3月11日の各社のコラムを見てみましょう。
朝日新聞
天声人語
・ もう1年なのか、まだ1年なのかを問われれば、もう1年が過ぎた、の感が強い。震える思いであの日、〈テレビ画面を正視することができなかった〉と本欄を書き出したのは昨日のことのようでもある▼それは、どす黒い海水が仙台平野にのしかかっていく上空映像の衝撃だった。1年をへて、その宮城県名取市を訪ねた。人影のない閖上(ゆりあげ)中学校の時計は2時46分で止まっていた。漁船が3隻、校庭に転がったままだ。生徒14人が亡くなったことを記す碑が新しくできていた▼高さ約8メートル、土を盛ったような日和(ひより)山に登ると、消えた街の広さがわかる。卒塔婆(そとば)を拝んでいた中年の女性は「ここで暮らしたなんて、遠い昔のよう」と言った。止まったままの時と、過ぎに過ぎる日々が、被災の地に混在している▼被災地ばかりでなく日本全体にとって、「3・11以前」はもはや戻れぬ対岸になってしまった。振り向けば橋は消えて、隔てる川の流れは深い。だれもが心細い肩を寄せ合いながら、「絆」という焚(た)き火に心の手をかざしてきた1年だったように思う▼その「絆」の文字も過剰な使用に摩耗気味だ。井上ひさしさんが健在なら「つるつる言葉」と呼ぶかもしれない。便利に使われすぎて意味も実体もすり減ってしまう言葉を、そう称していた▼スローガンで何が片づくわけでもない。だが私たちの社会がこれほど他者を思ったのも、史上まれなことではなかったか。ともに悲しみ、「絆」の一語に魂を入れ直すこの日としたい。
読売新聞
編集手帳
・ 使い慣れた言い回しにも嘘(うそ)がある。時は流れる、という。流れない「時」もある。雪のように降り積もる◆〈時計の針が前にすすむと「時間」になります/後にすすむと「思い出」になります〉。寺山修司は『思い出の歴史』と題する詩にそう書いたが、この1年は詩人の定義にあてはまらない異形の歳月であったろう。津波に肉親を奪われ、放射線に故郷を追われた人にとって、震災が思い出に変わることは金輪際あり得ない。復興の遅々たる歩みを思えば、針は前にも進んでいない。いまも午後2時46分を指して、時計は止まったままである◆死者・不明者は約2万人…と書きかけて、ためらう。命に「約」や端数があるはずもない。人の命を量では語るまいと、メディアは犠牲者と家族の人生にさまざまな光をあててきた。本紙の読者はその幼女を知っている。〈ままへ。いきてるといいね おげんきですか〉。行方不明の母に手紙を書いた岩手県宮古市の4歳児、昆愛海(こんまなみ)ちゃんもいまは5歳、5月には学齢の6歳になる。漢字を学び、自分の名前の中で「母」が見守ってくれていることに気づく日も遠くないだろう。成長の年輪を一つ刻むだけの時間を費やしながら、いまなお「あの」ではなく「この」震災であることが悔しく、恥ずかしい◆口にするのも文字にするのも、気の滅入(めい)る言葉がある。「絆」である。その心は尊くとも、昔の流行歌ではないが、言葉にすれば嘘に染まる…(『ダンシング・オールナイト』)。宮城県石巻市には、市が自力で処理できる106年分のがれきが積まれている。すべての都道府県で少しずつ引き受ける総力戦以外には解決の手だてがないものを、「汚染の危険がゼロではないのだから」という受け入れ側の拒否反応もあって、がれきの処理は進んでいない。羞恥心を覚えることなく「絆」を語るには、相当に丈夫な神経が要る◆人は優しくなったか。賢くなったか。1年という時間が発する問いは二つだろう。政権与党内では「造反カードの切りどきは…」といった政略談議が音量を増している。予算の財源を手当てする法案には成立のめどが立っていない。肝心かなめの立法府が違法状態の“脱法府”に転じたと聞くに及んでは、悪い夢をみているようでもある。総じて神経の丈夫な人々の暮らす永田町にしても、歳月の問いに「はい」と胸を張って答えられる人は少数だろう◆雪下ろしをしないと屋根がもたないように、降り積もった時間の“時下ろし”をしなければ日本という国がもたない。ひたすら被災地のことだけを考えて、ほかのすべてが脳裏から消えた1年前のあの夜に、一人ひとりが立ち返る以外、時計の針を前に進めるすべはあるまい。この1年に流した一生分の涙をぬぐうのに疲れて、スコップを握る手は重くとも。
毎日新聞
余録:地の震えのなかで/時の震えのなかで…
・ <地の震えのなかで/時の震えのなかで/その計り知れなさを知る/腕時計を一分だけ遅らせる>。震災直後からネットで「詩の礫(つぶて)」を投げ続けた福島県の詩人、和合亮一(わごうりょういち)さんの詩「腕時計」だ▲<原子力の爆発のなかで/放射線の雨のなかで/その恐怖を知る 腕時計を/一時間も十時間も遅らせる/友や知人の家族が/波に流されてしまい/その無惨さを知る/腕時計をさらに遅らせる……>(「ふたたびの春に」祥伝社)。時の迷路の中での1年が過ぎた▲もしも時間を戻せる時計があったら。戻りたい「あの時」は頭にこびりついていよう。助けてあげられなかった子、手を差し伸べられなかった親、一緒にいながら生死を分けた友--。こうでなかったもう一つの時を刻む時計がどれほど切実に求められたことだろう▲「想定外」の災厄にうちのめされたこの国の社会も、また悔恨の時を往還した1年だった。なぜ原発の全電源喪失への対策はとられなかったのか。なぜ原発は巨大津波の危険を無視したのか。なぜ……もし時を戻せるのなら、いったいどこまでさかのぼるべきだろう▲めぐってきた3・11を終わらない喪とともに迎える人々。放射能によって故郷を追われたままの住民たち。時間の凍りついたような「被災」がなおも続く1年後である。長い被災を生きる人々を孤立させない「復興」を、私たちはしっかりとなし遂げられるだろうか▲人々の人生を分断し、時の流れも大きく狂わせた震災だ。立ちすくみ、また逆流する時を、明日へむけてゆっくりと刻み直していく。そんな営みがあちこちで手をつなぎ合う次の1年にしたい。
日本経済新聞
春秋
・ 歴史と聞いてどんな言葉を思い浮かべるか。そう問われて、米国を代表する日本近代史の研究者ジョン・ダワーさんは「複雑さ」と答えたという。では歴史家とは。「複雑さのなかにあるパターンを探し出そうとすること」というのがダワーさんの答えだった。
▼歴史が過去なら現実はいま。複雑さは現実が上である。東日本大震災がもたらした現実はなおのことだろう。1年たってなお、眼前にパターン化を拒む現実がその身をさらしている。まるで、そこここに集められ高い山になったまま処分のあてもつかないがれきのように、被災地に問題が複雑に折り重なっている。
▼この間、どれだけの言葉が発せられたか。そこにまた「きれいごとだ」と言葉が浴びせかけられ、「自粛」を危惧する声があがりもした。言葉が問われた1年でもあった。それでも知ったのは、一人ひとりの言葉を拾い言葉を発することで災厄の複雑さをほぐすしかないという道理である。
▼ダワーさんは主著「敗北を抱きしめて」で、国民一人ひとりに分け入る骨折りを惜しまず戦災から復興する日本の歴史を描いた。信条は「歴史の複雑さを理解し整理する努力をあきらめてはいけない」だという。その言葉を「現実の複雑さを……」と読みかえる。その努力をあきらめまいと己に命じる。
産経新聞
産経抄
・ 地球の自転速度は少しずつ遅くなっているそうだ。今は5万年に1秒程度である。10億年後には、1日が26時間ほどになる計算もあるのだという。物理学者、二間瀬敏史氏の『どうして時間は「流れる」のか』によれば、それは「潮の満ち引き」のためと考えられている。
▼満ち引きで起きる海水の運動と固体としての地球の運動に摩擦が生じ、自転にブレーキがかかるのだ。恐るべき「海水の力」である。ちょうど1年前の今日、日本人いや世界中の人がその魔力をまざまざと見せつけられた。あの大津波である。
▼1年後の今も、被災地を訪れる人は、その大きさを示す痕跡に息をのむ。宮城県気仙沼市の陸地に打ち上げられた大型漁船であり、石巻市の市中に転がる水産加工会社の巨大なタンクである。南三陸町の3階建て警察官舎の屋上には車が取り残されたままだ。
▼当時のままの姿をさらしているのは、撤去に時間がかかるせいでもある。だが大津波の教訓を後世に伝えるため保存すべきだ、との意見があるのも理由のひとつだ。気仙沼の大型船の前では県外からきた人々がカメラに収めたり、手を合わせたりしているという。
▼一方で「見れば恐怖がよみがえるだけだ」と、早期撤去を求める地元の声もある。石巻のタンクは会社が自費で工場に戻すそうだ。その気持ちは痛いほどわかる。だが「天災は忘れたころにやってくる」というのも、何度も味わわされた冷徹な事実だ。
▼やがて育ってくる津波を知らない世代のために、いくつかは残してほしい気がする。平成7年の阪神淡路大震災では、淡路島に巨大地震ゆえの大きな地割れが生じた。今はその上を建物で覆って保存し、備えを訴え続けている。
中日新聞
中日春秋
・ 恐るべき大地の揺らぎと、とてつもない海嘯(かいしょう)をもって、無数の命を奪い去った大震災。今日で、あの日からちょうど一年になる
▼あらためて、かみしめている歌がある。<いかに堪へいかさまにふるひたつべきと試の日は我らにぞこし>。一九二三年、関東大震災の酸鼻を極める被害の中で、国文学者で歌人の佐佐木信綱が残した絶唱の一つ。信綱も、その際の火災で、長年心血を注ぎ、刊行目前だった『校本万葉集』の印刷用原稿などを失っている
▼思えば、二〇一一年三月十一日も<試の日>だった。とても現実とは思えない災禍を前に、どう耐え、いかに奮い立つべきなのかと、確かにあの時、私たちも震えた
▼そして、この一年は<試の年>。試されたのは、どう窮地を乗り切るか。被災者は懸命に耐え、奮い立った。被災地復興も着実に進んではいる。だが、まだ何も終わっていない
▼「原発」という社会システムを制御できるか? 放射能を正しく怖がり、間違って怖がらなくなれるのか? そうなることで被災地のがれき処理を他地域が拒む状況を変えていけるのか? 被災地との連帯感や震災の記憶を風化から守れるのか? 何より、この経験を社会の本質的変革につなげられるのか?…
▼あの日とは、多分、<試の時代>の始まった日だ。私たちは試され続けていく。“及第”せねば犠牲者が浮かばれない。
朝日新聞
天声人語
・ もう1年なのか、まだ1年なのかを問われれば、もう1年が過ぎた、の感が強い。震える思いであの日、〈テレビ画面を正視することができなかった〉と本欄を書き出したのは昨日のことのようでもある▼それは、どす黒い海水が仙台平野にのしかかっていく上空映像の衝撃だった。1年をへて、その宮城県名取市を訪ねた。人影のない閖上(ゆりあげ)中学校の時計は2時46分で止まっていた。漁船が3隻、校庭に転がったままだ。生徒14人が亡くなったことを記す碑が新しくできていた▼高さ約8メートル、土を盛ったような日和(ひより)山に登ると、消えた街の広さがわかる。卒塔婆(そとば)を拝んでいた中年の女性は「ここで暮らしたなんて、遠い昔のよう」と言った。止まったままの時と、過ぎに過ぎる日々が、被災の地に混在している▼被災地ばかりでなく日本全体にとって、「3・11以前」はもはや戻れぬ対岸になってしまった。振り向けば橋は消えて、隔てる川の流れは深い。だれもが心細い肩を寄せ合いながら、「絆」という焚(た)き火に心の手をかざしてきた1年だったように思う▼その「絆」の文字も過剰な使用に摩耗気味だ。井上ひさしさんが健在なら「つるつる言葉」と呼ぶかもしれない。便利に使われすぎて意味も実体もすり減ってしまう言葉を、そう称していた▼スローガンで何が片づくわけでもない。だが私たちの社会がこれほど他者を思ったのも、史上まれなことではなかったか。ともに悲しみ、「絆」の一語に魂を入れ直すこの日としたい。
読売新聞
編集手帳
・ 使い慣れた言い回しにも嘘(うそ)がある。時は流れる、という。流れない「時」もある。雪のように降り積もる◆〈時計の針が前にすすむと「時間」になります/後にすすむと「思い出」になります〉。寺山修司は『思い出の歴史』と題する詩にそう書いたが、この1年は詩人の定義にあてはまらない異形の歳月であったろう。津波に肉親を奪われ、放射線に故郷を追われた人にとって、震災が思い出に変わることは金輪際あり得ない。復興の遅々たる歩みを思えば、針は前にも進んでいない。いまも午後2時46分を指して、時計は止まったままである◆死者・不明者は約2万人…と書きかけて、ためらう。命に「約」や端数があるはずもない。人の命を量では語るまいと、メディアは犠牲者と家族の人生にさまざまな光をあててきた。本紙の読者はその幼女を知っている。〈ままへ。いきてるといいね おげんきですか〉。行方不明の母に手紙を書いた岩手県宮古市の4歳児、昆愛海(こんまなみ)ちゃんもいまは5歳、5月には学齢の6歳になる。漢字を学び、自分の名前の中で「母」が見守ってくれていることに気づく日も遠くないだろう。成長の年輪を一つ刻むだけの時間を費やしながら、いまなお「あの」ではなく「この」震災であることが悔しく、恥ずかしい◆口にするのも文字にするのも、気の滅入(めい)る言葉がある。「絆」である。その心は尊くとも、昔の流行歌ではないが、言葉にすれば嘘に染まる…(『ダンシング・オールナイト』)。宮城県石巻市には、市が自力で処理できる106年分のがれきが積まれている。すべての都道府県で少しずつ引き受ける総力戦以外には解決の手だてがないものを、「汚染の危険がゼロではないのだから」という受け入れ側の拒否反応もあって、がれきの処理は進んでいない。羞恥心を覚えることなく「絆」を語るには、相当に丈夫な神経が要る◆人は優しくなったか。賢くなったか。1年という時間が発する問いは二つだろう。政権与党内では「造反カードの切りどきは…」といった政略談議が音量を増している。予算の財源を手当てする法案には成立のめどが立っていない。肝心かなめの立法府が違法状態の“脱法府”に転じたと聞くに及んでは、悪い夢をみているようでもある。総じて神経の丈夫な人々の暮らす永田町にしても、歳月の問いに「はい」と胸を張って答えられる人は少数だろう◆雪下ろしをしないと屋根がもたないように、降り積もった時間の“時下ろし”をしなければ日本という国がもたない。ひたすら被災地のことだけを考えて、ほかのすべてが脳裏から消えた1年前のあの夜に、一人ひとりが立ち返る以外、時計の針を前に進めるすべはあるまい。この1年に流した一生分の涙をぬぐうのに疲れて、スコップを握る手は重くとも。
毎日新聞
余録:地の震えのなかで/時の震えのなかで…
・ <地の震えのなかで/時の震えのなかで/その計り知れなさを知る/腕時計を一分だけ遅らせる>。震災直後からネットで「詩の礫(つぶて)」を投げ続けた福島県の詩人、和合亮一(わごうりょういち)さんの詩「腕時計」だ▲<原子力の爆発のなかで/放射線の雨のなかで/その恐怖を知る 腕時計を/一時間も十時間も遅らせる/友や知人の家族が/波に流されてしまい/その無惨さを知る/腕時計をさらに遅らせる……>(「ふたたびの春に」祥伝社)。時の迷路の中での1年が過ぎた▲もしも時間を戻せる時計があったら。戻りたい「あの時」は頭にこびりついていよう。助けてあげられなかった子、手を差し伸べられなかった親、一緒にいながら生死を分けた友--。こうでなかったもう一つの時を刻む時計がどれほど切実に求められたことだろう▲「想定外」の災厄にうちのめされたこの国の社会も、また悔恨の時を往還した1年だった。なぜ原発の全電源喪失への対策はとられなかったのか。なぜ原発は巨大津波の危険を無視したのか。なぜ……もし時を戻せるのなら、いったいどこまでさかのぼるべきだろう▲めぐってきた3・11を終わらない喪とともに迎える人々。放射能によって故郷を追われたままの住民たち。時間の凍りついたような「被災」がなおも続く1年後である。長い被災を生きる人々を孤立させない「復興」を、私たちはしっかりとなし遂げられるだろうか▲人々の人生を分断し、時の流れも大きく狂わせた震災だ。立ちすくみ、また逆流する時を、明日へむけてゆっくりと刻み直していく。そんな営みがあちこちで手をつなぎ合う次の1年にしたい。
日本経済新聞
春秋
・ 歴史と聞いてどんな言葉を思い浮かべるか。そう問われて、米国を代表する日本近代史の研究者ジョン・ダワーさんは「複雑さ」と答えたという。では歴史家とは。「複雑さのなかにあるパターンを探し出そうとすること」というのがダワーさんの答えだった。
▼歴史が過去なら現実はいま。複雑さは現実が上である。東日本大震災がもたらした現実はなおのことだろう。1年たってなお、眼前にパターン化を拒む現実がその身をさらしている。まるで、そこここに集められ高い山になったまま処分のあてもつかないがれきのように、被災地に問題が複雑に折り重なっている。
▼この間、どれだけの言葉が発せられたか。そこにまた「きれいごとだ」と言葉が浴びせかけられ、「自粛」を危惧する声があがりもした。言葉が問われた1年でもあった。それでも知ったのは、一人ひとりの言葉を拾い言葉を発することで災厄の複雑さをほぐすしかないという道理である。
▼ダワーさんは主著「敗北を抱きしめて」で、国民一人ひとりに分け入る骨折りを惜しまず戦災から復興する日本の歴史を描いた。信条は「歴史の複雑さを理解し整理する努力をあきらめてはいけない」だという。その言葉を「現実の複雑さを……」と読みかえる。その努力をあきらめまいと己に命じる。
産経新聞
産経抄
・ 地球の自転速度は少しずつ遅くなっているそうだ。今は5万年に1秒程度である。10億年後には、1日が26時間ほどになる計算もあるのだという。物理学者、二間瀬敏史氏の『どうして時間は「流れる」のか』によれば、それは「潮の満ち引き」のためと考えられている。
▼満ち引きで起きる海水の運動と固体としての地球の運動に摩擦が生じ、自転にブレーキがかかるのだ。恐るべき「海水の力」である。ちょうど1年前の今日、日本人いや世界中の人がその魔力をまざまざと見せつけられた。あの大津波である。
▼1年後の今も、被災地を訪れる人は、その大きさを示す痕跡に息をのむ。宮城県気仙沼市の陸地に打ち上げられた大型漁船であり、石巻市の市中に転がる水産加工会社の巨大なタンクである。南三陸町の3階建て警察官舎の屋上には車が取り残されたままだ。
▼当時のままの姿をさらしているのは、撤去に時間がかかるせいでもある。だが大津波の教訓を後世に伝えるため保存すべきだ、との意見があるのも理由のひとつだ。気仙沼の大型船の前では県外からきた人々がカメラに収めたり、手を合わせたりしているという。
▼一方で「見れば恐怖がよみがえるだけだ」と、早期撤去を求める地元の声もある。石巻のタンクは会社が自費で工場に戻すそうだ。その気持ちは痛いほどわかる。だが「天災は忘れたころにやってくる」というのも、何度も味わわされた冷徹な事実だ。
▼やがて育ってくる津波を知らない世代のために、いくつかは残してほしい気がする。平成7年の阪神淡路大震災では、淡路島に巨大地震ゆえの大きな地割れが生じた。今はその上を建物で覆って保存し、備えを訴え続けている。
中日新聞
中日春秋
・ 恐るべき大地の揺らぎと、とてつもない海嘯(かいしょう)をもって、無数の命を奪い去った大震災。今日で、あの日からちょうど一年になる
▼あらためて、かみしめている歌がある。<いかに堪へいかさまにふるひたつべきと試の日は我らにぞこし>。一九二三年、関東大震災の酸鼻を極める被害の中で、国文学者で歌人の佐佐木信綱が残した絶唱の一つ。信綱も、その際の火災で、長年心血を注ぎ、刊行目前だった『校本万葉集』の印刷用原稿などを失っている
▼思えば、二〇一一年三月十一日も<試の日>だった。とても現実とは思えない災禍を前に、どう耐え、いかに奮い立つべきなのかと、確かにあの時、私たちも震えた
▼そして、この一年は<試の年>。試されたのは、どう窮地を乗り切るか。被災者は懸命に耐え、奮い立った。被災地復興も着実に進んではいる。だが、まだ何も終わっていない
▼「原発」という社会システムを制御できるか? 放射能を正しく怖がり、間違って怖がらなくなれるのか? そうなることで被災地のがれき処理を他地域が拒む状況を変えていけるのか? 被災地との連帯感や震災の記憶を風化から守れるのか? 何より、この経験を社会の本質的変革につなげられるのか?…
▼あの日とは、多分、<試の時代>の始まった日だ。私たちは試され続けていく。“及第”せねば犠牲者が浮かばれない。