逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

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種には命がある

2024-07-09 10:55:16 | 説教要旨
2024年7月7日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
 「種には命がある」 マタイによる福音書13章31-33節
 マタイ福音書13章は主イエスがもたらされた福音(神の国)を譬えで話されたところである。種まきの譬えに始まり、毒麦、からし種、パンの譬え、次いで毒麦の譬えの説明、次には宝を隠している畑、真珠、海、海におろされた網などが語られている。これらの物語の核心はなにか、それをしっかりつかまえないと、主イエスがそこで何を語ろうとされているのかを見逃してしまうだろう。
 まず種の譬えだが、種には命があるということである。種、それは御言葉のこと。その御言葉には命があるということである。私たちがそれをしっかり受け止めていったならば、「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」(ヤコブ1:21)とあるように、私たちの生活を変えてしまうような力が起きてくるのである。種には命があるからだ。昔も今も、私たちの歴史を通して、私たちの生活のただ中で起きているのだ。ただし、御言葉をただ聞き流したり、読み飛ばしたりしたのでは、そこからは何も起きてこないだろう。それをどのように受け止めていくかが私たちの責任になってくるのである。
 マタイ福音書には、「悟る」という言葉がよく出てくるが、マルコ福音書には、これは「受ける」「受け入れる」と訳されている。御言葉を受け入れることが悟るということである。私たちはそんなことは信じられないとか、そんなことをしていては大変だとか言って、常識によって御言葉を軽く料理してしまいがちだが、逆なのだ。御言葉によって私たちが料理されるのが、聖書の言う「受け入れる」ということである。これをしたら儲かるのにとか、これをしたら人から喝采を受けるのにと思っても、聖書がそれを禁じているならそれをしないのが受け入れるということである。そのように受け入れなければ、土の中に受け入れられない種と同じことであって、命を発揮することはできない。種をどんなに観察してもそこから命を見ることはできない。命は受け入れた時に「ああ命があるんだ」ということを実感することができるのである。だから聖書の御言葉がどんなに素晴らしいものであるかは、ただ座って観察しているだけではわからない。聖書の知識は増えても、自分と聖書の関わりを見出すことはできない。受け入れた時、はじめて種の持っている命に触れることができるのである。
 からし種はごく小さい粒ほどの種であるが、成長すると3メートルほどに大きくなるそうだ。それは今はごく小さいが、大きく育つ命がすでに種の中に秘められているのである。従って現在の小ささに失望することはない。むしろ大きく育った未来から現在を見ていくことを教えられる。励まされる。
 微量のパン種(イースト)とそれが粉全体を大きくふくらませる結果との大小の対比から、最初は人目につかないほどの存在であっても、それはやがて全体を変え、大きなものとなる。主イエスの神の国も同様であることの譬えである。
 種には命があるという譬えから、命は見えないが、それを受け入れた時から、そのことがいずれ明らかになってくるのである。それは隠されているものが明らかになっていくことであり、小さなものが大きく成長し、やがて実を結ぶ、という結果を生み出すのだということを私たちに示す。そこに私たちは希望を見るのである。

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