躰道シーラカンスの整体体操

躰道を人生の道連にできるよう、健康体力の保持を願い「谷式健康体操」は、45年前初代祝嶺先生より許可、考案 20年で集大成

躰道シーラカンスの整体体操 No.250

2016-07-27 | 躰道
24日越生高校武道場に於いて埼玉県合同審査会を実施した。3段位受審カツリ・フリンクマンの論文を紹介。


日本武道には長い歴史がある。今も多数の「古流」と呼ばれる流派が存在している。「流」は争いのような激しいイメージはなく、むしろ穏やかな水を表す言葉ではないか。なぜ派生の命名にこの漢字が使われているのか。

名付けることは言語の基本中の基本である。

名前に不思議な力がある。名付けた後は広義なニュアンスが限定されて、その意味合いはより具体的になる。これは別に悪い事ではない。科学分野では、現象を描写する必要がある。現象の名前は現象を短く体現した言葉であり、説明する必要がなくなる。つまり、その説明は「名前」に含まれていると言える。しかし、名前が無いものは、逆に広義で様々なニュアンスを含むと言える。まさにそれが「考え」であり、「イメージ」でもある。

古流にはあまり技に名前が付けられていない。元々、科学的な考え方はなく、逆に邪道と思われていた。何故なら実戦において「どの技を出した方が良いか」を考えるより、「今は一体何が出来るか」を考える方が最良だ。差異は細かいが、過去の古流の名人にはそれが死活問題だったと考えられる。

つまり、流派は技だけではなく、むしろ技と技の間のものを含み、重要である。突き、蹴り、截りなどは流派によってあまり変わらないと思われる。なぜなら我々は皆同じ人間であり、身体は同じつくりである。しかし精神は別の話だ。技を連続することは無制限で、流派の心はそこで活きる。つまり「技」より「流れ」を考えるべきだ。

しかし、間のものは左右が分からない状態でいかに学ぶのか。

躰道に「運足」がある。厳密に言えば、「運足」も技であるが、これこそが技の間のものではないか。伝統的な古流の考え方に基づけば、技でもあり、技と技を繋ぐのは運足しかないと思われる。間合いを制御しなければ攻撃や防御は無意味になるのではないか。

前述の通り、運足は「流れ」そのものだと考える。そう考えれば躰道はその「間のもの」を名付けたと考えられる。その結果、躰道は科学的に現象を追究する特殊な能力を得た。その能力は躰道の特別な力であり、他の流派にはない突出した、21世紀の武道となった。

ここで、改めて名前の力を言及する。運足には名前が必要だが、全ての動作を名付ければ様々な問題が生じ、いくつかの技のみを選ぶことで創造が途絶える、または全ての技を選び選択が困難になるという二種類の結果のどちらかに陥る。

無制限の流れのような運足を本当に理解するには、限定しないべきである。運足には運足八法だけではなくて、ダンスのように一定のルールを守りつつ、型にはまらず、創造の自由が存在する。
つまり、ある運足はたった一つの動きに限定されず、類似した動きの全てを含む。
これが武道の考えの要である。

​​​2016年4月24日​ Karri Flinkman​​​​​ カッリ・フリンクマン
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