松下政経塾編『松下政経塾塾長講和録』(PHP)
尊敬する松下幸之助氏がPHPの人たちと考えに考えて
本にしたという新しい人間観。
P.119新しい人間観の提唱
宇宙に存在するすべてのものは、つねに
生成し、たえず発展する。万物は日に新たであり、
生成発展は自然の理法である。
人間には、この宇宙の動きに順応しつつ万物を
支配する力が、その本性として与えられている。
人間は、たえず、生成発展する宇宙に君臨し、
宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与
えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これ
を生かし活用することによって、物心一如の真の
繁栄を生み出すことができるのである。
かかる人間の特性は、自然の理法によって
与えられた天命である。
この天命が与えられているために、人間は万物
の王者となり、その支配者になる。すなわち人間は
、この天命に基づいて善悪を判断し、是非を定め、
いっさいのものの存在理由を明らかにする。そして
なにものもかかる人間の判定を否定することはで
きない。まことに人間は崇高にして偉大な存在である。
この優れた特性を与えられた人間も、個々の現実の姿を
見れば、必ずしも公正にして力強い存在とはいえない。
人間はつねに繁栄を求めつつも往々にして貧困に陥り、
平和を願いつつもいつしか争いに明け暮れ、幸福を
得んとしてしばしば不幸におそわれてきている。かかる
人間の現実の姿こそ、自らに与えられた天命を悟らず、
個々の利害得失や知恵才覚にとらわれて歩まんと
する結果にほかならない。
すなわち、人間の偉大さは、個々の知恵、個々の力
ではこれを十分に発揮することはできない。古今東西
の先哲諸聖をはじめ幾多の人々との知恵が自由に、
何のさまたげも受けずして高められつつ融合されて
いくとき、その時々の総和の知恵は衆知となって天命を
生かすのである。まさに衆知こそ、自然の理法をひろく
共同生活のうえに具現せしめ、人間の天命を発揮させ
る最大の力である。
まことに人間は崇高にして偉大な存在である。お互い
にこの人間の偉大さを悟り、その天命を自覚し、衆知を
高めつつ生成発展の大業を営まなければならない。
長久なる人間の使命は、こ天命を自覚実践することに
ある。この使命を明らかにし、その達成を期せんがため、
ここに新しい人間観を提唱するものである。
山本文緒氏著『恋愛中毒』を読み終えた。
最初、編集の会社で働いていて、既に別れた女性に
追っかけまわされている井口が主人公がだと思いきや、
水無月という同じ会社の女性が主人公になっている。
最後にはこの女性は単なるストーカーになっていて
恐るべし!!と思った。
読んでいて登場人物の創路という作家男のキャラクター
(しゃべり方、、女癖悪し、子供っぽい態度)と水無月の
感じているこの男に対する「初期」の思いは面白かった。
しかし、この人の他の作品を読んでみたいとは思わなかった。
最初、編集の会社で働いていて、既に別れた女性に
追っかけまわされている井口が主人公がだと思いきや、
水無月という同じ会社の女性が主人公になっている。
最後にはこの女性は単なるストーカーになっていて
恐るべし!!と思った。
読んでいて登場人物の創路という作家男のキャラクター
(しゃべり方、、女癖悪し、子供っぽい態度)と水無月の
感じているこの男に対する「初期」の思いは面白かった。
しかし、この人の他の作品を読んでみたいとは思わなかった。
ハーヴァード・ビジネス・レビュー2005年5月号『インド・インパクト』
と題してインド特集が面白い。
中でも、
①ラジャ・グプタ氏の『インドに世界最高のビジネススクールを作る』
②大前研一氏の『インドの見方・考え方』
③ダイアナ・ファレル『新興市場で成功する法』
上記の三方はマッキンゼーで活躍した、あるいはしているコンサルタント。
④ラグラム・ラジャン『インド経済・成功の条件』
は元IMF。
前日のブロッグ内容と絡めると
中国、インドは国際経済においても極めてインパクトがあり、
国際政治的にも大きな役割を持つべきプレーヤーであることは
待ちがいない。
と題してインド特集が面白い。
中でも、
①ラジャ・グプタ氏の『インドに世界最高のビジネススクールを作る』
②大前研一氏の『インドの見方・考え方』
③ダイアナ・ファレル『新興市場で成功する法』
上記の三方はマッキンゼーで活躍した、あるいはしているコンサルタント。
④ラグラム・ラジャン『インド経済・成功の条件』
は元IMF。
前日のブロッグ内容と絡めると
中国、インドは国際経済においても極めてインパクトがあり、
国際政治的にも大きな役割を持つべきプレーヤーであることは
待ちがいない。
法学 近代民法の基本原理
ジュリスト No.1126
山本敬三著(京都大学教授) 『基本法としての民法』
要約
基本法としての民法
人間の権利を、人間相互の関係、言い換えれば社会においてどのように保護し、その限界をどう画するかを定めた基本法が民法である。その意味で、憲法が国家の基本法だとすれば、民法は社会の基本法と見ることができる。
憲法システムにおける民法の役割として少なくとも3つの任務をあげることができる。
①憲法によって保障された基本権の内容を具体化すること。国家の介入が禁止されていても、何が基本権として保障されるかが特定される必要がある。市民相互間で問題となる状況に即して具体化し、その内容を特定することである。
②基本権を他人による不法行為の侵害から保護するための制度を用意すること。物権的請求権を認めるというのもこの意味で理解することができる。
③国家による自由をよりよく実現できるよう、支援するための制度である。契約制度自体が、この意味での基本権支援制度として位置付けられる。たとえば、自分の生活空間を自分で自由に形成するために、他人の同意を得ることによって可能にすることが契約制度に他ならない。
民法の独自性
個々の概念を構成していくためには、その前提として全体の枠組みを構成する必要がある。特に、私法において、基本的な概念枠組みを構成する役割を担っているが民法である。民法総則は、民法のその他の部分他、広く法一般について権利を語るための基本構成を提供しているといえる。そのほか、物権や債権については、権利の発生・変更・消滅が規定され、さらに物権については、その内容に即して所有権・用益物権・担保物権などの下位類型が、債権については、その発生原因に即して契約・事務管理・不当利得・不法行為といった下位類型が形成されている。契約については、まず成立・効力・解消という三段階に分けて問題が構成され、さらにその内容に即して下位類型、典型契約類型が形成されている。契約における経済取引の仕組みは、「物、金銭、労働という価値の交換または移転」として捉えられる。
さらに基本権の保障体制をどのような原理にもとづいて形成するかということに関しては権利能力平等の原則、所有権絶対の原則、私的自治の原則があげられる。
ジュリスト No.1126
山本敬三著(京都大学教授) 『基本法としての民法』
要約
基本法としての民法
人間の権利を、人間相互の関係、言い換えれば社会においてどのように保護し、その限界をどう画するかを定めた基本法が民法である。その意味で、憲法が国家の基本法だとすれば、民法は社会の基本法と見ることができる。
憲法システムにおける民法の役割として少なくとも3つの任務をあげることができる。
①憲法によって保障された基本権の内容を具体化すること。国家の介入が禁止されていても、何が基本権として保障されるかが特定される必要がある。市民相互間で問題となる状況に即して具体化し、その内容を特定することである。
②基本権を他人による不法行為の侵害から保護するための制度を用意すること。物権的請求権を認めるというのもこの意味で理解することができる。
③国家による自由をよりよく実現できるよう、支援するための制度である。契約制度自体が、この意味での基本権支援制度として位置付けられる。たとえば、自分の生活空間を自分で自由に形成するために、他人の同意を得ることによって可能にすることが契約制度に他ならない。
民法の独自性
個々の概念を構成していくためには、その前提として全体の枠組みを構成する必要がある。特に、私法において、基本的な概念枠組みを構成する役割を担っているが民法である。民法総則は、民法のその他の部分他、広く法一般について権利を語るための基本構成を提供しているといえる。そのほか、物権や債権については、権利の発生・変更・消滅が規定され、さらに物権については、その内容に即して所有権・用益物権・担保物権などの下位類型が、債権については、その発生原因に即して契約・事務管理・不当利得・不法行為といった下位類型が形成されている。契約については、まず成立・効力・解消という三段階に分けて問題が構成され、さらにその内容に即して下位類型、典型契約類型が形成されている。契約における経済取引の仕組みは、「物、金銭、労働という価値の交換または移転」として捉えられる。
さらに基本権の保障体制をどのような原理にもとづいて形成するかということに関しては権利能力平等の原則、所有権絶対の原則、私的自治の原則があげられる。
哲学
仏教における執着の否定について
執着とは、一つのことに意識を固定化させることによって、そのほかのことにまで考えが及ばなくなり自分を中心に物事を考えてしまうことである。
では、執着とはどのような場合に起こるか。人は生きている限り、何らかの目的を持つことは必然であるが、立てた目的が人生のすべてだと思い込んでしまうと、人間は執着に陥ってしまう。目的を持つことが執着の問題ではなく、目的を絶対視してしまうことが問題なのである。人間はいかにすばらしい目的を立て、それを追求したところで、自身のみでは生きることはできない、なぜなら、この世の森羅万象は、縁起の法則にしたがっているからである。縁起の法則とは、すべての物事は原因があって起こるということである。すべての事物は存在する限り、相互に依存しあう関係なのである。目的を絶対視してしまうとそのことを忘れ、自分が他とは関係ない存在だと思ってしまう。仏教はこれを否定している。
これは自然についてもいえそうである。人間は自然を破壊しているが、それはやがて自分やその子孫の未来を破壊することに帰着する。そのことに我々はしばしば気づかない。これを説明するために植物を考えてみる。植物は我々の食糧となり酸素を供給してくれている。にもかかわらず生活を便利にするなどの理由で、植物を容易に無駄に破壊してしまう。我々は植物がなければ生きることができないのに。植物は人間がいなくてもいきることができるのである。地球を守ろうなんて掛け声はおごりとさえいえそうである。地球は我々が守らなくても存在し続けるだろう。それがなければ生きていけないのは私たち自身である。自分が何らかのものに依存していることをもっと冷静に考えなければならない。
仏教における執着の否定について
執着とは、一つのことに意識を固定化させることによって、そのほかのことにまで考えが及ばなくなり自分を中心に物事を考えてしまうことである。
では、執着とはどのような場合に起こるか。人は生きている限り、何らかの目的を持つことは必然であるが、立てた目的が人生のすべてだと思い込んでしまうと、人間は執着に陥ってしまう。目的を持つことが執着の問題ではなく、目的を絶対視してしまうことが問題なのである。人間はいかにすばらしい目的を立て、それを追求したところで、自身のみでは生きることはできない、なぜなら、この世の森羅万象は、縁起の法則にしたがっているからである。縁起の法則とは、すべての物事は原因があって起こるということである。すべての事物は存在する限り、相互に依存しあう関係なのである。目的を絶対視してしまうとそのことを忘れ、自分が他とは関係ない存在だと思ってしまう。仏教はこれを否定している。
これは自然についてもいえそうである。人間は自然を破壊しているが、それはやがて自分やその子孫の未来を破壊することに帰着する。そのことに我々はしばしば気づかない。これを説明するために植物を考えてみる。植物は我々の食糧となり酸素を供給してくれている。にもかかわらず生活を便利にするなどの理由で、植物を容易に無駄に破壊してしまう。我々は植物がなければ生きることができないのに。植物は人間がいなくてもいきることができるのである。地球を守ろうなんて掛け声はおごりとさえいえそうである。地球は我々が守らなくても存在し続けるだろう。それがなければ生きていけないのは私たち自身である。自分が何らかのものに依存していることをもっと冷静に考えなければならない。