今朝、会社へ出勤すると支店長が「デストロイヤーが亡くなりましたよ」と声を掛けてくれました。
「えっ!?」
まったく知りませんでしたよ。
トシを聞いたら、88歳ですって。
覆面を被っていたから、正直な話、老いたことに気付きませんでした。
ザ・デストロイヤーこそ、ずっと不死身だと思い込んでいました。
昭和38年の力道山との死闘は、あまりにも有名ですよね。
あれから56年。
あのふてぶてしかったデストロイヤーは、当時33歳くらいだった訳です。

その10年後、デストロイヤーは43歳。
穏やかな顔になっていました。
ジャイアント馬場が設立した全日本プロレスに、なんと日本陣営のレスラーとして参加したのです。
当時、全日本はレスラー不足で、国際プロレスのサンダー杉山なども移籍してましたよね。
まだ、老舗の日本プロレスも存在していたので、日本は4つのプロレス団体があったのです。
全日本に加入したデストロイヤーは、日本テレビの「噂のチャンネル」に出演し始めます。
ここで、せんだみつおや徳光和夫アナに、足四の字固めを掛けるのがお決まりとなりました。
せんだや徳さんが痛がるのが面白くてね。
デストロイヤーは、たちまち人気者になりました。
私がデストロイヤーを、初めて生で見たのが昭和51年11月22日の全日本プロレス・伊那大会。
初代の伊那勤労者福祉センターに、デストイヤーはやって来ました。
感動しましたよ。

伊那には、それから何回か来ましたよね。
うちには、デストロイヤーの直筆サイン色紙があります。
また、弟が購入したサイン入りマスクもあります。
トップの白黒写真は、私が昭和50年代初めに、「ザ・マニアックス」の山口雄介氏から購入したもの。
山口氏は、雑誌「ゴング」編集長の竹内宏介氏の弟分で、後にゴング誌で随分ライターとして活躍していました。
その後、ウォーリー山口として、各団体でレフェリーを歴任しています。
私、お金を払って、デストロイヤーの写真を購入していた時期もあったのであります。
いや~、悲しいですね。
また昭和のプロレスの灯が1つ消えました。
「えっ!?」
まったく知りませんでしたよ。
トシを聞いたら、88歳ですって。
覆面を被っていたから、正直な話、老いたことに気付きませんでした。
ザ・デストロイヤーこそ、ずっと不死身だと思い込んでいました。
昭和38年の力道山との死闘は、あまりにも有名ですよね。
あれから56年。
あのふてぶてしかったデストロイヤーは、当時33歳くらいだった訳です。

その10年後、デストロイヤーは43歳。
穏やかな顔になっていました。
ジャイアント馬場が設立した全日本プロレスに、なんと日本陣営のレスラーとして参加したのです。
当時、全日本はレスラー不足で、国際プロレスのサンダー杉山なども移籍してましたよね。
まだ、老舗の日本プロレスも存在していたので、日本は4つのプロレス団体があったのです。
全日本に加入したデストロイヤーは、日本テレビの「噂のチャンネル」に出演し始めます。
ここで、せんだみつおや徳光和夫アナに、足四の字固めを掛けるのがお決まりとなりました。
せんだや徳さんが痛がるのが面白くてね。
デストロイヤーは、たちまち人気者になりました。
私がデストロイヤーを、初めて生で見たのが昭和51年11月22日の全日本プロレス・伊那大会。
初代の伊那勤労者福祉センターに、デストイヤーはやって来ました。
感動しましたよ。

伊那には、それから何回か来ましたよね。
うちには、デストロイヤーの直筆サイン色紙があります。
また、弟が購入したサイン入りマスクもあります。
トップの白黒写真は、私が昭和50年代初めに、「ザ・マニアックス」の山口雄介氏から購入したもの。
山口氏は、雑誌「ゴング」編集長の竹内宏介氏の弟分で、後にゴング誌で随分ライターとして活躍していました。
その後、ウォーリー山口として、各団体でレフェリーを歴任しています。
私、お金を払って、デストロイヤーの写真を購入していた時期もあったのであります。
いや~、悲しいですね。
また昭和のプロレスの灯が1つ消えました。
