立花宗茂と柳川よりより、立花宗茂を紹介します。
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後半を引用します。
慶長五年の関ヶ原合戦にさいして、宗茂は西軍(豊臣方)につきます。島津義弘は、立花勢は知行高から言うと千三百人程の軍勢になるが、豊臣秀頼に対する忠節から四千人の軍勢を率いている、と述べています。近江国大津城の京極高次が東軍へ寝返ったため、宗茂は大津城攻めに加わり城を奪取しますが、そのため関ヶ原合戦には参加できませんでした。敗戦の報に接した宗茂は大坂城へ入城しますが、結局柳川へ帰ります。柳川では鍋島直茂や加藤清正と対峙し、鍋島勢とは八院付近で戦いますが、結局清正の要請を受け入れて開城することになります。妻誾千代や他の家臣の多くは、加藤清正のもとへ預けられますが、宗茂自身は少数の家臣とともに上洛、徳川家康の許しを得るのを待つこととなります。この浪牢は慶長十一年、奥州奥州南郷の地(現・福島県棚倉町付近)に一万石ながら(のち三万石)大名としての返り咲きをはたすまでつづくようです。そして両度の大坂の陣に出陣しています。関ヶ原合戦後筑後一国を領有したのは田中吉政でしたが、吉政の子忠政が元和六(一六二〇)年に無嗣のまま没すると、田中家は改易されます。その後、北筑後は有馬豊氏、南筑後は立花宗茂に与えられることとなりました。宗茂は旧領に復帰することとなったのです。柳川へ十万九六四七石で再封された宗茂は、加藤家へ預けていた旧家臣団を呼び戻すなどして家臣団を再編し、領国支配を進めます。
寛永六年以後次第に権限を忠茂へと移譲していきます。しかし寛永十四年の嶋原の乱では、将軍家光の命により下向し、戦闘に参加しています。正式に隠居を許されるのは寛永十五年で、家光の相伴衆に加えられ、法体となり「立斎」と号します。この年は、初めて将軍家光を下屋敷へ迎えた年でもありました。
そして寛永十九年十一月二十五日、享年七十六にて没します。遺骸は江戸下谷の広徳寺に葬られ、「大円院殿松蔭宗茂大居士」と号します。
なお、宗茂は武芸や文芸に通じていました。剣法は、文禄五年(一五九六)十月に丸目蔵人頭長恵から免許されたことが知られます。また宗茂が射芸に堪能であったことはつとに知られていますが、天正十八年(一五九〇)五月吉日付で尾村甚左衛門尉連続から免許をうけていましたが、さらに慶長六年(一六〇一)十月二十四日には中江新八から、同七年の三月二十六日と七月朔日には吉田茂武から日置流弓術について免許されています。文芸に関する資料もさほど潤沢ではありませんが、宗茂がとりわけ連歌に通じていたことは明らかです。また茶や香道にも明るかったことも伺われます。さらに蹴鞠の飛鳥井雅春から「鞠道」の門弟として「紫組之冠懸」を免許されています。また「狂言」の巧者でもありました。さらに、秀忠や家光の「御咄衆」に加わっていることから、その話術もひとかどであったと想像されます。まことに多才な人物といえますが、大宰府や博多という文化淵藪の地を身近に育ち、豊臣大名として京・上方での生活を通して、その天性の資質に磨きがかけられたものといえましょう。
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