写真で綴る気ままなすぎさん

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我孫子 文人たちに愛された天神坂と嘉納治五郎別荘跡

2024年01月28日 06時02分00秒 | 我孫子市・柏市・手賀沼・あけぼの山

我孫子 天神坂 我孫子駅から手賀沼公園坂を下って 左へ曲がってすぐに天神坂がある。 かって我孫子が、北の鎌倉と言われた大正時代、文人達の集った三樹荘への天神坂、彼らがこよなく愛したという。天神坂は自然石を敷いた石段で緩やかなカーブ坂です。
天神坂 

天神坂 「三樹荘に 夢をつむぎし文人の 足跡しるす 天神の坂」

天神坂を登って左側には、柳宗悦・兼子夫妻の住居跡で、3本のスタジイの巨木がある事から、叔父の嘉納治五郎が「三樹荘」と命名した。

天神山緑地 

嘉納治五郎別荘跡地・・・看板より
嘉納治五郎は1860(万延元)年、摂津国御影村(神戸市灘区御影)に生まれた。東京大学文学部政治学科および理財学科を卒業し、学習院教授、第五高等学校(後の熊本大学)校長、東京高等師範学校(後の東京教育大学、筑波大学)校長を務めるなど、教育者として知られている。また天神真揚流・起倒流柔術を学び、心身の力を効果的に使用して(精力善用)、人間と社会の進歩に貢献すること(自他共栄)を説いて「柔道」と称し、1882(明治15)年、講道館を開いた。また、嘉納は早くから柔道を海外に普及し、柔道が世界各国で行われる基礎を築いた。国際柔道連盟規約第一条には、「国際柔道連盟は嘉納治五郎によって創設された肉体と精神の教育体系を柔道と認める」と定められている。嘉納は1911(明治44)年、当地に別荘と農園(嘉納後楽農園=我孫子市白山)を設ける。1914(大正3)年には西側隣地(三樹荘と命名)に甥で民藝運動提唱者で宗教哲学者の柳宗悦・兼子夫妻を呼んだ。柳は友人の志賀直哉・武者小路実篤を我孫子に誘い、白樺派の文人たちが集った。また、第五高等学校時代の教え子で東京帝大教授村川堅固が別荘を建設(寿2丁目、旧村川別荘)したのも嘉納との師弟関係を意識したためと言われる。嘉納は国際オリンピック委員を務め、1940(昭和15)年開催予定だった東京オリンピックと札幌での冬季オリンピックの招致に成功した後(日中戦争により中止)、残念ながら1938(昭和13)年、帰国途上氷川丸船上にて逝去した(79歳)
・・・現在、別荘跡には嘉納が住んでいたころの建物などは残っていないが、文人たちが憩う別荘地としての我孫子を作った原点は嘉納と言えることから、ここを購入し、保全している。

天神山緑地

嘉納治五郎の銅像 手賀沼を見下ろす様に立っています。 手賀沼・富士山・スカイツリーも見える高台です。

嘉納治五郎像 我孫子に残された嘉納書額 「力必達(つとむればかならずたっす)」 最前の努力をすれば必ず望みは叶えられる。 「鏡為人以(ひとをもってかがみとなす)」 時分の事だけでなく、他人の事をよく見てはんだんせよ。



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