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ウィトゲンシュタインは【論考】において、 『おおよそ語りうることについては、明晰に語りうる。 そして、論じえぬものについては沈黙しなければならない』 と主張しました。 世界は事実の総体であり、その事実にはセットになった言語が存在する。 ということは、その言語をつぶさに分析していけば、 自ずと世界を理解することができるようになる。 また、それまでの哲学で扱ってきた『神』や『善と悪』などの問題については そもそもその言葉が事実とセットになっているか確かめようがない。 つまり言語の誤用。当然、理解するなど不可能である。 だから、哲学の仕事は、言語で表現できる境界線を設定することであり それにより、理解できるものとそうでないものを明確に分けることができる。 そして、理解できないものについては語らないようにしよう。 そのように考えたわけですね。 こうして、哲学の問題を片付けたと判断した彼は、 哲学の世界から身を引きます。 しかし、あるとき、その考えは間違っていたのではないかと考えるようになります。 論考においては、事実とセットになった言語を【科学的言語】と表現しました。 これはいわば、事実を表現するための厳密な言語と言えるでしょう。 しかし、我々が話す言葉は科学的言語ではなく、日常言語です。 そして、科学的言語が元からあって、日常言語が生まれたのではなく、 日常言語が先にあって、そこから科学的言語が体系化されているわけです。 つまり、科学的言語で構成された文章を理解するためには、 その手前にある【日常言語】を理解しなくてはいけない。 そのような思考に至ったのです。 そして、ウィトゲンシュタインは日常言語の分析に力を入れます。 その中で、日常言語においては、 言語と事実が一対一で存在している。 という前提が崩れることがわかりました。 例えば、都市伝説として有名な『月が綺麗ですね』というフレーズがあります。 夏目漱石が英語教師をしていたとき、生徒が『I love you』を「我君を愛す」と訳したところ 「日本人はそんなことを言わない。月が綺麗ですね。とでも訳しておきなさい」 と言ったとされています。(正式な記録ではない) この場合「月が綺麗ですね」には『月が綺麗だ』という意味と、 『あなたを愛している』という二つの意味が生まれてしまうことになります。 同様に、例えば「結構です」という言葉には肯定と否定の2つの意味があります。 「お値段はこのぐらいになりますけど、いかがでしょうか?」 「そのお値段で結構です」 これは肯定ですね。一方 「ハンバーガーと一緒にポテトはいかがですか?」 「結構です」 これは否定に当たるでしょう。 このように、文章や会話の流れの中で「結構です」を確認できれば 前後関係からその意味を推察できます。 しかし、それらの文章から「結構です」だけを単体で抜き出して それを誰かに見せ、「これってどういう意味ですか?」と聞いたら その意味を確定できるはずがありませんよね。 このように、日常言語においては科学的言語の、 『一つの事実に一つの言語が対応している』という前提が覆されてしまいます。 日常言語は会話の中からそれだけを取り出すと、 その文章が指す意味を特定することが不可能なのです。 ウィトゲンシュタインは、日常の様々な関係性の中で言語の意味が複数に分裂することを【言語ゲーム】と表現しました。 そして、言語は完全に独立して存在することはできず あらゆる言語は言語ゲームの中で使用されることで初めて意味を持つとしたのです。 日常言語を理解するためには、言語ゲームのルールを把握することが必要です。 彼はそのルールを把握するためには自身もそのゲームに参加しなくてはいけないと考えました。 しかし、科学的言語と違い、日常言語をいくら分析したとしても そのゲームの中に自分自身も含まれてしまっているので、 そのゲームの全容を捉えることはできないと考えることもできます。 この結論については現在でも様々な解釈がなされています。 そしてこうしたウィトゲンシュタインの指摘は、 その後、分析哲学として引き継がれていくのです。 つまり分析哲学とは、事物そのものを分析する学問ではなく、 事物を表現する言語を分析する哲学だということですね。 分析哲学はその後主にイギリスやアメリカで発展を遂げ、 現在の哲学の主流となっています。
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