先週の金曜は岡山で講義、だが、昼間部の授業の存在が私の意識からは消去されていた。
この要因は二つ考えられる。
今まで、このように授業を忘れるということは、もちろんない。
だから、忙しいからっていうのはその要因に入らない。
ひとつは、この3週間ほど、週末の仕事が(たいしたことなかった)ことが考えられる。
たいしたことないとは誤解が生じるかもしれないが、先々週の名古屋での学会の仕事は特別講演の「司会」であった。たいした仕事かもしれないが、もし私が病気で行くことができなかったとしても、それは動く。
特別講演、とくに、私の講演しかない場合は、その会自体が存在しないし、わざわざ足を運んでくれている聴衆者を考えれば、はってでも行くという気持ちになる。
これは大変なプレッシャーであり、内容や講演の準備なんかよりも、はるかにそのプレッシャーは潜在的だが存在する。
たまに、このまま新幹線で逃亡すれば、どうなるのだろう、なんて考えることがある。
一人講演はそういうプレッシャーがある。
だから、ここ3週間は、それが存在しなく、スケジュールを確認しなかったのも事実である。
もうひとつはというと、先週の金曜から、夜間部を2コマにしたことである。
小倉リハの講義がなくなり(前期終了し)、朝日リハのみになったので、夜間部1コマだけに行くのは諸経費がもったいないと考慮し、2コマにしたのだが、この志向が、私の思い込みの脳の機能が作動した。
夜間が2コマなら昼間の1コマはないはずだと・・・
ま、そんなこんなで、自分の脳を省みる週末だった。
ちゃんと、アナログなスケジュール表を確認しよう。
しかし、いつもそのスケジュール表とにらめっこしている自分は余裕がなく、あまり好きにはなれない。
が、毎日自動的にならないので、それも、脳の機能の維持に役立っている。
ひとつの仕事をしているが、私の脳の中は、次、次、次、と3週間後ぐらいはシミュレーションしないといけない。
まさに、前頭前野フル稼働であるが、先週末は、それにポケットが生じたのであろう。
空白の前頭葉活動である。
土曜は認知神経科学学会で九州大まで行く。
神経心理から脱却できていなく、今後に期待をしたい。
在宅でcareできていない疾病、そして罹患年数が圧倒的に多いのは、高次脳機能障害、これは米国、日本、ともにである。
なぜ、脳科学か、というとそれにつきる。
それで苦しむ人、そして家族のために。
そして、国家の効率のためにも。
遺伝子発現から、神経細胞。
神経細胞から脳機能。
脳機能から行動。
まさに、人間のすべてを研究するのが脳科学なのである。
スポーツ分野でも当たり前に言われ始めたのであれば、リハビリテーションの基礎科学としても、確固たる位置づけが必要である。
それは、既存の「生理学」だけでは物足りない。
土曜から手足の痺れがひどくなり、急遽帰ることにした。
病院嫌いな私も、明日には診察に行こうと思う。
病院嫌いなのは、ある私の履歴に影響されている。
私は総合病院に勤務していたのだが、そのとき、腎結石になった経験がある。
このとき、初発症状は腹部の痛みであったことから(放散痛)、内科を受診。
胃カメラを飲んだのだが、結局は急性胃炎という診断がおり、投薬治療になった。
それでも痛みはとれず、どうも背中の痛みではないかと思い、整形外科を受診する。痛みは脳の働きで容易に移動するのである。
X線を撮影した。
「なんてきれいな脊椎だ」と自分で思うぐらい、異常はなかった。
日ごろ、高齢者を見ている自分の目のギャップに驚いた。
腰痛でしょう・・・と、終わった。
それでも、痛みは激しさを増すばかり。
腎結石の痛みは、癌の次だとよく言われる。
そこで、以前に実習でお世話になった老人病院の院長を訪ねる。
院長は京都大学の老年科でしばらくいて、お年をめされてから、その病院の院長になられた方であるが、問診を丁寧にされ、すぐに、CTをとろうということになった。
そうすれば、腹部CTから、腎臓付近に石が見つかった。
この臨床意思決定は、問診からの予測であるが、自らの専門へのシフトでない。
人間は自分の専門の方についつい統合してしまうが、院長にはそれはなく、問診症状(意見に耳を傾け)から、自らの脳で予測をたてたのである。
つまり、X線や胃カメラの結果が先で、それに跡付けの判断をしているのではない。
新著のコラムでも書いたが、「科学する」ということは、「見る」ことでなく、「考える」ことである。
物理的画像診断が横行するが、それは、科学するという本質を揺るがしている。
熟練と若さといえば、それまでだが、臨床現場をみるとそうとも必ずしもいえない。
思い込み脳が大いに増えているのも事実だ。
人間は考えることが好きな反面、大嫌いだ。
研究者は本来考えることが仕事なのだが、最近の研究を見ると、結果至上で、少し情けない。
このことについては、昨日金子研究科長と意見が同調した。
アメリカの影響が色濃い。
当たり前の事実を当たり前の手続きで研究し、当たり前の結果を残す。
それにお金がつぎ込まれる。
ここには自らの新しい「仮説」は存在しない。
機械ありき研究である。
人間は考えることが大嫌いになる。
考えることが「不快」刺激になるからである。
このことを「悩む」という。
不安が増すと、本来「快」であることも「不快」になってしまう。
「快」「不快」は紙一重。
そうすると、危険回避の脳が作動し、結局は、その状況から逃げてしまう。
男にだまされて、「恋愛」できなくなるのも、そのひとつであるし、勉強に置き換えてもいい。
自分の都合のよいように、結果を解釈してしまう脳になる。
「リハビリテーション評価」もその呪縛から逃れられないのか・・・
これは、学生にも通ずる。
「逃げて」「逃げて」「逃げまくり」の人生に風穴を入れるのが教育である。
脳を活動させたがらない。
この仮説は、組織化できない脳活動は、不快になるのかもしれない。
つまり、神経回路網がつながる(予測がたつ)ことで、「快」となるのかもしれない。
どこどこが賦活した!と一喜一憂になる「脳科学」は古いのかもしれない。
話がずれたが、そのような経験があり、病院嫌いになった。
これも、危険回避の脳かもしれない。
それをぶち壊す「快」な病院での出来事にあいたいが、まだあってない。
依然として、「三人称」なロボットのような医師に会うことが多い。
腎臓結石で、破砕術を毎週受け、仕事をしていた。
破砕術をすれば、その夜は眠れないぐらい痛い。
排尿すれば、鮮血だ。
スーパーバイザーをしていたが、そのときの学生のT君は、よくたえた。
その伝説の指導が功を奏し、今では立派な教員となっている・・・
破砕術を受けながらも、「よさこい」だけは欠かさず、見ていた。
「血が騒ぐ」と「メタファー」だろう。
さて、今日は「リハ概論」と「神経系PT実習」の試験ですね。
学生のもがくエネルギー放出をみます。
この要因は二つ考えられる。
今まで、このように授業を忘れるということは、もちろんない。
だから、忙しいからっていうのはその要因に入らない。
ひとつは、この3週間ほど、週末の仕事が(たいしたことなかった)ことが考えられる。
たいしたことないとは誤解が生じるかもしれないが、先々週の名古屋での学会の仕事は特別講演の「司会」であった。たいした仕事かもしれないが、もし私が病気で行くことができなかったとしても、それは動く。
特別講演、とくに、私の講演しかない場合は、その会自体が存在しないし、わざわざ足を運んでくれている聴衆者を考えれば、はってでも行くという気持ちになる。
これは大変なプレッシャーであり、内容や講演の準備なんかよりも、はるかにそのプレッシャーは潜在的だが存在する。
たまに、このまま新幹線で逃亡すれば、どうなるのだろう、なんて考えることがある。
一人講演はそういうプレッシャーがある。
だから、ここ3週間は、それが存在しなく、スケジュールを確認しなかったのも事実である。
もうひとつはというと、先週の金曜から、夜間部を2コマにしたことである。
小倉リハの講義がなくなり(前期終了し)、朝日リハのみになったので、夜間部1コマだけに行くのは諸経費がもったいないと考慮し、2コマにしたのだが、この志向が、私の思い込みの脳の機能が作動した。
夜間が2コマなら昼間の1コマはないはずだと・・・
ま、そんなこんなで、自分の脳を省みる週末だった。
ちゃんと、アナログなスケジュール表を確認しよう。
しかし、いつもそのスケジュール表とにらめっこしている自分は余裕がなく、あまり好きにはなれない。
が、毎日自動的にならないので、それも、脳の機能の維持に役立っている。
ひとつの仕事をしているが、私の脳の中は、次、次、次、と3週間後ぐらいはシミュレーションしないといけない。
まさに、前頭前野フル稼働であるが、先週末は、それにポケットが生じたのであろう。
空白の前頭葉活動である。
土曜は認知神経科学学会で九州大まで行く。
神経心理から脱却できていなく、今後に期待をしたい。
在宅でcareできていない疾病、そして罹患年数が圧倒的に多いのは、高次脳機能障害、これは米国、日本、ともにである。
なぜ、脳科学か、というとそれにつきる。
それで苦しむ人、そして家族のために。
そして、国家の効率のためにも。
遺伝子発現から、神経細胞。
神経細胞から脳機能。
脳機能から行動。
まさに、人間のすべてを研究するのが脳科学なのである。
スポーツ分野でも当たり前に言われ始めたのであれば、リハビリテーションの基礎科学としても、確固たる位置づけが必要である。
それは、既存の「生理学」だけでは物足りない。
土曜から手足の痺れがひどくなり、急遽帰ることにした。
病院嫌いな私も、明日には診察に行こうと思う。
病院嫌いなのは、ある私の履歴に影響されている。
私は総合病院に勤務していたのだが、そのとき、腎結石になった経験がある。
このとき、初発症状は腹部の痛みであったことから(放散痛)、内科を受診。
胃カメラを飲んだのだが、結局は急性胃炎という診断がおり、投薬治療になった。
それでも痛みはとれず、どうも背中の痛みではないかと思い、整形外科を受診する。痛みは脳の働きで容易に移動するのである。
X線を撮影した。
「なんてきれいな脊椎だ」と自分で思うぐらい、異常はなかった。
日ごろ、高齢者を見ている自分の目のギャップに驚いた。
腰痛でしょう・・・と、終わった。
それでも、痛みは激しさを増すばかり。
腎結石の痛みは、癌の次だとよく言われる。
そこで、以前に実習でお世話になった老人病院の院長を訪ねる。
院長は京都大学の老年科でしばらくいて、お年をめされてから、その病院の院長になられた方であるが、問診を丁寧にされ、すぐに、CTをとろうということになった。
そうすれば、腹部CTから、腎臓付近に石が見つかった。
この臨床意思決定は、問診からの予測であるが、自らの専門へのシフトでない。
人間は自分の専門の方についつい統合してしまうが、院長にはそれはなく、問診症状(意見に耳を傾け)から、自らの脳で予測をたてたのである。
つまり、X線や胃カメラの結果が先で、それに跡付けの判断をしているのではない。
新著のコラムでも書いたが、「科学する」ということは、「見る」ことでなく、「考える」ことである。
物理的画像診断が横行するが、それは、科学するという本質を揺るがしている。
熟練と若さといえば、それまでだが、臨床現場をみるとそうとも必ずしもいえない。
思い込み脳が大いに増えているのも事実だ。
人間は考えることが好きな反面、大嫌いだ。
研究者は本来考えることが仕事なのだが、最近の研究を見ると、結果至上で、少し情けない。
このことについては、昨日金子研究科長と意見が同調した。
アメリカの影響が色濃い。
当たり前の事実を当たり前の手続きで研究し、当たり前の結果を残す。
それにお金がつぎ込まれる。
ここには自らの新しい「仮説」は存在しない。
機械ありき研究である。
人間は考えることが大嫌いになる。
考えることが「不快」刺激になるからである。
このことを「悩む」という。
不安が増すと、本来「快」であることも「不快」になってしまう。
「快」「不快」は紙一重。
そうすると、危険回避の脳が作動し、結局は、その状況から逃げてしまう。
男にだまされて、「恋愛」できなくなるのも、そのひとつであるし、勉強に置き換えてもいい。
自分の都合のよいように、結果を解釈してしまう脳になる。
「リハビリテーション評価」もその呪縛から逃れられないのか・・・
これは、学生にも通ずる。
「逃げて」「逃げて」「逃げまくり」の人生に風穴を入れるのが教育である。
脳を活動させたがらない。
この仮説は、組織化できない脳活動は、不快になるのかもしれない。
つまり、神経回路網がつながる(予測がたつ)ことで、「快」となるのかもしれない。
どこどこが賦活した!と一喜一憂になる「脳科学」は古いのかもしれない。
話がずれたが、そのような経験があり、病院嫌いになった。
これも、危険回避の脳かもしれない。
それをぶち壊す「快」な病院での出来事にあいたいが、まだあってない。
依然として、「三人称」なロボットのような医師に会うことが多い。
腎臓結石で、破砕術を毎週受け、仕事をしていた。
破砕術をすれば、その夜は眠れないぐらい痛い。
排尿すれば、鮮血だ。
スーパーバイザーをしていたが、そのときの学生のT君は、よくたえた。
その伝説の指導が功を奏し、今では立派な教員となっている・・・
破砕術を受けながらも、「よさこい」だけは欠かさず、見ていた。
「血が騒ぐ」と「メタファー」だろう。
さて、今日は「リハ概論」と「神経系PT実習」の試験ですね。
学生のもがくエネルギー放出をみます。