逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

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ステパノの祈り

2024-11-05 11:37:41 | 説教要旨
2024年11月3日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
 「ステパノの祈り」 使徒言行録7章54-8章1節 
 ステパノは、ユダヤ教の会堂で大胆に御言葉を語りました。それを不快に思うユダヤ教の指導者たちは、彼に問題を突きつけますが、歯が立ちません。彼らは最高法院まで連れて行きますが、そこでも彼は「恵みと力に満ちて」(6:8)、大胆に証しすることをやめませんでした(6:8-15)。それゆえ聴衆は、ステパノの説教を聞いて、「心の底から激しく怒り、ステパノに向かって、歯ぎしり」(7:54)をし、あげくの果てに、彼を市外に連れ出し、石で打ち殺そうとしました。
 しかし、ステパノは動揺することなく、淡々とした態度で応じ、彼を罵倒する人々の前でも聖霊に満たされ、天を見つめながら、「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と叫びました。死に直面した時でも、周りの人々を見るのではなく、天を仰いだステパノ。彼は人々のため、そして自分のためにも、十字架を背負って勝利してくださった方をはっきりと見上げていたのでした。
 その時のステパノの祈りが、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」であり、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」であった。二つの祈りのうち、前者は神に自分をゆだねる祈り、後者は隣人のための祈りでありました。私たちの祈りは、まず神に依り頼む祈りでなければならないでしょう。どんな状況に直面しても、「主よ、御手にゆだねます。私の霊をお受け下さい」と祈る祈り。神に全き信頼を置く者、真に良き戦いを戦った人のみこう祈れるのでしょう。いや、足らざる者であるがゆえに祈れる祈りでもあるでしょう。
 もう一つの祈りは自分に石を投げつける隣人に向け、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」である。ステパノを最後まで支えたのは、不動の信仰と、敵をも愛する愛であります。いかなる場合でも、人を動かすものは、雄弁でも、その泰然自若な態度でもなく、愛であります。このステパノの愛には、十字架の主の愛が生きています。愛は他者へと向かい、隣人へのとりなしの祈りとなります。
 私たちは注目されずに、ただ静かに労しても、満足しなければなりません。神は、私たちが目的なしに死なせることはなさいません。そういうように、無駄か、どうかということを計算することは、俗的なことで、霊的なことではありません。信仰は見ぬものを真実とします。いや、それは見るもの以上に確実であります。そしてすべてのことは、イエス・キリストの暗闇を破り、勝利する、その御業の証しにほかなりません。天を見るとは、ここにおいて、すべての闇を突き破って勝利するキリストの栄光を仰ぎ見ることにほかならないのです。
 私たちの祈りは、主にゆだねる祈り、隣人のためにとりなす祈りであることが求められています。そのような祈りとなっているだろうか。何事も祈りをもって始め、精一杯ことにあたり、あとは主にゆだねる祈りをする。また、自分のことのみならず、隣人のために祈る、いわゆるとりなしの祈りがわたしたちの信仰をも成長させるのです。



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