昨日は私が朝礼当番だったので、かつて小学校であった「オアシス」という生活運動を引き合いに出した。
学校によって微妙に違いはあると思うが、私の母校である魚津市立吉島小では「おはよう、ありがとう、してあげます、すみません」で「オアシス」だった。
あいさつが効率や数字に直結はしないが、気持ちのよい仕事をするためには必要であるのではという提案をした。
そんな話をした翌日の今日も、こちらから声をかけても華麗にスルーされたり、人が大勢いる中で朝一番の対面でも誰にも何も言わない人間がいたりで、頭を抱えたい気分になった。
名誉ある東証一部上場企業にはふさわしくない姿だ。
わが倉庫は決して花形の部署とは言えないことから、あからさまにそれを平気で嘆くような人間もいる。
「他で間に合わない」人間が集まっているなどという自嘲気味の話さえ聞こえてくるが、会社の他の部署や、ましてや外の人にそう思われるのは私だったら悔しい。
実際に他で間に合わないのだとしても、一人の社会人として踏み外してはならないものはある。
そこが押さえられていれば、他の部署や外部の人がマユをひそめるようなことにはならないと思うのだが。
かつて私が今の職場に派遣社員でオジャマしていた時、派遣会社の責任者も何度か現場に姿を見せることがあった。
事務所に帰ってからいろいろ話を聞いたら「倉庫の現場にしては品のいい人が多い」というのが責任者の言葉であった。
その印象は私自身も持っていたし、それは今も変わらない。
当時の良い印象がなければ、今こうしてまた職場として選ぶことはなかっただろう。
オアシス運動のような話は、大人になってくると照れくさいやらアホらしいやらでなかなかできなくなってくる。
しかし、あいさつはクルマのオイルのようなもので、それがなければ職場の人間関係などあっという間に「焼け焦げて」しまう。
人間はサルやゴリラと違って言葉を使うことができるが、言葉というのは本当に大事なものだ。
あいさつに限らず、仕事におけるちょっとした一言が、同じことをやるのでも気分良くやれるかやれないかの分かれ目になるときがある。
最近私が体験した中でいくつか分かりやすい例があるので、次回はそのことについて記すことにしたい。
学校によって微妙に違いはあると思うが、私の母校である魚津市立吉島小では「おはよう、ありがとう、してあげます、すみません」で「オアシス」だった。
あいさつが効率や数字に直結はしないが、気持ちのよい仕事をするためには必要であるのではという提案をした。
そんな話をした翌日の今日も、こちらから声をかけても華麗にスルーされたり、人が大勢いる中で朝一番の対面でも誰にも何も言わない人間がいたりで、頭を抱えたい気分になった。
名誉ある東証一部上場企業にはふさわしくない姿だ。
わが倉庫は決して花形の部署とは言えないことから、あからさまにそれを平気で嘆くような人間もいる。
「他で間に合わない」人間が集まっているなどという自嘲気味の話さえ聞こえてくるが、会社の他の部署や、ましてや外の人にそう思われるのは私だったら悔しい。
実際に他で間に合わないのだとしても、一人の社会人として踏み外してはならないものはある。
そこが押さえられていれば、他の部署や外部の人がマユをひそめるようなことにはならないと思うのだが。
かつて私が今の職場に派遣社員でオジャマしていた時、派遣会社の責任者も何度か現場に姿を見せることがあった。
事務所に帰ってからいろいろ話を聞いたら「倉庫の現場にしては品のいい人が多い」というのが責任者の言葉であった。
その印象は私自身も持っていたし、それは今も変わらない。
当時の良い印象がなければ、今こうしてまた職場として選ぶことはなかっただろう。
オアシス運動のような話は、大人になってくると照れくさいやらアホらしいやらでなかなかできなくなってくる。
しかし、あいさつはクルマのオイルのようなもので、それがなければ職場の人間関係などあっという間に「焼け焦げて」しまう。
人間はサルやゴリラと違って言葉を使うことができるが、言葉というのは本当に大事なものだ。
あいさつに限らず、仕事におけるちょっとした一言が、同じことをやるのでも気分良くやれるかやれないかの分かれ目になるときがある。
最近私が体験した中でいくつか分かりやすい例があるので、次回はそのことについて記すことにしたい。