今日は2時限目、リハビリテーション概論の講義、リハビリの諸相について話をする。昨日までの出張で身体が跳ねない。それでも、いつもどおりの授業力にする。それが仕事だが、多少、呂律に問題が生じる。
昼食をとれず、そのまま健康科学研究所開所記念シンポジウムの打ち合わせを行う。伊藤正男先生をお迎えする予定である。
間髪いれずに4時限、5時限の神経系理学療法学へ。まだ自分の全貌は見せていない。脳卒中リハビリテーションはそんなに単純でない。そして、単純な思考回路では何も生まれない。
大事なのは複雑な思考回路から単純な介入を創造し、そしてその現象を複雑に捉える。この思考回路の循環なんだが、昨今の介護予防事業にはそんな複雑性はない。片麻痺の麻痺側でトレーニングマシンを無理やり、痛がりながら、操作している介入手続きに何の夢も希望もない。そして、その効果の責任も誰もとらない。もっと無力になるのは、脳科学の勉強をしているにもかかわらず、ミラーニューロンだの、運動イメージだの言っているにも関わらず、臨床の創造性は相当に乏しく、結局は、そうした筋力トレーニングを行ってしまう一貫性のない、矛盾だらけのセラピストが増えたことである。そんなことなら、イメージなんぞの研究なんてしなくてよい。筋トレしたら、「何か」が改善した。その「何か」を選択するのは、人の脳である。それは主観であることに間違いない。観察者の視点に影響を受ける。その結果に一喜一憂し、介入手法から創造性をカットしていく、この科学観は、人間を機械にしていく手続きである。ピカソのキュビズムの批判を受け、真摯に科学とは何かを考えていただきたい。自分のやっていることを常に批判的吟味する自分をつくってもらいたい。これは脳に対してアプローチしている者ももちろんである。
極力矛盾をなくすこと、極力一貫性をもたらすこと、それが科学性だし、臨床哲学であると思う。
自らのこころを踏み絵にしてまで国家に従う必要は無い。
「裏切られた期待」
いつまで脳卒中者のリハビリテーションに対する期待が裏切れ続けるのか・・・
そんなことを考えながら、100年前の理学療法を話している自分、科学もへったくれもない理学療法を話している自分が、矛盾だらけで嫌いだ。
そんなことを考えている「教授陣」がどれだけ日本にいるだろう。現状を伝えるばかりで、自分のコピーを作ろうと執着するばかりで・・・ そこには、近未来に向けた「共同注意」機構は発生しない。「共同注意」とは謙虚のきわみだ。「わからない」と率直に思い、仮説を生み出す、それが臨床だし、教育だ。
研究をしているやつらがこれだけいるが、そこには創造的な仮説はない。結局は付け焼刃だし、受け売りじゃないだろうか。
今日受け取った雑誌理学療法学では、脳卒中のリハを論議するときに、他人のことばかり書き、自らの理論がないものが多かった。誰がなにをいようが、おまえの理論はどこにあるんだ、と聞きたい。
科学の裏づけなく実践のみに夢中になるのは舵も船頭もない無いどこにくやらわからない船のようなものだ。ダビンチのことばが耳に刺さるだろう。
後付の理論のみで勝負して、楽しいだろうか?
今一歩、教育の本質を考えることが、全体的にできないのだろうか。協会はこのままの臨床教育システムでよいのだろうか。結局はパスにしたがうしかできないセラピストが生産されないのだろうか。それは、大脳皮質のはぐくみに向けた教育ではない。多様性がないからだ。大脳皮質は多様性のきわみだし、そのなかから自分というセラピストを作るという選択性を生み出す。選択性が最初から決まっている業界に発展性はない。真剣に考えたいが、現状の教育システムでは、臨床実習教育システム、国家試験システムの呪縛から逃れれない。
そんなことを考えながら、大学院の授業に19時40分に入り、みんなの研究計画を聞く。
本日は、幻聴、統合失調症、自閉症、リズム、情動、共感システム、視線、パーソナルスペースなどのテーマであった。
受け売りでなく、仮説に根拠(結果に根拠でない)をもたらし、斬新な研究計画を求める。それが、治療計画に発展するからだ。問題解決能力がある人間は、臨床をしながら、現象を観察した際、次から次と仮説が生まれる人間である。
研究も同じである。
22時に終了し、今日は食事もとらず、がんばり続けた。
私に研究時間を与えてちょうだいとも思うが、それでも実験をするということを見せていきたい。
それは本気でリハビリテーション対象者を良くしたいからだ。
真のQOLから逃げてはいけない。
QOLとは脳のシステムのきわみである。
多様なもののなからら、自らの視点で選択できるよう、運動にしろ、行動にしろ変化をもたらしていかないといけない。
その多様性を生み出すためには、相当な思考回路が必要である。
馬鹿の一つ覚えに(ただ単に)動かせればよいのではない。
苦しいが、いばらの道だが、「未来」を見つめていきたい。
そのための教育である。
新年度の大学院生を求めます。
明日は滋賀です。
以前の私のHP(森岡研究室)とyahooブログなどを閉鎖しました。
先日のTrailblaze研究会のスライドは、下記のページに貼り付ける予定です。
http://www.geocities.jp/neurorelab/
中林先生、すみませんが問い合わせがあれば、よろしく!
昼食をとれず、そのまま健康科学研究所開所記念シンポジウムの打ち合わせを行う。伊藤正男先生をお迎えする予定である。
間髪いれずに4時限、5時限の神経系理学療法学へ。まだ自分の全貌は見せていない。脳卒中リハビリテーションはそんなに単純でない。そして、単純な思考回路では何も生まれない。
大事なのは複雑な思考回路から単純な介入を創造し、そしてその現象を複雑に捉える。この思考回路の循環なんだが、昨今の介護予防事業にはそんな複雑性はない。片麻痺の麻痺側でトレーニングマシンを無理やり、痛がりながら、操作している介入手続きに何の夢も希望もない。そして、その効果の責任も誰もとらない。もっと無力になるのは、脳科学の勉強をしているにもかかわらず、ミラーニューロンだの、運動イメージだの言っているにも関わらず、臨床の創造性は相当に乏しく、結局は、そうした筋力トレーニングを行ってしまう一貫性のない、矛盾だらけのセラピストが増えたことである。そんなことなら、イメージなんぞの研究なんてしなくてよい。筋トレしたら、「何か」が改善した。その「何か」を選択するのは、人の脳である。それは主観であることに間違いない。観察者の視点に影響を受ける。その結果に一喜一憂し、介入手法から創造性をカットしていく、この科学観は、人間を機械にしていく手続きである。ピカソのキュビズムの批判を受け、真摯に科学とは何かを考えていただきたい。自分のやっていることを常に批判的吟味する自分をつくってもらいたい。これは脳に対してアプローチしている者ももちろんである。
極力矛盾をなくすこと、極力一貫性をもたらすこと、それが科学性だし、臨床哲学であると思う。
自らのこころを踏み絵にしてまで国家に従う必要は無い。
「裏切られた期待」
いつまで脳卒中者のリハビリテーションに対する期待が裏切れ続けるのか・・・
そんなことを考えながら、100年前の理学療法を話している自分、科学もへったくれもない理学療法を話している自分が、矛盾だらけで嫌いだ。
そんなことを考えている「教授陣」がどれだけ日本にいるだろう。現状を伝えるばかりで、自分のコピーを作ろうと執着するばかりで・・・ そこには、近未来に向けた「共同注意」機構は発生しない。「共同注意」とは謙虚のきわみだ。「わからない」と率直に思い、仮説を生み出す、それが臨床だし、教育だ。
研究をしているやつらがこれだけいるが、そこには創造的な仮説はない。結局は付け焼刃だし、受け売りじゃないだろうか。
今日受け取った雑誌理学療法学では、脳卒中のリハを論議するときに、他人のことばかり書き、自らの理論がないものが多かった。誰がなにをいようが、おまえの理論はどこにあるんだ、と聞きたい。
科学の裏づけなく実践のみに夢中になるのは舵も船頭もない無いどこにくやらわからない船のようなものだ。ダビンチのことばが耳に刺さるだろう。
後付の理論のみで勝負して、楽しいだろうか?
今一歩、教育の本質を考えることが、全体的にできないのだろうか。協会はこのままの臨床教育システムでよいのだろうか。結局はパスにしたがうしかできないセラピストが生産されないのだろうか。それは、大脳皮質のはぐくみに向けた教育ではない。多様性がないからだ。大脳皮質は多様性のきわみだし、そのなかから自分というセラピストを作るという選択性を生み出す。選択性が最初から決まっている業界に発展性はない。真剣に考えたいが、現状の教育システムでは、臨床実習教育システム、国家試験システムの呪縛から逃れれない。
そんなことを考えながら、大学院の授業に19時40分に入り、みんなの研究計画を聞く。
本日は、幻聴、統合失調症、自閉症、リズム、情動、共感システム、視線、パーソナルスペースなどのテーマであった。
受け売りでなく、仮説に根拠(結果に根拠でない)をもたらし、斬新な研究計画を求める。それが、治療計画に発展するからだ。問題解決能力がある人間は、臨床をしながら、現象を観察した際、次から次と仮説が生まれる人間である。
研究も同じである。
22時に終了し、今日は食事もとらず、がんばり続けた。
私に研究時間を与えてちょうだいとも思うが、それでも実験をするということを見せていきたい。
それは本気でリハビリテーション対象者を良くしたいからだ。
真のQOLから逃げてはいけない。
QOLとは脳のシステムのきわみである。
多様なもののなからら、自らの視点で選択できるよう、運動にしろ、行動にしろ変化をもたらしていかないといけない。
その多様性を生み出すためには、相当な思考回路が必要である。
馬鹿の一つ覚えに(ただ単に)動かせればよいのではない。
苦しいが、いばらの道だが、「未来」を見つめていきたい。
そのための教育である。
新年度の大学院生を求めます。
明日は滋賀です。
以前の私のHP(森岡研究室)とyahooブログなどを閉鎖しました。
先日のTrailblaze研究会のスライドは、下記のページに貼り付ける予定です。
http://www.geocities.jp/neurorelab/
中林先生、すみませんが問い合わせがあれば、よろしく!