こんな台詞の歌があったような気がする。
じっとつぶらな瞳?でパソコンをしている私を窓ガラスの向こうから見ているのは誰??外は小雨なのに濡れてしまうよ。天使のような君の名前はなんていうの?
なんと可愛い姿でしょう。天使のような蛾とはじめてあった瞬間じっと見つめ合った。この目がなんとも言えないかわいらしさ・・・部屋に入りたいのかな?私の目の前1mくらいの所から離れない、手を伸してガラスを触っても逃げないよ。
与作爺の料理
先日ブログ友の料理したカレーを見て我が家でも作ることにした。一人だと料理はしないが隣に助手がいると俄然やる気になる爺である。
ジャガイモの皮むきと切るのは助手 ガスコンロの前に立って炒めて助手が揃えた調味料を入れるだけ、カレールーが見つからずハッシュドビーフの変更となる。かき回すだけの爺だが自分の作る出来上がった物に満足気味である。
いまは複雑なことを同時にすることは無理がある。「俺には手が二本しかない」という。
昨日の昼は焼きそばを作る。もちろん助手付きである。二人分だとかき回すのも大変そうだ。「おい!下が焦げてきたぞ!」「大丈夫よ ヘラをつかって下から持ち上げてみて・・・」とこんな調子で仕上がる。
「どうだ 上手いものだろう」とご満悦。何でも良い楽しんで作れればそれでいいのだ。
普段のパン食のこの献立は一人でできるので助手はいらない。
今年1月の爺の脳検査はこんな状態だった。
何回も脳梗塞を繰り返しているので血管の空間が幾つも見つかった。
医師「この状態だと瞬間的な判断をすることは難しいです。複雑なことを総合的な判断(全体をふまえての判断)の衰えが進行する。」と告げられたが、まだ軽症で病院に一人で来て支払いをして薬をもらって帰宅することができるのですからいまの状態を維持することである。
難聴で相手とのコミュニケーションがうまくとれずイライラすることもあり、人と積極的に関わることが困難になり認知症も進行するのかもしれない。特に最近感じることは自分の周りの気配を感じ取れなくなっているので、私が家の中を歩き回ることで驚く事が多くなった。
性格が超神経質でこだわりの強い人なので心配でもある。
ある反面 非常に几帳面で物事をきちんと整理整頓ができ経済的なことでは私などとても真似出来ないことがあるのだ。
これは流動性知能と結晶性知能の違いであると思う。
とにかくよく働きのんびり休むことがない人で常に何かしている。
今は昼食後昼休みもせず自分と私の自転車の掃除をしている。油を差して磨いて掃除をしている。
この間は朝起きて窓を開けると庭に誰かが座っている、よく見ると与作爺が草取りをしていた。5時起きらしい・・・私には絶対真似はできない。
ゴロンとテレビを見ている姿を見たことがない。自分の部屋で机に向かっているか本箱や棚の整理整頓をしているか絶えず動いている。それがたぶん彼にとっては一人で自由な楽しい時間なのだろう。
でも一人で籠もってしまってはいけないのだ。気を遣うであろうが他人とのコミュニケーションが大切である。
感動・興味・工夫のある充実した人生を過ごすよう生活習慣を見直すことが生き甲斐に繋がるのではないだろうか。口うるさく騒々しい私が側にいるだけでもいいのかも?・・・・
しかしイライラが高じて大声を出したり物に当たったりすることもあるので、その対応が難しいのであるが、彼もそういう自分をコントロールできないことに苦しんでいるのかもしれない。