とっつきづらい哲学や心理学の内容を、出来るだけわかりやすく完結に お伝えすることを目的としたチャンネルです。
動画の書き起こし版です。
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エトムント・フッサールは1859年、オーストリアのプロスニッツに生まれました。 両親はユダヤ系の商人で、裕福な家庭の育ちだったと言います。 大学では最初、数学を専攻していたのですが、その後哲学に転向。 その途中には『算術の哲学』という心理学を前提においた著作の出版などをしています。 しかし、そのあとは一転、心理学を批判する立場になり、 40歳の頃には【現象学】の思想を打ち出すようになります。 60歳になると助手にのちの大哲学者、ハイデッガーを迎え彼を後継者として育てます。 しかし、ハイデッガーが【存在と時間】を出版すると、 その思想が自分の考えと乖離していることに気づき、両者は決別します。 フッサールの思想は、ハイデッガーはもちろんのこと、 サルトルやメルロ=ポンティといった、その後の哲学界におけるスターに引き継がれていきました。 今日、フッサールは『現象学の祖』とされています。 過去の哲学を徹底的に否定して進化してきた西洋哲学界において、 1900年ごろに発表された現象学の概念は現在に至るまで 完璧な否定をされないまま研究が存続しています。 これは非常に稀なことです。 現象学とは簡単に言えば 『目の前の現象が一体どういう構造のもとで成立するかを解明する学問』 です。 現象学の内容に触れる前に、 まず、なぜ現象学が必要とされたのか? について考察してみましょう。 フッサールが生きた19世紀後半から20世紀前半において、 西洋科学が凄まじい発展を遂げていたのは説明の必要がないと思います。 それと同時に、世の中がすごいスピードで便利になっていき 人類は何かに向かって邁進しているようなそんな空気がありました。 しかし、そんな中でその発達自体に危機感を覚える人たちがいたのです。 「そもそも科学は本当に正しいんだろうか?」 「もし正しくないなら、今の発展のベクトルは 正しくない方向へ進み続けていて危険なのではないか?」 正直な話、哲学という文系の勢力が、 当時圧倒的強さを誇っていた科学という理系勢力に対して なんとか一泡吹かせたい。という想いもあったのではと感じています。 デカルトも言っていました。 あらゆる真理探求のためには、その大前提となる『絶対に正しいもの』を間違ってはいけないと。 もし科学がその大前提を間違えたまま発展しているとしたら? これは大変なことになってしまうかもしれないのです。 いやいや、じゃあ何が間違っていて、何が正しいと言うんだい? 科学側からはこのような疑問を投げかけられますよね。 フッサールはそれに対してこう言います。 「だから、それを考える学問が必要なんだ!」 それが現象学だったのです。 ちょっとニュアンスは違うかもしれませんが、 多分、皆さんは1+1は2だと知っていますよね? でも、それがなんでか?と聞かれたら答えに窮すると思います。 実際、1+1を厳密に説明するためには『ペアノの公理』という かなり周りくどい証明が必要になります。 でも、そのペアノの公理すら 「なんでそれを信じられるのか?」 と聞かれるとこれまた人間は参ってしまうのです。 このような科学や数学をはじめとする諸学問を 現象学(意識の立場)から記述できるようにしよう。 フッサールはそのように考えたのです。 人間は普通に生きていると、目の前にあるもの(客観)を 自分の意識(主観)と独立して存在していると認識しています。 今目の前にあるデバイスは自分が意識しているから存在するのではなく、 寝ているときも、その存在のことを忘れているときも、 確かにこの世の中に存在している。と思ってますよね。普通のことです。 現象学ではこの考えのことを【自然的態度】と呼びます。 フッサールはまずこの自然的態度を捨てましょうと言います。 目の前にあるもの(客観)についてはとりあえず【判断停止(エポケー)】して 『そこにものがある』という客観的な世界像を脇に置きましょうと言うんですね。 例えば、りんごが目の前にありますと。 普段はまずリンゴがあって、それをみている自分がいて、 その上でリンゴについて『赤い』とか『丸い』みたいな感想を抱くわけです。 でも、(リンゴがある)という工程をいったん脇に置くと、 まず初めに『赤い』とか『丸い』みたいな体験があって、 その結果としてリンゴという対象が意識の上に認識として出来上がるんですね。 ここでの『赤い』や『丸い』のような直接的な体験のことを【現出】と呼び、 その後、その体験から推論されて現れる結果(リンゴ)のことを【現出者】と呼びます。 現象学では、このような認識に対する態度を【超越論的態度】とあらわし 自然的態度から超越論的態度へと思考の転換をすることを 【超越論的還元】と表現します。 このプロセスはカントのコペルニクス的転回と非常に似ています。 ただ、カントの思想と明確に違う部分は、 カントが認識の転回をしてその認識された結果が世界であり、 その手前のモノ自体は人間には理解できないと言ったのに対し、 フッサールは、認識(現出者)が現れるそのちょっと前。 ここの推論しているこれ!! これが大事なんだ!!と言ったところです。 これを研究して解き明かすことができれば、 科学や数学がなぜ現れて成り立っているのかを現象学的立場から 説明することができる。と考えたのですね。
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