長文、誠に失礼。
井上陽水の「傘がない」という歌を、私の高校生時代に初めて聴いた。
それに対して、母は大層嫌い、「暗い歌」と言った。
しかし、私は、確かに暗いが、その背後の時代背景に注目・着目して、聴いていた。
私の、解釈は、その当時から、一般の世評、井上陽水の人と、なりをみて、世人に習って解釈をした。
つまり、「傘がない」という、歌の中で、テレビや新聞は、政治家などの言説を事細かく伝え、それを、大々的に訴える。
この当時、学生運動が盛んであったが、それに対して、陽水は、学生運動も大事だろう、政治デモも大事だ。宗教論争も大事だろう。
しかし、もっと大事なことがある。けれども、もっと大事なことがあるのではないのか?こう、陽水は歌う。
明日のごはん、や、この歌の通りにする、言うなれば、今日、彼女の家に行くのに、肝心の傘がない。傘が盗まれたのか、壊れてしまったのか。とにかく、今、傘がない。それが、何物にも、何よりも増して、肝心であり、大事で問題なのだ、今の、この歌の青年にとっては。
これを陽水は、傘がない事を極めて問題視する。
雨に濡れて行かなくちゃ、雨の中を~いかなくちゃー、君に会いにいかなくちゃ~きみのうちに行かなくちゃ、傘がない~、とリフレインが続く。
ここで、陽水氏は、傘がない事だけを強調して、この曲を終わらす。
如何に、個人の生活が人生において大事で重要か、を井上陽水氏は訴えて、この曲は、昭和の名曲となった。
そんな事共を、母に聞かせて、話してみると、母なりに、納得はしたようである。その後、そういった、暗い曲、一辺倒の解釈は、影を失った。
しかし、一番大きかったのは、平成の御代に大ヒットした、同じく井上陽水氏の「少年時代」という、名作の楽曲であった。
あの歌に歌われる、抒情、夏から秋へと移り変わる景色の中で、本当に、夏が来るんだか、夏が去るんだか、いつも、夏と共に聴きたい、名曲として、井上陽水が世に問うた傑作作品であり、この曲こそが、井上陽水の、最高峰の真骨頂とも言うべき、最上極上の音楽である。
この曲一曲で、母の、井上陽水の評価がガラッと変わった。大のお気に入りの曲の一曲にこの作家の曲が変貌し、母の好みにも見事、合致した。
夏になると、この名作の楽曲を掛けると、母と一緒に、夏が来たのを実感した。
正に、「暗い」と母に言わしめた、「傘がない」とは対極の歌であった。
その後、私は、陽水の「リバーサイドホテル」や、「いっそセレナーデ」「飾りじゃないのよ涙は」等々の、陽水の名作を、カセットにダビングして、録音して、それを母と共に聴いた。
母も、リバーサイドホテルの意味は知っていて、川の側、という事で、うちの以前、栃木県黒磯にあった我が家所有の土地が、那珂川のほとりであり、「川沿いリバーサイド」という歌詞に、大層ご機嫌な母であった。
漸くコロナも落ち着きを見せて、コロナ終幕カウントダウンとなりつつある世の中だ。
そういう母であったが、そんな母も、高齢者施設に入って、既に五年位が経とうとしている。今となっては、全てが懐かしい日々である。
以上。よしなに。wainai