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筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

かまってほしい人の話

2017-02-22 20:18:06 | 日記
かつて富山の職場にいた頃に不思議だなと思ったことがあった。
男性が2人いて、年は10歳ほど離れている。
休み時間には決まって一緒につるんでいて、プライベートでは食事や飲み、加えてお互いに好きなゴルフにもよく行っていた。
これだけなら職場の仲良しさんということで何の問題もないように思えるが、実のところ2人は仲良しさんでも何でもない。
片方は相手を指して「人間的には好きではないな」と言っていたし、もう一方の人に至っては「あのクソおやじが」などと、にわかには信じられないような言葉を吐いていた。

お互いに嫌いなのになぜ一緒に行動をともにできるのか分からなかったのだが、ある日その謎が解けた。
この両人は、それぞれ「自分をかまってくれる」存在として相手を見ているだけなのであった。
自分のことを嫌っているな、大事とまでは思っていないなとうすうすは感じていても、ひとりでいる寂しさよりはとりあえずでも話し相手になってくれることに安心する気持ちの方が勝ってしまう。
自分を相手にしてくれることだけがお互い一緒にいる理由であって、相手への尊敬などはひとかけらもない、実に身勝手な感情に支えられた薄っぺらい関係なのである。

当地に来てからも同じような光景はよく見かける。
表向きの振る舞いは富山の2人とは微妙に違うが、こちらの2人もやはりプライベートをともにする機会は多いし、仲良しさんに見えないこともない。
しかしお互いを本当に尊敬している関係かと言われれば、この1年以上観察して来てやはり互いにぶら下がっているだけの関係にしか思えない。
「かまってほしい人」というのは、土地が変わっても一定数はいるものである。

もう一つ重要なことは、かまってほしい人は、かまってほしいが故に虚言や妄言が多かったり、少しでも周囲に話題にしてもらおうとわざと他人とほんの少しだけズレた行動をとったりする。
毎日のように繰り返される、わざとらしくウソくさい言動に対して周囲は本心では反応などする気はないのだが、無視されているように感じると時に感情をあらわにして「誰も聞いてくれん」などとヘソを曲げてしまうから余計に疲れる。

私自身も本当に自分に自信が持てていない年代(20代くらいまで)は、主に同級生で構成される「群れ」から離れるのが怖くて、いろんな会には呼ばれるまま誘われるまま行っていた。
食べ物飲み物を持ち寄って大勢でくだらない話をしながらウダウダするのはそれはそれで楽しい部分はあったが、自分自身がその集団になじんでいると感じたことはあまりなかった。
単なる人数合わせでいるだけかもと感じても、その時分はその群れの外に弾かれるのを極度に恐れていたと思う。
そうでなければ、深酒をして幹事役の自宅で一夜を明かし、目が覚めて240円を渡され「ニッカン2部買ってきてくれ」とパシリのようなことをさせられても直接には反発できなかったことが説明できない。

今は決して裕福ではないながら、30代全般にわたる雌伏の時代の経験もあり精神的に少しは成長できたので、望まない場所に無理をして顔を出すようなことはなくなった。
職場でも、昼食は「ぼっちめし」だし、仕事を離れた場所で話ができる存在もいるかいないかというレベルだが、特別寂しいと感じることはない。
群れに紛れていなくても心は満足できているということであり、足らないものがあるとすれば、鉄分や塩分のような栄養素に例えれば「女性分」といったところか。
若い頃に比べれば、度重なる投資(?)のおかげで壁のようなものはなくなりつつあるし、そろそろこちらも成就すれば当面は「何もいらない」くらいに感じられるのではないかと思っている。

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