いろはに踊る

 シルバー社交ダンス風景・娘のエッセイ・心に留めた言葉を中心にキーボード上で気の向くままに踊ってみたい。

柴犬の北斗

2005年09月08日 10時19分46秒 | Weblog
 十九歳三ヶ月。人間で言えば百歳以上で平成14年12月に波が引くようにスー
と私の腕を枕に息を引き取り、今は花に囲まれた庭に眠っている。毎朝、北斗
に「おはよう」と言いながらお水を供えている。

 兎に角、人間の心を読み取ることに長けていた。目と目を合わせれば、お互
い何を欲しているかが分かった。階段を自由に登り降り出来ていた頃は、私た
ちの寝室と同じところで寝ていた。

眠くなると、さっさと二階に上がり、ワンワンと吠える。早く寝ようとの催促で
ある。また、勤めから帰れば必ず玄関で待ち、入るや否や私のズボンのポケッ

トに首を突っ込んでハンカチを取り出す。元気な間続いたコミにケーションだっ
た。そして、次女がハーモニカを吹けば、それに合わせて声を張り上げてもいた。

 また、エッセイの主娘が入院中、病院へは226日間通った。帰宅すると、北斗
が何時もと変わりなく出迎えてくれた。落ち込んでいる心をどれほど癒してくれ
たことか言葉に尽くせないほど家族の心の支えとなってくれた北斗だった。どれ
ほど救われたかしれない。

思いは尽きない。単身赴任地では『シバ犬をとてもかわいがっており、当地には
家族ではなく犬の写真だけ持ってきた』と日刊紙に書かれもした。

そして、娘のこのエッセイを読み返し、ありし日の食卓風景が思い起こされる。
食事時には必ず、脇に北斗が居た。食卓にアゴをのせのおねだりである。そし
て、娘にたびたびの苦言、注意をされたことを!

 在りし日の、家族団らんの風景がDVDの画面に映し出されたかのように、
私の脳裏には鮮明に浮かび上がってくる。
 
 今日日、お年寄りの機能回復に動物、特に犬との接触が喜ばれ効果も絶大と
の実証もある。今、二人だけの生活。相棒を欲しいと思うが、その分、二人で
シルバー社交ダンスに興じている。部屋のあちこちに飾られた北斗の写真、
その目は、お散歩を催促している。




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愛という名の落とし穴 69編

2005年09月08日 08時40分03秒 | 娘のエッセイ
 我が家の愛犬、柴犬の北斗は今年十三歳のおじいちゃん犬だ。いたって元気
な彼の一番の悩みは”肥満”であり、その肥満の原因は私の両親の”甘やかし”
にある。

 十三年前、まだ生後一ヶ月そこそこの子犬の頃から、北斗は家族中の愛情を
いっぱい受けて育ってきた。けれど、ここ数年の両親の北斗に対する甘やかし
は目に余る。

 両親がそれだけ年をとり、孫がわりに可愛がっているのかもしれないが、ねだ
られればねだられただけ『ご褒美』をあげてしまう両親を見ていると、”両親は、
犬のことを本当に思っているのか”と、疑ってしまう。

 愛犬の健康を思いやるよりも”喜ぶ姿が見たい” ”ねだる仕種が可愛いから
与えたい”そんな誘惑にまけてしまうらしい。

北斗のでっぷりした腹部を見ていると、彼は両親の愛情という名を借りた自己
満足の犠牲者(犠牲犬)ではないかと思ってしまう。

そしてそんな愛犬の姿と、なんとなく重なって見えてくるのは、過保護に育てら
た子供達の姿だ。

 最近、十代の少年達の犯罪が相次いで発生している。彼らは、親から、さまざ
まなものを十分に与えられている。住居や食事、物欲を満たすものの、そして自
由な時間。

それなのに『ただムシャクシャした』という理由から犯罪を起こす少年。そして、
子の、一番身近にいながら親は理解できない。「こんなに子供を愛しているの
に」と、親は思うかもしれない。

けれど一度『愛』という名の目隠しを付けてしまうと、真実がみえなくなってし
まうことがありはしないか。

 目隠しをしていたから、目の前の落とし穴に気付かなかった。けれど何かの拍
手に目隠しが外れた時、子供は自分が大きな落とし穴に落ちていたことに気付
いた。

子供はその穴から出ようともがいた。でも、出ることは難しかった。何故ならそ
の落とし穴は、愛という大義名分を借りた、大きな大きな穴だったから。



 
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愛があれば… 68編

2005年09月07日 08時11分23秒 | 娘のエッセイ
 『愛があれば年の差なんて』この言葉にウンウンとうなずけるのは、恐らく年の
差のある恋をした経験がない人と、そのハンディを乗り切った人だけだろう。

 愛があれば…なんて嘘だっ!と思ったことのある人は少なくないはず。なぜっ
て年齢差のある恋愛には、必ずと言っていい程、障害がオマケについてくるから
だ。
 一 世間の目。男性がうんと上、あるいは女性が年上。両方とも世間の目は冷たい? 
 二 育った世代のちがいからくる意志の疎通の難しさや誤解、興味対象物の違い。
 三 年が離れているからこその甘え、甘やかし、過度の要求。
 四 体力の差。気力の差。

 本当はもっとあるだろうが、書き出したらきりがないので「その四」でやめてお
こう。

 近頃、年上の女性というのが流行りらしい。男性週刊誌の記事や漫画、テレビ
ドラマでもよく見かける。この間見たドラマもそうだった。その中の台詞がジンと
くる。デートの別れ際、女性が男性に向かって言う。

「恋は嫌いなの。必ず終わりがくるから。それを知っているのが私とあなたの年
の差」

 恋は風船みたいだ。勢いよく空気を入れて入れすぎるとパンと弾けてしまう。
けれど、弾けないようにと少なめに空気を入れては口を結んでおいても、月日が

経つと風船は自然にしぼんでゆく。結局恋というものは、いつかは必ず消えてし
まうものなのかもしれない。

 恋が風船なら愛は何? 愛は水銀じゃないだろうか。ひとかたまりの水銀は、
バラバラになっても何かの拍子にちょっとでも触れると、たちまちまた一つのか
たまりになれる。愛ってそれに似ているんじゃないのかな?

 生涯、男女間の水銀は一つだけでもいいけれど、風船は両手いっぱいもって
いたい。だから、いくつになっても風船をふくらますことが出来る感性と、ふくら
ませてもらえる魅力を持ち続けていたいと思う。
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ブランドとバック 67編

2005年09月06日 08時22分11秒 | 娘のエッセイ
 男性が女性を見る時は、顔やボディに最初に目がいくのに、女性が女性を見
る場合は、まず始めに相手の持ち物を見るのだということを、以前雑誌で読ん
だことがある。

 そう指摘されれば、”なるほど”と思う。確かに私も、見知らぬ女性を見るとき
には、その姿形よりも、持ち物に目を止めることが多い。

靴を見て、バッグを見て、時計・アクセサリー類をチエックし、”総額幾ら”と素
早く計算してしまったりすることも、ままある。

そうした小物のなかでも、特に目がいきやすいのはバッグ類だ。特にブランド物
のバッグというのは、目につきやすい上、値段もガラス張りで判りやすい。

お洒落にあまり興味のない友達さえ「シャネルのバッグを見ると、つい気になる」
というくらいなのだから。

 ところが、このシャネル、値段は高級だけれど、実はチープシックなものだそう
だ。バーバー寺岡さんによると『本来なら高級な背中の皮を使うかわりに、お腹
の伸びる皮を使用している。だから補強の為に、ステッチがかけてあり、ヒモも
クサリで補強してある』のだとのこと。

 これに対しルイビトンは、欧米では上級クラスの持ち物で、旅行に例えるなら、
ホテルは一流、移動も専用車、専属の鞄持ちがいて…といった具合だそうだ。

そういえばビィトンが有名になったきっかけは、タイタニック号が沈没した際、引
き上げられたビィトンのトランクから出てきた品物が、まったく痛んでいなかった
からだ、という話も聞いたことがある。

 私達世代は、二十代前半からビィトンを初めとするブランドの洗礼を受けてき
た。あれから十年たった今、私のビィトンのバッグは箪笥の奥で埃をかむってい
る。

 見栄の象徴のあのマークが恥ずかしくなってしまったのだ。今や高校生ブラン
ドとまで言われているシャネルやビィトン。

 私がビィトンのバッグを持つことはもうないだろう。見栄で持っていたバッグは、
もういらない。人と同じバッグじゃつまらない。
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妖怪 66編

2005年09月05日 07時57分28秒 | 娘のエッセイ
 今、私と彼が夢中になっているもの、それは、巷でも大人気のUFOキャッチ
ャーなるゲームである。ルールは簡単、ただボタンを押してシャベルを動かし、
ぬいぐるみを取るだけだ。

いろいろな種類のぬいぐるみがあるが、中でも私達のお気に入りなのは、ウルト
ラマンシリーズとゲゲゲの鬼太郎シリーズ。数ある戦利品のうちで、かわいいくっ
て仕方がないのは、苦労して取ったウルトラマンと一反もめんちゃん。

特に一反もめは、難易度五の強者である。ゲゲゲの鬼太郎シリーズには、他に
も目玉おやじや砂かけばばあ、子泣きじじいなど多々あるが、どれもその名に

似合わぬオチャメな顔をしている。ああ、怖いはずの妖怪も、ぬいぐるみになる
とこんなにかわいらしくなってしまうのね。悲劇……

 最近、やたらとオカルト番組が多い。夏でなくとも多い。それらの番組を見て
いる時、私にはいつもある記憶が蘇ってくる。

人は誰でも感受性の最も強い思春期には、霊感が強くなるそうである。そんな
思春期のまっただなか、中学二年生の時に体験した出来事だった。

 その頃、私は桃子というクラスメイトと親しくなった。彼女は元々霊感が強い子
で、様々な体験をしているらしかったが、私と一緒にいるようになってからは、
それが増えたそうだ。

私にも同じことが言えた。彼女といると、何故か不思議な事ばかりが身近に起こ
った。ある日、桃子は放課後の教室の窓際の一番後ろの席で、だらんと腕を垂
らしていた。

「何にをしているの?」と聞くと、「座敷わらしが私の手で遊ぶの」と言う。
私も同じ事をすると、自然と手が動いた。
「座敷わらしだ!」ふたりでそうしてしばらくの間、座敷わらし?と遊んだのだっ
た。

 あれから十年以上経つ。今の私には、まったく不思議なことは起こらない。
純粋な心の持ち主にしか見えないという『座敷わらし』は、もう私の手と遊んで
はくれない。
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薬 65編

2005年09月04日 08時00分02秒 | 娘のエッセイ
 私が病院に勤務していた頃のこと。後輩の女の子が、とんでもない間違いを起
こした。一日分(朝・昼・晩)の量である三錠が一包みになっている便秘薬を、
一包みが一回分と勘違いして膨大な量の便秘薬を患者に渡してしまったのである。

しかもその薬をもらった患者は、一週間その薬を誤った飲み方で飲み「もっとく
れ」と言い出した。その後どうしたのかは忘れてしまったが、患者のおなかはど
うなっていたのだろう。

 高齢者達はよく薬を要求した。診療を受け、受付に来て薬が出ていないのを
知ると、必ず言う。「薬を下さい」そして彼らは山のような飲み薬や塗り薬を
もらってゆく。

薬を飲まないということに、高齢者達はとても不安を抱く。健康になったから薬
は要らないのに、薬を常に飲んでいないと自分は病気になるとでも思っているみ
たいだ。

 それとは反対に、薬を飲むのを極端に嫌がる人もいる。私の弟は「自己治療
する」と言って薬を飲まない。それでもスポーツで鍛えた体は回復力が旺盛で、
不思議と傷や風は早いうちに治った。

ま、こういう輩は害がないが、前に勤めていた会社には困った頑固ちゃんがい
いた。彼女は絶対に薬を飲まない。

頭痛がするけれどバファりンを飲まない……これは自分が苦しむだけだから、
ほっとけばいい。

厄介なのは、彼女が風邪をひいた時だ。コホコホと咳をしながら仕事をし、鼻を
かむ為に頻繁に席を立ち洗面所へ向かう。一週間経っても彼女のコホコホは変
わらない。

 「風邪薬は飲んでいるの?」と聞くと「私は薬は飲まないことにしている」と
言いながらコホコホである。

そのうち、周囲の人達が一人、二人と咳をしはじめる。そして気付くと一緒に仕
事をしている二十数人のほとんどが風邪っぴきだ。実に傍迷惑な話である。

 薬に依存しすぎる高齢者と、薬を意味もなく過敏に拒否する女の子。薬に対す
るこういう極端な意識を、改善する為の薬はないのだろうか。
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名前をなくした彼女達 64編

2005年09月03日 08時05分18秒 | 娘のエッセイ
 高校を卒業してから十年とすこぉし。その頃の仲間たちのほとんどは、名前がな
くなってしまった。もっと正確に言うと、日常生活の中で、彼女達個人の名前が消
えてしまったということである。

 集合住宅の中で彼女達は『××さんの奥さん』と呼ばれ、子供の幼稚園で一緒
のお母さん仲間からは『△△ちゃんのお母さん』と呼ばれる。そういった日常の
お付き合いの中で、彼女達が個人名である『○子さん』と呼ばれることはほとんど
ない。

つまり日常生活の中に、個人である『○子さん』は存在しないのである。つまり、
いつのまにか○子さんは透明人間と化してしまったのである。

 透明人間になるだけなら笑い話ですむが、名前を失ってしまった彼女達は、
その内面まで変質する。

昔、趣味の話で盛り上がった○子も、政治を批判しあった○子も、夢を語った
○子も、勉強熱心だった○子も、もういない。名前を失った彼女達も皆、以前は
豊富な話題をもつ、魅力的な女性達だったはずなのだ。

 彼女達の思考回路は、『○子の考え』から変質して、『××さんの奥さんの考
え』か『△△ちゃんのおかあさんの考え』という回路ワンパターンになってしま
うのだ。

そんな彼女達と会話する時、私は無意識のうちに彼女向きの話題ばかりを提供
してしまっている。つまり子供とダンナの話題。ご近所の話、ほか彼女近辺の
話題だ。

 もちろん、たまには彼女達の体験談などという興味深く、ためになる話も聞け
たりするが、ほとんどは井戸端会議的内容に始終してしまう。こんな現実に対し
て、私は大いに不満である。

 日本では、どうして名前で呼び掛けないのだろう。夫婦間でおとうさん、おか
あさんと呼び合うのだって変だ。この国で、一生個人でいることは、とても難しい。
それは別姓の問題以前の、もっと根源的な大きなテーマだと思う。
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アスファルトの道 63編

2005年09月02日 08時27分21秒 | 娘のエッセイ
 「私が結婚するって知ったらさ『当然、家庭に入るんでしょ』みたいなこと、
おばさんたちがい言うのよ!アッタマきちゃう!」

 やり手の保険外交ウーマン、T子が逢うなり愚痴る。「なんで、同じ女性の足
をひっぱろうとするのかしらね。どうして応援してくれないんだろうね」「世の
中、そんなものよ」と言いながら、私自身もクラークなる。

 学校を卒業した後、社会勉強と称して2・3年腰掛けで働く。そして結婚して
専業主婦へ。さらに家計に頭を悩ましながら何人かの子供を産み、育てる。これ

で女の人生ゲーム一丁上がり! てな人生が、私たちの母親たちの知っている
女の一生の流れなのだろう。

しかし私達の世代の女性たちは、少なからずそのノーマルな女の道という古い
固定観念に悩まされているような気がする。

 例えば私。転職の為に家にいたら、おばさんたちが、「花嫁修行でしょ」。
結婚したT子は、両親の「子供はまだ?」攻撃に憤慨していたが、第一子を産ん
だら産んだで、今度は「次はいつ?」攻撃に悩んでいる。

結婚適齢期のことで迷いつづけたM子は早すぎた出産を後悔し、「この子さえい
なければ」という思いと葛藤し続け、子供が3歳になった今、やっと子供を可愛い
と思えるようになったと告白した。

 これら皆、女は結婚しなければ、子供を産まなければ普通じゃない、幸せじゃ
ないという幽霊みたいな固定観念の産物である。

 俗に言う普通の女の人生というのは、まるで舗装されたアスファルト道路みた
いだ。歩きやすいから大勢の人がその上を歩くけど、裸足で歩きたくなるほど、
気持ちのいい道じゃない。

歩きやすい、安全第一の道がベストとは限らない。土の道や砂利道が好きだっ
ていいじゃない。

もしかしたら、そういう道を歩いたほうが、綺麗な小川や逞しい野の花に出会え
たりして、多くのものが見えるかもしれない。

 たとえ、雨に濡れても、枝で怪我をしたとしても……。アスファルトは、嫌い。


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名前の選択 62編

2005年09月01日 08時22分15秒 | 娘のエッセイ
 夫婦別姓が法律化されるかどうかが、話題になっている。
 私がまだ学生だった頃「名前が変わりました」という報告は、ある種、幸せの象
徴のようなものだった。

しかし時代が流れ、女性達の意識と生き方が変わった今、結婚による姓の変更
は、決して少なくない数の女性達に苦痛を与えるものとなってしまったのである。

 今年の春、結婚することが決まった友人のT子。彼女は保険会社に勤めてい
る。しかもかなり優秀な営業ウーマンだ。彼女は結婚するにあたり、自分の姓が
変わってしまうことに対してとても頭を悩ましていた。

つまり「せっかく名前えを覚えてもらったのに……」ということである。しかし、
彼女の女性上司は「いままでより、これからのほうが仕事を続けていく時間は
長いのだから、今、名前を変えてもなんの障害にもならないわよ」と、T子に

忠告したらしい。結局彼女は夫の姓になるようだが、一抹の不安(不満?)はあ
るようだった。

 ところで、仕事や性差別以外の面でも、姓を変えることによる弊害はある。
「ミキ」さんという名の知人がいる。そして彼女が結婚した相手の姓は、三木。

つまり、彼女は結婚して「ミキミキ」になってしまったのだ。なんと愉快な名。
もし彼女の名がさくらで、桜さんと結婚したら「さくらさくら」。歌を歌っちゃ
いそうな名である。

 うーん、こんなことで遊んじゃいけない。そう言えば私の母はどんな姓にも合
うようにと、私達二人の娘には「子」のつく名前を付けたそうだ。

なるほど件のミキさんも、ミキコという名なら「ミキミキコ」という収まりのいい
名になる。でも、果たしてそれがいいことなのか?

 ところで、ユーミンのように「相手の名が松任谷だったから結婚した」という
女性もいるのだから(実にユーミンらしい)一概には言えないが、「名前が変わ
りました」は、もう幸せの象徴ではなくなってしまったらしい。
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