YouTubeより信義を貫いた日本無双の勇将! 立花宗茂を紹介します。
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
立花宗茂
たちばなむねしげ
(1569―1642)
安土(あづち)桃山時代~江戸初期の大名。筑後(ちくご)(福岡県)柳川(柳河)(やながわ)藩藩祖。高橋紹運(じょううん)長男。永禄(えいろく)12年豊後(ぶんご)(大分県)に生まれる。
1580年(天正8)立花鑑連(あきつら)の養子となり、85年家督を継いだ。
86年九州の諸大名に先だって豊臣(とよとみ)秀吉に服し、翌年の九州征伐には先鋒(せんぽう)を務めた。その戦功により柳川13万石余を与えられ、従四位下侍従(じゅしいげじじゅう)に叙任、左近将監(さこんしょうげん)と称した。
秀吉の小田原攻略、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役に参戦。関ヶ原の戦いで西軍に属して、改易されたが、1603年(慶長8)徳川秀忠(ひでただ)に召し出されて、陸奥棚倉(むつたなぐら)(福島県棚倉町)に1万石を与えられた。
1610年3万石に加増。大坂冬・夏の陣に参戦。20年(元和6)柳川城主となっていた田中氏の絶家・改易で、ふたたび柳川周辺に10万9000石余を与えられ、旧領のほとんどを回復した。22年飛騨守(ひだのかみ)。
37年(寛永14)隠居。
38年島原・天草一揆(いっき)の鎮圧に参加。その後剃髪(ていはつ)して立斎(りゅうさい)と号した。室は立花鑑連娘、のち離婚して家臣矢島秀行(やじまひでゆき)娘を継室とし、その没後葉室頼宣(はむろよりのぶ)娘をめとった。[荒野泰典]
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