し三姉妹だったのにバリアフリーになれるだろうか残念でしかたがない。三人の娘の名前と顔が一致しなくなった頃・・・・

こうして思い出すのも供養の一つだと思う。
下の写真は名古屋に家族で出かけた時のもので私と妹以外はもうみんな彼岸にわたってしまった。
母方の祖母と弟を連れての旅行である。
お盆中は仏様もそれぞれの家に出かけているだろうからお墓は留守だね。我が家の夫婦の両親はもういない、私の母を一番最後に見送ったのだ。
亡くなった人たちを思い出すのも一人で思い出すのはさみしいが話す相手もいないのでアルバムを出して眺めることにした。
父は50年前に亡くなっている。父親っ子だった私は父の事を語ると長くなる。
明治生まれの父は12,3歳で流行病で両親を失ったので、家族を大切にする優しい父だった。早くに亡くなったので若い頃の写真しかない。自分の子供たちの晴れ姿も見ることもなく逝ってしまった。
亡くなる前の年に私が結婚はしたくない(事情が有って)と言って渋っている時「自分の家族を持つということは素晴らしいことなのだよ・・・」と父の育ってきた話をしてくれたのを思い出す。一度父の波乱の生涯を書いてみたい。苦労をした分優しさのある父だった。


母は95歳で亡くなった。痴呆が進み亡くなる3年前くらいから寝たきり状態になり子供たちの顔もわからなくなっていた。気丈な母で気性の強い人だった。早くに未亡人になったので4人の子供たちを一人前に自立(結婚)させねばならないという焦りというか心構えが強すぎて私は随分反抗したものである。
認知症が進行してからも歩けるうちは毎年三姉妹と連れ立って旅行をした。
この写真はまだ母が髪を染めているのでいくつの時だろうか。白髪ではない私は65歳前である。この時はもう母は認知症が進んでいた。

この写真が↓寝たきりになる前の年に行った旅行で母+三姉妹の最後の旅になってしまった。仲良し三姉妹だったのにバリアフリーになれるだろうか残念でしかたがない。三人の娘の名前と顔が一致しなくなった頃・・・・


こうして思い出すのも供養の一つだと思う。
下の写真は名古屋に家族で出かけた時のもので私と妹以外はもうみんな彼岸にわたってしまった。
母方の祖母と弟を連れての旅行である。
