自己と他者 

自己理解、そして他者理解のために
哲学・ビジネス・雑記・洒落物など等

新植物をつくりだす

2005-01-29 12:20:13 | 国際・政治・社会・経済
『新植物をつくりだす』 岡田吉美 著 岩波ジュニア新書 

 植物はわたしたち人間を含む多くの生物が生きるために欠かすことのできない食糧や酸素を供給してくれている。分子生物学の発展は新しい植物を作りだし、それは人間の生活にさらに恩恵をもたらす可能性を秘めるとともに、不安や危険も秘めている。
 わたしたちが口にしている農作物の多くは近代科学発展以前にすでに栽培植物として存在していたもので、人類祖先の努力によって栽培に適した良い植物が選抜(育種の第一歩)され、今日まで伝えられたのである。
 近代科学が発達してくると遺伝学、生理学、生態学などを基盤にした科学的な育種技術がうまれ、合理的な植物改良が行われる。育種とは、違う品種間で交配を繰り返すことで、植物の悪い性質を改良し、病気に強く、収穫量の良い、新しい品種の植物に一歩一歩改良すること。いろいろ方法はあるが、広く行われているのは二つの品種を掛け合わせ(交配)て行う交雑育種である。交配とは二つの植物を掛け合わせて受粉を行うこと。100年前まで経験的に行われてきたが、20世紀になるとメンデルの遺伝法則を応用した科学的な育種が行われるようになった。
 形質や、対立形質、表現形とは植物を改良するための基礎となる遺伝学の用語である。
 形質とは、「生物にあらわれた遺伝子によって決定されている性質で花の色や形、茎の長さなどのこと」。遺伝とは、形質が子孫に伝わっていく現象。どのように伝わり、どのように現れるのかを調べるのが遺伝学である。染色体とは細胞の核の中にある「たくさんの遺伝子の集合体」。遺伝子の本体はDNAという核酸の一種。染色体のDNAはヒストンというたんぱく質と結合して安定している。染色体は遺伝子DNAとたんぱく質からできている構造体で、生物の形質を決めるおおもとである。人間の体の細胞には対をなして2本ずつあり、ひとつは父親から、もうひとつは母親から受け継いだものでこれを相同染色体という。染色体は人は46本、はつかねずみは40本、ショウジョウバエは8本というように数や形は生物によって違う。相同染色体の間で、あるひとつの形質が互いに異なっている場合(一方の花は赤、もう一方は白など)を対立形質という。それに関係している遺伝子を対立遺伝子という。植物の形質として現れる形態や生理的な性質の型をこの植物の表原型という。表現型として現れる形質を優性形質、隠れている形質を劣性形質という。優れている、劣っているという意味ではない。
1856年メンデルはエンドウの交配実験の結果をまとめ、発表するも注目されず、1900年フリースら3名が引き継ぎ、論文を発表すると真価が認められ、近代育種の出発点となる。劣性形質が3対1の割合で現れてくる現象をメンデルの分離の法則という。メンデルの遺伝学の法則はソラマメの交配実験によって見つけられた。もうひとつ重要なのが遺伝の粒子説を提唱したこと。流体のようなものが遺伝をつかさどっていると考えられていたが分離の法則が説明できなかったので、メンデルは粒子のようなものが遺伝をつかさどっているのだ(遺伝因子)と考えた。この因子が遺伝子と呼ばれるようになる。
交配による育種の特徴は、交配によって生まれる子孫が一種類ではなく、ランダムにできてしまう。良い品種が生まれるかどうかは運まかせだった。また植物育種の基盤技術になっている交配は同じ種の中でしか成立せず、種の壁が存在した。イネはイネ、トマトはトマトというように同種でしか交配できない。
 フリースはメンデルの法則に従わない形質をを持つものが突然現れることを発見する(突然変異)。その後、ビードルがアカパンカビを使って遺伝子が支配している形質の現れ方(発現)を研究し、栄養要求株が突然変異によって現れることを発見し、さらに放射線を当てると栄養要求株の現れる確立が非常に高くなることが分かった。遺伝子は普通安定物質で、細胞の中で正確にコピーされ子孫に伝えられるが、時折エラーが生じる。放射線はエラーを引き起こす原因となる。エラーは、遺伝子である核酸分子の塩基配列に変化が起こることで、それは遺伝子が指定しているたんぱく質のアミノ酸の並び方も変わることであり、結果、生物の形質も変化する。このような変異した遺伝子を持っている個体を変異体、変異株という。自然界における突然変異の頻度は普通10万分の1から100万分の1程度で、ペチュニアやアサガオのように頻度の高い遺伝子もある。放射線照射によって頻度を高めるという方法は植物の生存に不利に働くものが多く農作物の改良に利用できるものはなかった。現在は自然界の突然変異を探し出し、有望な遺伝子を見つけ育種に利用するのが主流。自然突然変異株は国際間の紛争を招くほど重要な資源となっている。しかし、突然変異の持つ形質も交配によってしか目的の栽培植物に導入できない。主の壁は越えられない。
1950年代に、大腸菌と大腸菌に感染してそれを殺すウィルスの遺伝子の分子レベルの研究を中心にした分子生物という学問が誕生。この研究から種の壁を越えた遺伝子組み換え技術が誕生した。生きている細胞が研究対象だったが、やがて、生きている細胞を壊して、内部物質の有様を探る学問の生化学が生まれる。生化学は細胞の中で起こる化学反応を発見し、酵素という特別の機能をもったたんぱく質が重要な役割を果たしていることをつかんだ。その後、物理学者が「生命現象も物理学の法則に従っているのか、それとも生命特有の法則によって支配されているものなのか」という問題意識から分子生物学の研究に参入してきた。生化学の研究対象は主に動物細胞だったが、独立した生命を持ち、もっとも単純な系である大腸菌やファージを研究したほうが解析しやすく、研究も進むと考えた。分子という視点から見た生命現象には種の壁はなく、遺伝子こそ生命現象の中心にある分子だと考えた。DNAの二重らせん構造の発見によって遺伝子は物質としての姿を現し、遺伝という現象はDNAという分子のふるまいだと理解された。遺伝子に記された情報はDNA分子の塩基の並び方であり、配列とその意味の解読が始まった。セントラルドグマというDNAからRNA、RNAからたんぱく質という情報の流れ、またその過程で機能する反応が解明され、「遺伝コード」が地球上の生物種すべてに共通していることを発見した。遺伝コードとは、mRNAの塩基配列がアミノ酸に翻訳されるときに使われる辞書。たとえば、ウラシルが三つ並んだ「UUU」という配列は「フェニルアラニン」というアミノ酸を指定するコードである。この遺伝コードが地球上の生物すべてに使われていることが分かった。つまり、まったく異なった生物種間(細胞からできている)でもDNAという分子レベルでは種の壁はなく、交配が可能という発想が生まれた。それを実現させた技術が遺伝子組み換えである。1974年カエルの遺伝子DNAを切り出して、大腸菌の中で増やす実験に成功し、75年DNAの塩基配列がどのようになっているかを突きとめる技術も開発され、「ある生物の遺伝子を、人工的に多種の生物の遺伝子の中に加えたり、入れ替えたりする」ことが可能になった。こうして組み換え動物、組み換え植物が誕生し、分子生物学は真核細胞の遺伝子セットであるゲノム研究へと向かった。
 遺伝子の本体がDNAという核酸の分子であると突き止めたのは形質転換という実験を繰り返し行った細菌学者のエイブリーである。
 遺伝の仕組みはDNAの2重らせん構造によって説明できた。DNAは、リン酸と糖が交互につながった長い鎖状の分子。糖には塩基がついている。塩基にはアデニン(A)、シトシン(C)、グアニン(G)、チミン(T)の4種類ある。「リン酸、糖、塩基」を一単位としてヌクレオチドという。DNAはヌクレオチドが長くつながってできた分子。ヌクレオチドがたくさんという意味でポリヌクレオチド呼ばれている。DNAの塩基配列はACGTというように表す。遺伝情報はすべてDNAの塩基配列として書き込まれているため順番は非常に重要である。DNAはどんな立体構造をしているか、シャルガフはDNAの塩基組成を分析し、どんな生物からとったDNAでもGとCの含有量は等しく、またAとTの含量も等しいという規則性を見つけ、ワトソンとクリックはDNAの分子構造のモデル二十らせん構造モデルを打ち立てた。それは、互いに逆方向の二本のポリヌクレオチド鎖が二十らせん構造をとり、そのらせんの内側に向けて塩基が飛び出しているというモデルである。このモデルでさらにDNA遺伝子としての生物学的性質も説明することができた。
 DNA塩基配列は大きく分けて二つある。一つは構造遺伝子と呼ばれ、細胞やその集合体である個々の生物が生きていくために必要な、たんぱく質のアミノ酸の配列を塩基の配列として指定(コードする)しているもので、生物の形質はたんぱく質によってきまる。もう一つは構造遺伝子の働きを制御しているもの。DNA分子の塩基配列の指令に従って、たんぱく質が生合成される過程を形質発現という。形質発現の過程はすべての生物細胞で共通の基本的な方式でそれがセントラルドグマ。DNAの塩基配列の構造遺伝子の領域が、RNAポリメラーゼという酵素の働きで、RNAの塩基配列に読み替えられ(転写)そのRNAの塩基配列が「リボソーム」と呼ばれる細胞内の粒子の上で、アミノ酸配列に変換されて(翻訳)たんぱく質が合成される。しかし、原核細胞と真核細胞とではセントラルドグマに従うも形質発現の機構には大きな違いがある。それは遺伝子の編成が違うから。原核細胞は細菌の細胞のこと。細胞内部で遺伝子DNAは裸で存在している。真核細胞は動物や植物の細胞で、微生物の仲間で酵母も真核細胞。
 真核細胞では、細胞分化という現象があるため原核細胞より遺伝子の発現を制御する機構は複雑で、その過程では細胞分裂の際に形質の違う二つの細胞になる現象が起こる。植物では分裂した一つの細胞は根の細胞になりもう一つは葉の細胞になるという現象が起こる。これを細胞分化といい、転写の過程に原因があると考えられている。
 種の壁を越えた遺伝子操作が可能になったのは、長いDNA分子の鎖をある特定の場所でだけ切断する制限酵素と呼ばれる酵素が発見されたため。制限酵素とはDNA鎖の4つまたは6つの塩基配列だけを認識してその場所だけでDNAをある長さをもった断片に切断する酵素。いろいろな細菌が制限酵素を持っており100種類もの酵素が取り出され市販されている。制限酵素の一種EcoRIは認識配列を四塩基ずれた位置で切断するので生じた二つの末端には四塩基の一本鎖DNAの部分が残る。この一本部分同士はお互いが結合して二本鎖DNAをつくることのできる相補的塩基配列になっているから別のDNAのEcoRI断片と簡単に結合して、組み換えDNAを作ることができる。このときの遺伝子が動物や植物の遺伝子だと種の壁を越えた組み換えができたことになる。DNAをハサミで切断し、できた断片ののりしろ同士をつなぎ合わせて遺伝子を組み換えるというのは制限酵素の機能を説明するもの。
 ある特定の遺伝子だけを取り出して大量に増やすことをクローニングといい、後に植物へ外来遺伝子を導入する方法に応用された。大腸菌の細胞には染色体とは別に細胞質で自己増殖している、小さな環状DNAがある。これをプラスミドと呼び外来遺伝子を目的の細胞に運ぶ運び屋(ベクター)としてつごうのよい性質を持っている。このプラスミドのDNAに増やしたい外来遺伝子のDNAを組み込めば、プラスミドの増殖とともに外来遺伝子も何百倍に増やすことができる。
1976年には人成長ホルモンを組み込んだ大腸菌が78年にはヒトインシュリン遺伝子を組み込んだ大腸菌が作られ、今では大腸菌に人の成長ホルモンやインシュリンを作らせ医薬品として使用されている。
バーグは、大腸菌のベクターに動物ウイルスの遺伝子を挿入した、組み換えDNA遺伝子を初めて試験管内で作りノーベル賞を受賞している。
 しかし、バーグも倫理的な問題意識から組み換えDNAを大腸菌に導入して増殖させる実験をすぐには行っていない。そして1975年にはDNA組み換え実験に関する会議を開き、組み換えDNA実験のガイドラインを作ることにし、科学者が作った新しい技術が生み出すかもしれない危険性を想定し自主規制した。
 遺伝子組み換え植物が最初に実用化され市場に登場したのは92年に中国で作られたタバコ、94年アメリカでは日持ちのよいトマトが登場した。99年のマーケット取引高は20億ドルを突破している。
 近いうち登場する新植物には大きく分けて3つある。①生産者である農家だけでなく消費者にも利益をもたらす新植物。②暑さ、寒さ、乾燥などの悪い環境にも強い新植物。③分子農業に利用できる植物。①は食糧や飼料などの栄養価を向上させるような形質を持った作物。すでにアメリカでは95年にオレイン酸高生産性ダイズが商品化されている。オレイン酸は血中コレステロールの値を下げる効果の脂肪酸である。また主食である米としてゴールデンライスと呼ばれる開発途上の人々のビタミンA不足を解決するために計画された組み換え作物が注目されている。②に関しては不飽和脂肪酸の含量を低くすることで暑さに強い植物作るという研究や乾燥に強い作物を作るために塩害に強い植物の研究が進められている。③は植物を工場のように利用しようという研究。すでに医薬品や検査薬が植物から生産されている。注射でなく食べるワクチン開発もこの分野の課題。開発途上の人々にとっては食べるワクチンができればおなかを満たすだけでなく、健康をも改善できるものになる。
ここまで遺伝と植物の進化を述べたが、組み換え遺伝子技術へのリスクにどういったことが考えられ、何が不安材料か。まず、遺伝子技術に対する理解を深めるための教育的課題として、アメリカの有名大学では生物学を全学生の必須科目にしているのに対し、日本では生物学の単位を取らなくても医学部に入学できることを述べている。そもそも日本では理解される土壌ができていないといえるのではないだろうか。
 種の壁を越えた遺伝子組み換えは自然の摂理に反する技術か。DNAのレベルでは種の壁は存在しないことが分かった。遺伝コードは地球上の生物すべてにおいて共通している。また細菌などの原核生物の世界では種の壁を越えた遺伝子組み換えが、頻繁に起きていることが分かっているとする。わたしは遺伝子組み換えの研究に当たっている研究者は高い倫理のもとで行動し、恩恵を享受する消費者には組み換え技術について理解を深めるための教育が必要であり、さらに著者が指摘しているように輸出国と輸入国双方の行政機関が責任を持って流通の過程を厳しくチェックすることは最低限必要なことだと思う。



生産行動

2005-01-29 12:09:58 | 国際・政治・社会・経済
生産行動理論
参考:ジョゼフ・E・スティグリッツ ミクロ経済学
経済学原論Ⅰ

ミクロ経済学
 企業の目的とは、利潤(収入と費用の差)を最大限にあげることである。その目的を果たすために企業はどのような要因を考慮しながら生産行動を決定しているのか、各企業はどのように産業を組織し、市場を形成しているのかを考えてみたい。
企業と費用
 生産関数とは投入物(生産要素=原料や燃料、労働力など)の組み合わせから生産される産出量を表したものである。
投入量が増加するよりも少ない割合でしか産出量が増加しないことを収益逓減という。一方、投入量が増加するとそれ以上の割合で産出量が増加するような企業は収益逓増(徐々に増える)であり、投入量に対して産出量が同じ割合で増加するようなケースを収益一定であるという。
 利潤最大をめざす全ての企業は生産したい産出量での費用を最小にする生産方法を選択する。費用が最小ならば利潤が最大になるからである。それまで扱っていた投入物の価格が上昇するとき、他の安価な投入物で代替しようとすることを代替の法則という。
生産の決定
 収入曲線とは企業の総産出量と収入の関係を表すものである。競争的企業にとっては、生産物をもう一単位追加的に販売することによって得られる限界収入はその財の価格に等しく、市場価格(もう一単位生産を増加することによって得られる限界収入)と限界費用(産出物をもう一単位追加して生産するために必要となる費用の増加額)が等しくなる産出量を選択すると利潤が最大になる。
 財の市場価格が平均費用(総費用=生産にかかる全ての費用を産出量で割ったもの)の最小値を上回っているならば販売によって得られる収入がその財を生産するための費用を上回るため、企業は利潤を得ることができる。よってこの場合には企業は市場に参入する。反対に、財の市場価格が平均費用の最小値を下回り、かつサンクコスト(回収できない費用)がない場合には、企業は即座に市場から退出し、サンクコストがある場合には、短期において少なくとも可変費用以上の収入が得られる限り、その企業は生産を継続する。 
市場構造 
 市場構造は完全競争の他、競争が制限されるタイプとして主に三つに分けられる。①市場供給のすべてが一企業だけで行われており、競争相手がいない状況を独占という。②いくつかの企業が市場に供給する場合を寡占といい、③企業数が寡占より多いが完全競争ほど多くない場合には独占的競争と呼ばれる。寡占や独占的競争を不完全競争ともいう。市場が完全競争ではなく不完全競争となるのは比較的少数の企業が市場を支配したり、品質や価格、立地点の違い、消費者の認識の違いまたは各企業が差別化された製品を生産する場合であり、意図的に参入障壁を高くしようとする既存企業の戦略によるところが大きい。
  しかし、寡占企業はライバル企業と共謀してより高い利潤を得るか、それとも競争して利潤を高めるかについて選択しなければならない。さらにライバル企業が自社のとる行動に対してどのように反応するかについても決定しなければならない。
寡占産業においてはライバル企業が値引きに同調するが、値上げに同調しない場合、企業は屈折需要曲線に直面する。屈折需要曲線に対応する限界収入曲線は、垂直方向に不連続な部分を持つが、そのために企業は費用条件が少々変化しても価格や産出量を変えないかもしれない。



資本主義と信用

2005-01-29 12:05:12 | 国際・政治・社会・経済
参考:都留重人 編 経済学小事典 岩波書店
   明治大学政経学部教授 飯田和人 経済学言論Ⅱ 講義

資本主義経済と信用
 商品流通が発達してくると、買い手と売り手の事情によって商品売買が貨幣の後払いの約束を信用して成り立つようになり、それが市場経済での信用の基礎形態をなす。資本主義のもとでは、再生産にたずさわる諸資本のあいだにおける商品の信用売買が、商業手形を媒介に商業信用を形成する。商業手形は、裏書による連帯債務保証を加えて、さらなる商品の購入に用いられ、基礎的な信用貨幣として、資本家間の商品流通を弾力的に拡大する機能を持つ。 しかし、商業手形はその特定の金額、支払期限、信用度などにより、流通性に限度がある。 
 銀行信用は、商業信用にもとづき、債権・債務の関係をさらに社会的に拡張し、組織する。古典的には、銀行は一覧払いの約束手形としての銀行券を発行し、諸資本の遊休貨幣資本を預金として集めて社会的な債務を負い、他方で産業資本や商業資本の必要に応じ、その保有する商業手形をその銀行券や現金と引き替えて、利子分を割り引きつつ、手形債権を取得する。銀行券は、商業手形より高次の信用貨幣をなし、古典的金本位制のもとでは、諸銀行の銀行としての役割を果たす中央銀行の銀行券もそのさらに高次的な展開形態をなす。こうした商業信用と銀行信用からなる信用制度は、産業資本と商業資本の遊休資本の相互利用を資本化社会的に媒介し、それによって利潤率の増進と均等化の運動を弾力的に促進する。 
 しかし、その反面で、産業循環の局面によっては、諸資本の投機的発展を過度に助長し、その崩壊過程で、支払手段としての貨幣の入手困難とその連鎖を介して商品の投げ売り、諸資本の倒産、大量失業の発生を伴う恐慌による資本の価値破壊をもたらす不安定性を内在させている。
 このような恐慌対策として、中央銀行は貨幣流通量や利子率を独立変数として動かすことができる。しかしながら、投機的動機にもとづく貨幣需要量の増加に対して金融緩和を行っても、利子率はあるところまでいくと下がらなくなるので注意が必要である。
 中央銀行券にも金兌換を停止して、通貨の国家的管理体制を強化している現代資本主義は、こうした信用の機能の社会的統御を重要な課題としてきた。
{国際的側面}
 国際取引の決済手段として最初に用いられた国際通貨制度は国際金本位制である。金本位制とは、金を貨幣制度の基礎となる貨幣とすることをいう。この金本位制度は四つの原則に支えられていた。①金の一定量を持って貨幣の単位とし、②銀行券と金貨との兌換は自由であり、③金貨の鋳造・鋳解の自由④そして金の輸出入の自由である。
 金為替本位制度とは、国際金融の中心国が金貨本位制(アメリカ)か金地金本位制(イギリス)を採用していることを前提として、その他各国は金本位制をとる中心国の通貨(基軸通貨)で払うことを約束した為替手形で、国際間の決済システムである。第一次大戦後の再建金本位制で金準備を持たない国が採用した。第二次大戦後は、IMF体制(ブレトンウッズ体制)であったが、この制度は世界に対する国際流動性の供給をアメリカの経常収支赤字に頼っており、流動性の供給と回収は困難だった。そして71年ニクソンショックが起こるとアメリカは金との交換を停止し、73年には主要国が自由変動相場制を採用し、ブレトンウッズ体制は崩壊した。現在は資本移動の自由と変動相場制を特徴とする国際通貨制度となっている。



税制改革 要旨

2004-12-16 14:54:31 | 国際・政治・社会・経済
与党税制改革大綱 2004 12/15(水) 日本経済新聞(夕刊)

【新しい時代への税制改革の道筋】

●2005年度税制改正において,定率減税を二分の一に縮減する。
 なお,今後の景気動向を注視し,必要があれば,政府与党の決断により,
その見直しを含め、その時々の経済状況に機動的・弾力的に対応する。

●2006年度においては,わが国は経済社会の動向を踏まえつついわゆる
三位一体改革(国と地方の税財政改革)の一環として,所得税から住民税へ
の制度的な税源移譲を実現し,合わせて国・地方を通ずる個人所得課税の
あり方の見直しを行う
 この税源移譲にあたって,納税者の負担に極力変化が生じないようにする。

●2007年度をメドニ,長寿・少子化社会における年金,医療,介護等の
社会保障給付や少子化対策に要する費用の見通し等を踏まえつつ,その費用を
あらゆる世代が広く公平に分かち合う観点から,消費税を含む税体系の抜本的
改革を実現する。

●住宅税制=耐震基準を満たす良質な中古住宅を住宅ローン減税の対象に追加
する。
●金融・証券税制=特定口座へのタンス株の受け入れを2006年4月以降も可能
とする。
●国際課税=外国子会社合算税制の見直しや非居住者等の国債保有などにかか
る事務負担の軽減処置を講ずる。
●中小企業・ベンチャー支援=エンジェル税制を延長する。過剰債務企業が迅速
かつ確実に債権しうるよう民事再生法などの法的整理や一定の私的整理が行われる
場合の税制上の処置を講ずる。

以上。
大前研一氏もメルマガに書かれていましたが、これからドンドン税負担が増してくる
でしょう。同時に「歳出をこれだけ削減しています!」と公開しないと納得するはずないの
ですが。その辺が相変わらず変わりせんね。消費税20%なんてことになったとき,
どう対応していくのでしょうか。今こそ重い腰を上げて取り組むべき時だとおもいます。





憲法(9条を含む)改正議論に抜けた視点

2004-12-16 00:11:54 | 国際・政治・社会・経済
参考長谷部恭男 著 『憲法と平和を問い直す』 ちくま新書

現在行われている憲法改正論議に欠けている視点がある。
それは「立憲主義」という視点である。

憲法を論議する上で欠けている立憲主義という考え方から、憲法、立憲主義の起源、民主主義、自然権、公と私、公共財としての権利、国と人間の関係、国境などについて説く。    
立憲主義的憲法は、比較不能な価値観が、社会的システムである政治に混入することのないように、人為的に権利を公と私に区分し、一箇所に権力が集中することがないように民主主義をも制限する。 
著者の意見は、立憲主義的憲法は人間の本性(自然)から生まれたものではなく、人為的に生まれたものだからこそアプリオリな基準などは存在しない、存在しないからこそ後退すればどこまでも後退する可能性があるため、いまある憲法にこだわる必要があるとしている。
長谷部氏が指摘しているように、「人権」や「個人の尊重」というような単語は、人間の思考を停止させるのに十分な力を持つ。人権、自然権、国家などという概念は、人為的に生まれたもので自然なものではない。立憲主義という思想は、宗教戦争(比較不能な価値観の対立)を経た近代ヨーロッパで生まれた。何が正義であるかという問題が不確定だと人々が共同で社会生活を営み、人間らしく暮らすことは不可能となる(P49)。世界観、宇宙観の対立は殺し合いにいたる争いを招いた。
しかし、自分の命は誰もが守ろうとするという自己保存という点では一致する。グロティウスやホッブスなどの社会契約論者は、すべての人が生まれながらにして自己保存への権利、つまり自然権を持つという考え方をベースに、異なる価値観の共存しうる社会の枠組みを構築しようとした(P50)。立憲主義はそこから生まれた。
 比較不能な価値観の対立(万人の万人に対する闘争)が争いの原因であるならば、人々の深刻な対立をもたらしかねない根底的な価値観の対立が社会生活の枠組みを設定する政治の中に進入しないようにする必要がある(P.58、59)。そこで人間の本性に基づく自然のものではなく、人為的に公と私の区分、政治と宗教を区分する必要性が生まれる。
憲法ができた時代と現在では、交通機関、通信技術の発達により、人、物、金、情報などが国境を越えて激しく行き交うようになり、価値観は多様化し、好き嫌いにかかわらず、多くの人間とコミュニケーションする必要性が増してくる。
しかし、そんな今だからこそ、論議の前提となる共通の物差しとして憲法は生まれたということをもう一度考えるべきだと思う。憲法が現実とそぐわないから憲法を変えるのではなく、そぐわないならなぜそぐわないのか、現実のどこに問題があるのか、その問題は本当に憲法を変えなければ解決できないのか。変えるとしても一部の人々の価値観が混入するようなことがあれば国民投票においてきちんとNOを表明しなければならない。
憲法9条を変えた場合に、海外からはどのような反応が考えられるか。カンボジアにおけるPKO派遣にしても、イラクへ自衛隊を派遣するにしても、「金を出すが、人は出さない」という話が海外から出て(特にアメリカから出た「SHOW THE FLAG」、「BOOTS ON THE EARTH」)大きく報道されたように思うが、一方で、現在の憲法9条を理解し、すばらしいものだと考えている外国人だって確実にいるはずだがそのような報道は少ないように思う。そうしたことまで含めて、十分に議論した後に憲法を変えるべきかを検討するべきである。立憲主義を考えることは論議の前提となる「共通の物差し」を考えることである。そういう意味で、長谷部氏の本は興味深く読めた。



脱中央集権 三位一体論

2004-11-28 14:28:01 | 国際・政治・社会・経済
[脱中央集権 三位一体論]

三位一体論とは、
①税源を国から地方自治体(以下地方)へ移譲する代わりに、
②補助金をなくす方向へ削減し、
③地方交付税交付金も直すというもので、
 
 この3項目は切っても切れない関係にあるので同時に行われなければ、
効果はないので三位一体といわれている。

 この議論が盛んに行われている背景として、
端的にいえば、国と地方の債務である(借金=国債発行残高)
財政の赤字が700数十兆円あり財政危機状態だからである。

 これまでは一度中央へ税金を集めて、
予算を組み、補助金や地方交付税交付金という形で地方自治体へ分配
していたが、コスト高でやっていけなくなった。
 そこで、ある程度の税源を地方へ移譲することで地方にできることは
地方にやってもらうことで国の負担を削減しようという意図がある。




浜岡原発

2004-08-11 14:11:07 | 国際・政治・社会・経済
8月7,8日と大学の友人である葛西さんに誘われて、自分も浜岡原発の実物を見たかったこと、現地で原発を直視し、東海地震との関係から生命の危機を感じて反対活動をしていらっしゃる人々の問題意識を少しでも共有できればと思い、浜岡原発問題を考える会の伊藤さんという方から説明を受けながら原発及び関連施設を廻らせていただきました。
原発を作るために山を切り崩し、砂丘の一部を埋め立てたために景観が失われてしまったこと。浜岡原発がどれほど弱い地盤の上に立っているか。実際に地層が見える場所を見て驚きました。当然、その上に立っている原発は地震が起きたらどうなるか。
ところが、電力会社は苦し紛れにその事実を隠していること。
(内部告発がでたことで、言い訳もぼろぼろになりつつありますが。)
原発産業がいかに地域経済を疲弊させているか、
などについて教えていただきました。
原発を設置することで交付税や補助金が一緒に降ってきますので、図書館や病院、温水プール、道路なんかはピカピカでした。
しかし、病院には医療器具は本当に立派なものがそろっているが、医者がいないとのこと。プールなんかは通常の倍ぐらいのお金がかけられているが、建設業者の
手抜き工事で屋根が一度落ちているということ。欠陥だらけでした。
財政に関しても市レベルでは今の地方自治体には考えられぬ、赤字0。ところが、浜岡原発やこれによってできたハコモノ公共施設はまったく採算が合わないとの事ですから、
県や国レベルの財政を圧迫していることと変わらない。私たち(御前崎市外に住む人々)の税金が御前崎市の財政を良好にしているとも言えてしまうわけです。これは私たちが間接的に【地震が起きる地盤の上にある原発】を延命させているとも言えてしまう。東海地震が起きて、自分たち(御前崎市外に住む人々)の生活に影響がでてから浜岡原発の存在を知らなかったと言う権利はありません。その前に止めるための声を上げる必要があります。これは反対派だけで完結できることではありません。行政、議会、企業、地元住民、地元以外の人々と連携する必要があります。
訪問する前は自分も原発の経済効果も無視できないのでは、と思ううちの一人でしたが、いつ起こるわからない原発震災の危険を常に感じながら、いまも原発と共生し、それを止めようと原発を直視している現地住民にとって、この発想はとんでもないということがわかりました。原発は癒着の温床でしかない。富士山がある静岡県に原発があり、それは今も動いている。このリスクを回避するためにも日本全国からの世論が必要と認識しました。



明日は大学二年前期のラストテスト

2004-07-27 23:37:14 | 国際・政治・社会・経済
 明日は、試験のラスト科目の数学だ。
 これが終わったら、気が楽になるがそうも言ってられない。
今回のテストで感じたことだが、一日勉強すればある程度の
点は取れてしまうという大学のテストのレベルに危機感を感
じずにはいられない。こんな事で満足しているわけにはいかない。
アイビーリーグ何するものぞ!!
オックスブリッジ何するものぞ!!
大学は大きすぎるためにスピードを失っている。
フィードバックの遅さ、
生徒の質の悪さに気づく遅さ、
世界の大学に伍していくための準備の悪さ、
このことが示す意味は、
結局は、いかに個人レベルで自己の成長を促進するためのことを
やっているかということだと思う。
自己研鑽に励むのみ。


哲学 知を愛し求めるとは・・・

2004-07-22 08:22:19 | 国際・政治・社会・経済
ソクラテスとカントの哲学について

●ソクラテスの思想について
 「問題なのはただ生きることではなくてよく生きること」それにはまず、自分が知っていることなど何もないことを知っていなければならない。ソクラテスはそれを知っていたからこそ知を愛し求めること、つまり真理を探究することこそが人間にとって一番重要なことだと考えた。
だから彼は、知らないことは何もないというような知識人と呼ばれている人に対して強い違和感を持った。そしてそのような知らないことまで知っているような振る舞いをする人々に、お前は無知だ、ということを議論しながら暴いていった。ところが、この行動は快く思われなかった。そしてソクラテスのこうした知を愛し求める姿勢を邪魔と感じたうちの一人であるメレトスによって裁判にかけられてしまう。若者を新しい神々を導入して、たぶらかしているという理由で。その結果、ソクラテスは死刑判決となってしまう。
これは不正な裁判であったがソクラテスは死刑を受け入れた。なぜなら、不正とはいえ、民主主義であり、言論の自由が存在したアテナイで起きた裁判であったから。この不正裁判、判決で死刑を受け入れるソクラテスに対し、友人のクリトンはこんなでたらめな裁判の判決を受けることなどないではないか、と説得しようとしたが、ソクラテスはこういった。「不正裁判による死刑だからといって、自分が不正行為によってその死刑から逃れたら、その瞬間に自分の今まで言ってきたこと、生きてきたことを否定することになると。」死刑になったからといってそうした考えは揺らがない。なぜなら、ソクラテスの知を追い求める態度は、こうした時間や他人の言葉に左右されない価値観(原則といってもいい)に立脚していたから。人間にとって命よりも大切なものは真理を探究すること。それを自分で否定するようなことは死刑を受け入れることよりも不可能なことだった。
不正な裁判による死刑判決だからといって、不正にその状態から自分が抜け出したら、自ら信じていた不変の原理原則を破ることになる。それは自分を自分で否定することと同じことだった。なぜなら、人生はただ生きることではなくよく生きること、という考えは死刑になる前も後も変わることはない原理原則だったからだ。もし、死刑を不正によって逃れてもその後は、ただ生きる事を意味することになる。だから、彼には不正によって死刑を逃れることなど不可能なことだった。人生をよく生きるには、他人のいう言葉や時間によって変わることのないような不滅の価値観があり、それを守って生きること。それは不滅であり自分自身に当てはまることだけでなく、人間に共通することだからこそ命より大切だとソクラテスは言い切ったのだと思う。この考え方には納得できる。
②講義内容を踏まえてカントの思想について書け
カントは外にものがあるということは証明できない事柄なのになぜ当然のように考えてしまうのだろうかと考えた。それを人間の認識によって説明した。
認識は経験によってなされる。対象が感性に働きかけて印象となり、感性によって対象を捉えた印象は悟性によって結合され認識される。これは、現代の科学で言えば、右脳が感覚的な部分をつかさどるのに対し、左脳が分析的いわば悟性をつかさどっていて物事を捉えているというのと同じでないかと思う。時代を考えると驚く。
さらにカントは、外にものがあるということは証明できない事柄なのになぜ当然のように考えてしまうのだろうかという問いに、それは人間に感性の形式である時間と空間が、悟性には12種のカテゴリーがアプリオリに備わっているからだとした。



CAPITAL

2004-07-22 05:13:28 | 国際・政治・社会・経済
マルクス経済学ですが、資本とは何か?を考えてみます。

 資本は資本主義経済・市場経済が機能するためのエンジン的役割を果たしている。
資本が動かなければ、資本主義経済・市場経済は機能しない。資本が自己増殖する
価値の運動体として自由に動き資本主義経済・市場経済システムが機能するには、
①財産の私的所有が認められていること、
②労働力の商品化がなされていること、
③広範囲で社会的分業が展開されていること、
④遊休資本が存在すること
などがあげられる。

 では、これらの条件の下で資本はどのようにして資本主義経済・市場経済システム
のエンジン的役割をはたしているのか。
 資本主義経済とは、自己増殖する価値の運動体である資本が市場に流通し、
生産・消費・交換・分配が繰り返されることで剰余価値を生みだす経済システムである。
私有財産制と社会的分業の存在によって分離された生産と消費が流通過程=市場
によって結びつけられて貨幣と商品が分配がなされ、再び生産を可能とする。

 資本は一つの形ではなく形を変えて、その目的である剰余価値獲得のための運動を
不断に続けている。どのように資本は形を変えて再生産を可能とするのか。

 貨幣資本を元に、労働力・生産手段である生産資本を手に入れ、その生産資本によ
って商品資本を生み出し、そしてそれを販売することで、再び剰余価値を含んだ貨幣
資本を獲得する。

 このように最初の資本である貨幣資本が一連の過程を経て、剰余価値を含んだ貨幣
資本へと形を変えて戻っていく運動体を資本といい、これを私たちは会社や企業と呼ぶ
ものである。
 ゆえに、この資本の運動はフローレベルでは損益計算書で、ストックレベルでは貸借
対照表などの財務諸表によってあらわすことが可能となる。しかし、これらは資本の運
動を価格によってあらわすもので、商品または貨幣の関係であり、物と物との関係でし
かない。資本における人とモノとの関係はどうなっているのか。
 人と人との関係がモノとモノとの関係になって表れ、この物と物との関係の中で形成さ
れた資本の論理によって逆に人と人との関係を制御する。物象と人格との転倒的な相
互依存関係を資本は作り出す。
 では、人と人との関係がどのようにモノとモノとの関係に媒介されるか。
 資本の人格化によってこのような関係が規定される。資本の人格化とは資本家のこと
である。その資本家の目的はより多くの剰余価値を獲得することである。資本の運動の
中でそれは資本自身の目的となり逆に私的所有者を資本の人格化として関係が転倒
する。これが物象と人格との転倒的な相互依存関係という意味である。