ものづくり中部の革新者たちⅢ より 越寿三郎を紹介します。
去る2022(令和4)年9月10日(土)に名古屋都市センター(金山南ビル内) 11階「まちづくり広場・企画展示コーナー」で行われた、第17回パネル展 での学びを振り返ります。
ここから http://csih.sakura.ne.jp/panerutenn.html
今回は、越寿三郎 ひとすじに郷土の栄え的にして生きる 製糸(山丸組)、電気(信濃電気)、化学(信越化学)を起業
越寿三郎 (1864~1932)
1. 革新実業家 (11)
ひとすじに 郷土の栄え的にして生きる 糸 (山丸組)、 電気 (信濃電気) 化学 (信越化学) を起業一
■生い立ち
越寿三郎は1864 (元治元)年、 信濃国高井郡須坂村 (現: 長野県須坂市) の豪農小田切家に生まれ、 20歳で越家の養子に入った。
須坂は1875 (明治8)年、日本で初めての製糸結社「東行社」、 1885 (明治18) 年には「俊明社」が設立され一大製糸業の町として発展した。 越は1887(明治20)年山丸製糸所を創業、 山丸組を設立、 1894 (明治27)年に俊明社合資会社の社長に就任、 製糸業のリーダーとなった。 1918(大正7)年、当時大日本蚕糸会顧問渋沢栄一の紹介により、 大倉喜八郎とともに大倉製糸所を設立、 大倉が社長、 越が副社長に就任した。 このほか埼玉県大宮製糸工場、 愛知県安城製糸工場、 新潟県に信越製糸村上工場などを建設していったが、 1930(昭和5)年から始まった世界金融恐慌の影響により、日本経済も大打撃を受け、 山丸組を解散した。
■須坂市を中心にした社会貢献
越は生糸同業組合の組合長を始め、 1895 (明治28)年、製糸業の円滑な資金調達のため上高井銀行を設立(八十二銀行の前身) した。 また、 1926(大正15)年に私立須坂商業学校を創立、次男の泰蔵を校主として任せた。 その後、同校は校名の改称、学制改革などを経て長野県立須坂商業高校になった。
■電気・化学事業へ経営多角化
製糸業近代化のため、 蒸気機関の器械製糸から電気を導入するため水力発電所の建設を計画、1903(明治36) 年に信濃電気(株) を設立、翌年、米子発電所 (当初出力: 60kW) を完工、 長野市など1市4
部に供給をしていったが、営業区域が郡部から長野市に広がるにつれ、 長野電灯 (株)との間で激しい競争が展開された。 1910 (明治43)年、 長野県知事の調停により供給区域の協定を締結、 長野電灯が長野市へ供給することになった。
一方、信濃電気は長野電鉄信濃吉田駅付近にカーバイド製造工場、引続き信濃鉄道黒姫駅付近に柏原工場を建設し生産を拡張するとともに次々に発電所を建設していった。
このように、 ①発電所を建設 ②カーバイドの生産、 ③電力を利用した窒素の肥料の製造へと多角経営を展開していった。
1926(大正15)年、 信濃電気と日本窒素(株)の共同出資で信越窒素肥料 (株)を設立、 新潟県上越市に直江津工場を新設、 吉田、柏原工場の生産を移転させ、1940(昭和15) 年に社名を信越化学工業
(株)に改称した。
(寺沢安正)
ものづくり中部の革新者たちⅢ 第17回パネル展に行ってきました
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2017年度 第13回パネル展 中部における国産車のあゆみ
2016年度 第12回パネル展 東海の綿織物・毛織物と産業遺産
2015年度 第11回パネル展 東海の絹・文化と産業遺産
2014年度 パネル展と講演会 近代名古屋の発展と海外の関わり ~戦前の国際都市名古屋の形成~ PART2
2013年度 パネル展
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