武田信玄が住んでいたという武田神社
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鳥居を背に続くこの道を少し下ったところに私の通っていた学校がある。山梨大学付属小・中学校である。甲府の南位置に住んでいた私はこの北位置の学校まで自転車で通っていた、この一本道は少し坂道だったので朝は大変だったが帰りは坂道を勢いよく降りるのが楽しかった思い出がある。
ルーツ探しを始めたが奥が深すぎて今日も半日パソコンに張り付きトレーニングもしてない。武田信玄24武将の一人という事までにすればよかったがその後がとめどもなく続いてしまった。我が実家の家紋と同じだ。
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ここから先がもう理解できない。
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建許呂命(たけころのみこと)は古墳時代の豪族。
『姓氏録』によれば天津彦根命の14世あるいは12世の子孫にあたり、中央氏族の三枝部連と庵智造(以上大和国神別)、高市県主(和泉国神別)の祖とされる。。。。。こうなると意味不明状態になるがこの先はもっと大変なことになる。
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『姓氏録』によれば天津彦根命の14世あるいは12世の子孫にあたり、中央氏族の三枝部連と庵智造(以上大和国神別)、高市県主(和泉国神別)の祖とされる。
こんなことを調べて何を分かろうとしているのか自分でも分からなくなってきた。
いまも、甲斐(山梨県)には三枝姓を名乗る家が多く、三枝氏の血脈はこうして現代に受け継がれたのである。一方、三枝氏の一族である石原氏は、武田滅亡後、徳川家康に仕え徳川旗本として続いた。
この後進めていくと
「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述するものである…平安時代になる。
白河上皇は、鳥羽天皇の第一皇子(崇徳天皇)を皇位につけた後に崩じ、鳥羽上皇が院政を布くこととなった…とここまでくるともう繋がりも何も分からない。分からなくていいのだ。
清和源氏
源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、清和源氏はそのうちの一つで清和天皇から分かれた氏族である。天皇の位置関係も左右に分かれてどのようにたどり着くのか恐ろしくなり天皇ルーツは終了することにした。
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大善寺は三枝氏が創建した関東でも屈指の古刹である
三枝守友の遠い先祖であることは間違いないだろう。
応保二年(1162)、甲斐守に任ぜられた藤原忠重は遥任国守として中原清弘を甲斐へ赴任させた。とはいえ、実務を預かったのは在庁官人の三枝守政であった。
武田信玄公のもとで戦いを続けた三枝守友武将と甲斐の国を実務で守ってきた三枝守政が居たことで充分であった。三枝氏に感謝の祈りをささげる。