あなたも社楽人!

社楽の会の運営者によるブログです。社会科に関する情報などを発信します。

近江FWⅡ -4-

2024-04-03 07:25:14 | 取材・旅行

近江FWⅡ -4-

令和6年3月30日、いつものメンバー(積知積徳会)で、近江へFW(フィールド・ワーク)に行ってきました。その様子を10回にわたってお知らせしています。

今回の訪問地です。

今日はその4回目。安土城4 です。①の場所です。

この図の出典は、https://www.youtube.com/watch?v=tl-Tu836kYQ

天主の石垣です。草が残念です。

こちらは自然に崩壊したのではなく、秀吉によって破却されたものでないかといわれています。上部がそろっているからです。

いよいよ天主跡に向かいます。

非常に高価な石・笏谷石です。柴田勝家が献上したものといわれています。火山礫凝灰岩で、福井市の足羽山(あすわやま)周辺で採掘される石材のことです。

丸岡城でも使われていますね。

ノミの跡が生々しく残っています。貴重な史跡なので、この石段は将来通行止めになる予定です。

ガイドの水先生の説明を聴いています。

説明板の右側の部分を文字起こししてみます。


 安土城の天主は、完成してからわずか三年後の天正一〇年(一五八二)六月に焼失してしまいます。その後は訪れる者もなく、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまいました。ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和一五年(一九四〇)のことです。厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れました。この時に石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっています。
 安土城天主は、記録から地上六階、地下一階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかります。これ以降、全国に建てられる、高層の天守の出発点がこの安土城天主だったのです。
 皆様が立っておられる場所は、地下一階部分ですが、天主台の広さは、これよりはるかに大きく二倍半近くありました。現在では石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることができません。左の図は、建設当時の天主台を復原したものです。その規模の雄大さを想像してください。


礎石部分だけではなく、外縁まで天主の建物があったのです。

 

中央だけ礎石がないのは、謎です。この穴の上には仏教の宝塔があり、穴には舎利容器である壺が入っていたのではないかと考えられています。

111基の大型礎石、22基の小型礎石が見つかっています。

火災の時に、柱が倒れるのと同時に、礎石がめくれ上がったのではといわれています。

石垣の上部が崩壊した痕跡です。現在よりももっと高くまで積まれていたのです。

発掘調査のために、入れないところばかりです。

 

織田信長の数少ない一次資料『信長公記』を新人物文庫版 中川太古訳 より紹介します。 

『信長公記』では、安土城そのものに関する長文の記述、2回目は天主の様子です。P.344からP.347です。


巻12-天正7年

(5) 安土城天主閣の様子 [巻九(6) を移した〕


 安土城天主閣の様子は、以下のとおりである。
 石蔵の高さは十二間余りである。この石蔵の内側を土蔵として使い、 これを一階とし七階まである。

 二階は石蔵の上。広さは南北が二十間、東西が十七間。高さは十六間半。柱の数は二百四本が立つ。本柱の長さは八間、太さは一尺五~六寸角ないし一尺三寸角の木材である。

 座敷の内壁にはすべて布を張り、黒漆を塗った。
 西に十二畳敷。 狩野永徳に命じて墨絵で梅の絵を描かせた。 下階から上階までいずれも、座敷の内部に絵を描いたところにはすべて金を用いた。同じ間のうちに付け書院がある。ここには煙寺晩鐘の景色を描かせ、その前に盆山が置いてある。 次は四畳敷、棚に鳩の絵を描かせた。また十二畳敷があり、鵞鳥(がちょう)を描かせたので鵞鳥の間という。また、その次に八畳敷。奥の四畳敷には雉(きじ)が子をいつくしむ情景を描かせた。
 南もまた十二畳敷で、唐の儒者たちを描かせた。また八畳敷がある。

 東は十二畳敷。次いで三畳敷。その次は八畳敷、食膳を調えるところである。また、その次に八畳敷、これも食膳を調えるところである。 六畳敷、納戸、また六畳敷。いずれも絵には金を用いた。 
 北の方には土蔵がある。その次に座敷。 二十六畳敷、これは納戸である。西に六畳敷。次いで十畳敷。またその次に十畳敷。同じく十二畳敷。 納戸の数は七つある。この下に金燈籠が置いてある。

 三階には、十二畳敷、 花鳥の絵があるので花鳥の間という。別に一段高く四畳敷の御座の間がある。同じく花鳥の絵がある。
 次いで南に八畳敷、賢人の間といい、瓢箪(ひょうたん)から駒の出る絵が描かれている。
 東は麝香(じゃこう)の間。八畳敷・十二畳敷で、これは門の上に当たる。次いで八畳敷、呂洞賓(りょうどうひん)という仙人と傅説(ふえつ)という宰相の図が描かれている。
 北に二十畳敷、馬の牧場の絵がある。次いで十二畳敷、西王母(せいおうぼ)の絵がある。
 西には絵はない。縁側が二段、広縁である。二十四畳敷の物置用の納戸がある。入り口に八畳敷の座敷がある。
 三階の柱の数は百四十六本が立っている。

 四階は、西の十二畳の間には岩に種々の木々を描かせたので、岩の間という。次いで西の八畳敷には竜虎が闘う絵がある。
 南の十二畳の間には竹をいろいろ描かせたので、竹の間という。次いで十二畳の間には松だけをいろいろ描かせたので、松の間という。
 東には八畳敷、桐に鳳凰を描かせた。次いでまた八畳敷、俗事を聞いた許由が潁川で耳を洗い、それで汚れた潁川を避けて巣父が牛を曳いて引き返す図、二人の生まれ故郷のように描かれている。次に小座敷、七畳敷で、金泥を引いただけで絵はない。
 北は十二畳敷、ここにも絵はない。次いで十二畳敷、このうち西二間のところに手鞠桜の絵を描かせた。次いで八畳敷、庭籠に鷹の子が飼ってある情景を描かせたので、鷹の間という。
四階の柱の数は九十三本が立つ。

 五階には、絵はない。南と北の破風に当たるところ両方に四畳半の座敷がある。小屋の段という。

 六階は平面八角形で、四間ある。外の柱は朱塗り、内の柱は金色。釈迦十大弟子など、釈尊成道説法の図。 縁側には餓鬼ども・鬼どもを、縁側の突き当たりには鯱と飛竜を描かせた。
 欄干の擬宝珠には彫刻を施した。

 最上階七階は三間四方。座敷の内側はすべて金色、外側もまた金色である。四方の内柱には上り竜・下り竜、天井には天人が舞い降りる図、座敷の内側には三皇・五帝・孔門十哲・商山四皓・竹林の七賢などを描かせた。
 軒先には燧金(ひうちがね)・宝鐸(ほうたく)十二箇を吊るした。六十余ある狭間の戸は鉄製で、黒漆を塗った。座敷の内外の柱はすべて漆で布を張り、その上に黒漆を塗った。
 最上階の金具は後藤光乗が手がけ、京都や地方の金工が補佐をして尽力した。六階以下は京都の躰阿弥(たいあみ)永勝が金具を担当した。
  大工棟梁は岡部又右衛門、塗師頭は刑部(ぬしがしらぎょうぶ)、銀細工師頭(しろがねざいくし)は宮西遊左衛門。瓦は唐人の一観に命じ、その指揮下に奈良の工人が焼いた。
 普請の担当奉行は木村高重。   以上


当代一流の面々が並んでいます。岡部又右衛門は、本能寺の変の時に信長に同行しており、命を落としています。

この記述を見ながら、天主の様子を想像してみましょう。

実は、天主の復元案はいろいろとあります。

詳しくは、第6回で見てみましょう。

ルイス・フロイスは、『回想の織田信長-フロイス「日本史」より』の中で、安土城について記述しています。

その一部を紹介します。P.208~P.209


 信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩し得るものである。事実、それらはきわめて堅固でよくできた高さ六十パルモを越える―それを上回るものも多かった
――石垣のほかに、多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。そして(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。 外部では、これら (七層)の層ごとに種々の色分けがなされている。
あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知るかぎりのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。 それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取付け頭がある。屋根にはしごく気品のある技巧をこらした形をした雄大な怪人面が置かれている。このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである。


この先も続きますので、興味のある方はご覧ください。

 

黒金門を抜け左に曲がると伝長谷川秀一邸跡があります。

長谷川秀一は早くから織田信長につかえていました。天正7年(1579の)安土宗論をつかさどっています。葉栗郡・北方村(現 愛知県一宮市)出身です。

現在はそこに織田信雄公四代の供養塔が建っています。

安土城は、織田家の墓所になっているのです。

左から二代・高長公、三代・長頼公、四代・信武公、初代・信雄公です。

信雄の末裔について次の記事を紹介します。

https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/tonosama/oda/

信雄は、徳川家康から大和国宇陀郡上野国(現群馬県)小幡に合わせて5万石余の所領を与えられたのです。

 

安土城は、6月2日の本能寺の変の後、6月15日に焼けています。

この信雄は、安土城を燃やした犯人とされていました。この出典は、ルイス・フロイスの『イエズス会日本年報追加』。「信雄が城と屋敷を焼くように命じ、城下も焼かせた」とあったのですが、発掘調査により焼けたのは一部であることがわかりました。おそらく伝聞情報だけで、推理したものと思われます。

明智秀満説もありましたが、その出典は『惟任(これとう)退治記』。14日に光秀の敗北を知って城から出陣したときに安土城に火をつけたととありましたが、安土城天主が焼けたのは15日。食い違っています。

では犯人は誰?

明日に続きます。-5-


このシリーズは 近江FWⅡ-1- -2- -3- -4- -5- -6- -7- -8- -9- -10-     


このブログでの他のシリーズは・・・

ベトナム・ホーチミン みてある記 -1-  タイ・バンコク 見てある記-1-  シェムリアップみてある記 -1-  香港に来ています  台湾レポート-1-  平成25年度北方四島交流訪問事業 -古釜布湾-  函館 京都散策  さわやか中欧 見てある記 -1-   美濃 見てある記 -1-  東京散策 みちのく三陸海岸 見てある記-1- 滋賀探訪 新城FWに参加しました-1- 碧南FWへ行ってきました -1- 安城へ行ってきました1 -本證寺- 「勝鬘寺と大久保氏ゆかりの上和田城址」(岡崎市)-1- 北陸探訪 -1- 剱神社 近江FW  長久手FWへ行ってきました -1- 遠州FW -1- 小牧FW -1- 末森城周辺FW-1- 「宮宿」-1- 大野城・大草城-1- 「鳴海宿」-1- 富士周辺五名城と諏訪の旅-1-  犬山城周辺 -1- 近江FWⅡ 

社楽の会」HP:中国ODAみてある記 韓国研修その2 ブリスベン


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。