逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

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すべての始まり

2019-05-06 09:16:43 | 説教要旨

2019年5月5日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「すべての始まり」 創世記1章1ー5、2章1-4節前半

 「初めに、神は天と地を創造された」は聖書の冒頭の御言葉である。この文は主語が「神」、述語は「創造された」、目的語が「天と地を」の形であるが、この一文で神が天地万物に関わりを持っていることを示している。この関わりは、聖書全体に貫かれて描かれているもので、創世記の巻頭の言葉は聖書全体の巻頭の言葉ともなっているといえるだろう。

 2~5節では「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」と書かれている。ヘブライ人への手紙11章は、この創造信仰が持つ意味を次のように言い表している。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(3節)。私たちは、自分の存在を含めて、目で見るすべてのものの存在が神の意志に根ざしており、神が喜んで造り、祝福してくださったことを信じるものである。私たちが現実を見る目は明るい。祝福を信じているからである。私たちが、神のご意志に背く悲惨な現実を見るとき、心は痛む。悲しみを深くする。あってはならないことだからである。私たちは神が造られた世界に対する自分たちの責任を覚える。神が祝福し、愛してくださっている被造物の世界を、自分たちが神であるかのようにこの造られた世界を支配したり、独占したりしてはならないのだ。そうではなくて、この造られた世界の中でこそ、神に仕え、隣人に仕えていくのである。

 世界創造の第一に神が創られたものは、「光」である。それは太陽ではない。希望の「光」、安らぎの「光」とでもいうものである。続けて創られた海も空も、太陽も月も星も、陸も草木も鳥も魚たちも、すべて神の祝福を受け、活き活きと生きている。そして最後、人間は神にかたどって造られたとある。人間が神に似せて創られた存在であるとは、いろいろな意味に解釈されてきた。人は内に神の痕跡を残す存在であるとか、神の愛に責任をもって応答できる存在であるとか、素朴な考えでは姿の上で人間は神に似ているというのもある。しかしながら、この言葉を一般化して理解するのではなく(聖書の読み方はいつもそうであるが)、自分のこととして聞く時には、また新たな思いが起こされてくる。つまり「わたしは神にかたどって創造された」と自らに言い聞かせるなら、私という存在は一転して装いを新たにする。私の存在は尊いのであり、私は他に比べるものがないのであり、私は私に責任を持つ存在としてあることが明らかになるのをひしひしと感じるからである。

 最近、自ら命を絶つ人々が多いというニュースに心が痛む。ある神学者が次のように言っている。「自殺を試みようとする人に、あなたは生きなければならないといっても意味がない。もし自殺を思い止まらせようとするなら、あなたは生きることが許されているというべきである」と。生きることが許されていることを知るのは、「神は御自分にかたどって人を創造された」との言葉を自分のこととして聞く時である。それは「あなたは愛されている」「あなたは愛されるために生まれた」。そのことに気づかされていくことにつながっていく。そのことに気づかされるとき、生きる意味と生きる力が与えられていくのである。それが祝福。

 わたしは神によって造られたものと気づく時、わたしの人生、私の命は、私のものであって、私のものでない。私は私の人生、命のために精一杯働くが、それだけではない。神のため、隣人のためにも働く存在だということに気づかされていく。だからこそ、私たちは神に仕え、隣人に仕えていくこと、神を愛し、隣人を愛することが求められていると言えるのである。

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