ケンのブログ

日々の雑感や日記

居住地で怖いなと思うこと

2024年05月13日 | 日記
僕は 東海地方で生まれ育ったけれど 高校を卒業して以来 東京に6年ほど そして大阪に30年ほど暮らしてこちらに戻ってきた。

なので もともとこちらの出身と言っても やはり いまだに 東京や大阪での経験が僕の中ではスタンダードになっていてこちらに来て おやっと思うことが多い。

その おやっと思うことの中身は 今のところどちらかというと 印象の良いことよりも あまりよくないといういか 少なくとも僕にとっては好ましくないように思えることの方が多い。

僕は 男の割には電車などで足をそろえて座る癖というか習慣がある。

おかまの真似をしたくてそうしているというよりも、僕は股関節が柔らかくて かつ内転筋がかなり発達しているので 脚をだらっと開いて座るよりはある程度すぼめたほうが 背筋も伸びるしむしろ楽ということがある。

先日 両ひざがくっつく程度に足をそろえて 電車の中でうつむいて寝るというか目をつぶっていた。

脚をそろえて正面を見据えているとやはり それは男性としては ちょっと変わったポーズであることに変わりないので 向かいに座った人が妙に足の位置を気にしたりすることが多いので なんとなく申し訳なくて目を閉じることが多い。

そんな風にして 脚をそろえて目を閉じていたら ある駅で男子高校生が乗ってきて 僕のすがたを見て「きゃははは 面白いやないか」と言って僕の隣にドカッと腰を下ろした。目をつぶっているので見てないけれど たぶん 大股開きで 背中を背もたれに沈めるようなよくあるヤンキー座りをその子はしたのだと思う。

そして 僕の方に体を寄せてきて 友達に 「よし、この場面写真にとってや」と言った。

友達はたぶん写真を撮ったのだと思う。そんな気配だった。

これは いかん 相手にしたらいかん 相手にしたとたんに車内での喧嘩になってしまう。

そんなことになったら 下手したら 高校生も 僕も 手痛いダメージを食らってしまう。

今は 車内暴力などに対する警察の意識も高いから下手したら刑事責任を問われることになりかねない。

ここは がまんと思って ずっと目を閉じていた。

すると 高校生は 僕の方にもたれかかるようになってきた。

僕は 喧嘩はさけなければと思いつつも このままなめられっぱなしでは 高校生がどんどんエスカレートしてきて さらに喧嘩の可能性が高まってしまう。

少しはおどしたらなあかん と思って 脚を閉じたまま 握りこぶしを自分の太もものあいだにねじ込んで 内転筋に力を入れて 電車が揺れても 体はほどんど微動だにしないという芸をやった。

僕は そういう芸が実はちょっとだけできるのです。

その芸を始めて一二分経つと 高校生は だんだん 静かになってきた。

これは やばいと 高校生に 思ってもらえれば喧嘩の確率は下がるししめたと思った。

5分ほどたつと高校生は完全に静かになった。

電車が 目的地に近づいたころ 僕は 初めて目を開けた。

すると その高校生は 単語帳を開いて 勉強していた というか 勉強するふりをしたのだと思う。

まあ、喧嘩にならずにやれやれだった。

ただ こちらに来て ここまで程度がはなはだしくはなくても これに類することを何度か経験しているから 僕は こちらで電車に乗るときは 最後尾 つまり 車掌さんのいる車両に乗ることに決めている。

車掌さんも 僕と高校生の間の出来事は 把握しておられるような気がする。

でも 車掌さんが乗っている車両でよくあんなことできるなと思う。

というか 車掌が乗っている車両とか意識してないだけかもしれないけれど。

でも 大阪に 30年住んでいたけれど こういうたぐいのあほな目にあったことは一度もない。

たとえば 僕が大阪で使っていた私鉄の路線には 野球で甲子園出場経験のある高校もあり そんな駅から 野球部の子が乗ってくると まるで 丸太のように太い手足で 一瞬ごついなあと思うけれど そういう子たちって 一般乗客を威嚇するような態度をとることはほどんどない というか 部活で上下関係などをたたきこまれていてむしろ礼儀正しい子の方が多いくらいだ。

ほんとにヤンキーみたいな子が電車で幅を利かせているって やはり 田舎なのだろうかとおもってしまう。

大阪ではしかるべき領域でヤンキーの子が幅を利かせているのは見たことがあるけれど電車など公共の場所でそれをしているのをあまり見たことがないから、、、。

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これも大阪ではあまり経験しなかったけれど こちらで 時々経験する話。

夜 9時過ぎに 安い定食屋などに行くと 数人のグループで話をしているのだけれど 何を話しているのか全く分からないという集団が少なからずある。

それは 外国語を話しているわけでもなく 小声でひそひそ話をしているわけでもない。

声は 小さくはないけれど 発音がもごもごしていてきわめて不明瞭なので 声はそこそそ大きくても 周りの人間には何を話しているのかわからないという話し方。

いわば 故意に低い声で発音を不明瞭にして声をこもらせているという状態の話し方をしている。

それでいて 仲間内では話は通じているようなのだ。

先日中華料理店に行ったときに お店の駐車場で自動車からなかなか出てこずにいる人たちがいたので ああ あの人たちは 僕がお店に入ってから 自分たちがお店に入ってきたいんだなとなんとなくわかった。

そういうのに逆らわない方がいいと思って その車を極力見ないようにしながら 僕は中華料理屋の店内に入った。

すると案の定 その人たちは 僕が注文し終わったころに数人の集団でお店に入ってきた。

そして話を始めたのだけれど やはり ひそひそ話をしているわけではないけれど 発音が不明瞭で声がこもった独特の話法で話しているので 日本語であることには間違いないのだけれど 僕には その人たちが何を話しているのかまったくわからない。

ちょっと気味が悪いなあと思う。

その人たちには申し訳ないけれど、、、。

それで 僕が食べ終わるにつれて だんだん 声が明瞭になってくる。

僕がその人たちの方を見ないので 少なくとも 僕はその人たちに悪意を持っているわけではないというのがその人たちにはわかるのだと思う。

でも 食事が終わって 会計をする頃になって だんだん 発音が明瞭になってくるって やはり これも あまり気持ちのいいものではない。

たぶん 僕が店を出たら あの人たち お店で 大声で話しているのだろうなと思う。

もう 僕の会計が終わるころには 話し方がかなり元気になってきているから そのように想像がつく。

やはり 気持ちのいいものではないことに思える。

ネットで声をこもらせる方法 と検索してみると 舌を上あごにつけるだけで声はこもる と書いてあるサイトがある。

実際にやってみると その方法で見事に声がこもるし それは 僕が定食屋で聴いたこもった声の話し方にそっくりの声にも思えてくる。

そういう方法を身に着けている人もいるんだなと思う。

他人に 話を聞きとられないという目的のためならば ひそひそ話より はるかに効果的であることは間違いない。

ひそひそ話は 声を潜めているだけで 発音が不明瞭なわけではないので 何を話しているか意外とわかってしまう。

こもった声は 何を話しているのかわかりにくいし 声をこもらせること自体に 一種 威嚇的な効果もあるので その人たちの話に耳を傾けてはいけないという意識も働く。

大阪で あまり 遭遇しなかった 故意に声をこもらせる人に こちらでは 夜9時以降に 頻繁とまでは言えないけれど 時々 遭遇するなと思う。

大阪は夜9時だとまだ 残業をした勤め人がいっぱい街にあふれている時間なので こもった感じにはあまりならない。

そういえば 回転寿司店で 一度とった皿を戻したりする動画を撮って拡散したり カラオケボックスの中で 女性を殺害してしまったり 町長が職員に セクハラを繰り返したり そういう陰湿な事件がこの地方では立て続けに起きている。

なぜなのだろう。

やはり こちらは 自動車で行動することが多いので 自動車の中に こもるという習慣が大阪に比べると多いような気がする。

飲食店なども 大阪のような都会では 直接歩いて行って入るということが多いけれど こちらでは 多くの場合 自動車をとめて そこから店に歩いていく場合が多い。

そういうことも少なからず影響していると思う。

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逆に 僕の自動車は あと3か月で 車検の期限だけれど いまだにワイパーに車検業者のチラシははさんでない。

大阪では 車検が近づくと 割と管理の行き届いたマンションに住んでいるにもかかわらず、ワイパーに車検業者のチラシがそこそこ頻繁にはさんであった

こちらは そういうことをほとんど見かけない。

あと 飲食店で 「おまえらにとって100万は大金かもしれへんけど 俺にとって100万なんてはした金なんや。そんなもんすぐに払ったるわ」みたいなことを電話で大声で話しているおじさんに 大阪 特に 南の方では ときどき 遭遇したけれど こちらでそういう人に遭遇したことはまだない。

こういうのも地域性なのだと思う。

ただ、だれしも 昔の記憶は美化されるというか どちらかというと 陰にこもったタイプのヤンキー的な人を見ていると 大阪の 割とあけすけなヤンキーの人たちが懐かしいなと思うこともある。

人の出方を見て声をこもらせたり 明瞭にしたり ある意味 大阪よりも 怖いなと思うこともあるけれど 八王源先生に教わった 極力その人たちの方を見ないでかかわらないようにすること というのを実行して また 安全は 人事を尽くして あとは天におまかせするという気持ちをいつももっていれば怖いということはないというか そういう気持ちはかなり軽減するのだと思う。

まあ いずれにしても いちにち いちにち 安全に 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。





名古屋の街で

2024年05月07日 | 日記
名古屋のドン・キホーテの横を通った時に聞こえてきた会話。

「やっぱり 数あたることが大切やぞ。ほんで、うまくいったときのパターンを頭に叩き込んでおくんや」

たぶん客引きかナンパの指南をしているところなんだろうなと思う。

そういう世界に入ったことはないけれど うまくいくと面白いのかもしれない。

名古屋駅の近辺で聴こえてきた会話。

「そうですか 安城に行く最終電車はそんなに遅いですか。岐阜はもっと早いです。安城に負けました。くやしいなあ。安城はトヨタの勢力が及んでるんですかねえ。岐阜よりも栄えてそうです」

本当に 岐阜もまもなく県庁所在地から百貨店がなくなるし 昼間の柳ケ瀬はほとんどシャッターがおりているし。

でも 「岐阜は安城に負けました」 って田舎の会話だなあと思う。

※実際に乗り換え検索で調べてみると 名古屋から岐阜も安城も最終電車の時刻はそんなにかわらないようだけれど。あくまで道行く人の会話なので、、、。

それはともかく一日 いちにち 無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。



室内楽のコンサートに行く

2024年05月01日 | 音楽
4月28日 日曜日 名古屋のハレ ルンデに名古屋フィルのメンバーの方が演奏される室内楽のコンサートに行った。

最初、ピアノの方がメシアンの前奏曲より 鳩と 幼子イエスにそそぐまなざしより 聖母のまなざしを演奏された。

僕は、コンサートでここ10年くらいは 真っ先に拍手をするということをしたことがない。

それで 一曲目の鳩が終わった後 誰かが拍手をしたら僕もしようと思っていたのだけれど 結局誰も拍手をしなかった。

それで ピアニストは二曲目の聖母のまなざしを演奏された。

結果的に 拍手のタイミングということで言えば 鳩と 聖母のまなざしが二曲セットという形になってしまった。

メシアンの曲なので 「終わった 拍手だ」という感じの終わり方ではないのだけれど 結局
誰もが、誰かが拍手をしたら と思っているうちに結局 誰も拍手をしなかったということなのだろうか。

きっと そうだと思う。

演奏は 素晴らしいものだったから、、、。

一曲目で拍手がないときに ピアニストが立ち上がるなどして 曲が終わったことを観客に示すかなと一瞬思ったのだけれど それもなかった。

たぶん ピアニストの方の判断で 下手に拍手を促して 雰囲気が崩れるよりも そのまま メシアンの 深遠というか 混沌というか そういう雰囲気を保ったまま二曲目に進めばいいや となったような気がする。

僕の勘にすぎないけれど。

それから チェロと バイオリン それにクラリネットが加わって同じくメシアンの
「時の終わりのための四重奏曲」が演奏された。
これは コンサートのチケットを買ってから2度くらいYouTubeで聴いたのだけれど 家の小さいブルートゥースのスピーカーで聴くとちょっと退屈な曲に思えた。

コンサートで根気が続くかなと不安も少し感じながら行ったけれど 生演奏だとホールが小さくて 音が よく届くというか 大きく聴こえるし 生の音はやはり迫力があるので 退屈することはなかった。

印象に残ったことは 曲の中で あれ? ひょっとしてショスタコーヴィチのDSCH音階の引用 あるいは 部分的引用かな と思えるような音がちょこっと顔を出したことだ。

僕は 楽譜を読むことができないので あまり 自信はないけれど ちょっとDSCHに似た音階が出てきたように思う。

演奏に先立って ピアノの方が 鳥の鳴き声ということを話しておられたけれど 確かにクラリネットのみならず バイオリン そして たぶん チェロにも鳥の鳴き声の音階が出てきたように感じられた。

オーケストラの時は、割と楽器というか奏者を見ながら 聴いているけれど 小さいホールだと逆にほとんど目を閉じて聴いているので どの楽器がどの音を出しているのかわからないところもあったけれど。

クラリネットの音も低いところは眼を閉じていると 弦楽器と区別がつかなくなってしまうような場面もあった。

またチェロも高音域になると目を閉じて聴いているとバイオリンと区別がつかなかったり、いろいろと演奏を聴きながら、そんなことが気にかかった。

単に僕の耳が悪いだけだとは思うけれど。

また 僕の耳には 不協和音がずっと続いていくと思われるような場面もあった。

それだけ メシアンの曲を聴きなれていないということだと思う。

でも 不協和音で気持ちが悪いというのではなくて 楽器同士の音のかけあいがどことなく ちぐはぐで それでいて 一定の秩序はある という微妙な感覚は聴いていて 楽しくもあった。

この曲の終楽章 イエスの不滅性への賛歌が終わった時には やっぱりすごい曲だし すごい演奏だったなとちょっと感動してしまった。

前の方で聴いたので ちょっと音が大きすぎかも と思った場面もちょこっとあったけれど、それだけ迫力があったということで やっぱり 生演奏は違うなと思った。

しかし、大きい音よりも 小さい音を聴いているときに やはり もう少し 楽器から距離を置いて聴いた方がいいかもと思ったりした。

と 言いつつも 結局 小さいホールで聴くときは 前の方に行ってしまうことが多いけれど、、、。


演奏会が引けて 地下鉄で街の中心部まで行って ラーメンを食べて 財布をポケットに入れて でも大通りに出て もう一度 電車に乗るお金あったかな と思って財布をポケットから出すと 僕の目の前にいた数人の警察官が 僕の方を向いて 一瞬向かってくるような気配だった。

ちょっと後退して 手を真ん中で合わせるようにして身構えたので 警察官の方は僕が出したのが 財布だと気づいてくださって 事なきを得た。

見ると 沖縄の 戦争反対か 環境破壊反対か わからないけれど とにかく 沖縄関係のデモをやっていて 警察官の方が警備にあたっておられるところだった。

もう40年くらい前にレーガン大統領が来日する直前に 霞が関の公官庁の警備をしている警備隊に声をかけられたり 私服警官に職務質問された経験のある 僕だけれど 相変わらず とっさの時に 警察官に怪しまれるんだなと思った。

でも デモ隊から最も近いところで警備にあたっていた女性警官はかっこいいなと思った。

どうでもいいことだけれど。

それはともかく いちにちいちにち無事に過ごせますように。それを第一に願っていきたい。






台湾の男の子

2024年04月25日 | 日記
数日前の夜 台湾の方が経営する 中華料理というか台湾料理のお店に行った。

店内は 僕一人だった。

僕が食事を待ってじっとしていると、お店の4歳か5歳くらいの男の子が、お店の中でテーブルの上にある直径5センチくらいの円形のボタンをあちこちで押し始めた。

あちらのテーブルのボタンを押す キンコーンと音が鳴る。

こちらのテーブルのボタンを押す またキンコーンと音が鳴る。

あちこちのボタンを押して男の子は何度もキンコーンと鳴らしていた。

そうか あの ボタンは 店員さんを呼ぶときにチャイムを鳴らすボタンだとわかった。

それまで僕は「すみません 注文決まりました」という感じで店員さんを呼んでいたから、それは僕にとってちょっとした気づきだった。そうか こんなに音のいいチャイムがお店にあったのかと。

何日か前に 別の台湾料理の店で やはり幼い女の子が テーブルの中央の回転盤を回してティッシュを取って そこにティッシュがあることをそれとなく教えてくれたけれど
男の子は あちこちのテーブルのボタンを押して 元気にチャイムの存在を僕に教えてくれるなと思う。

幼くても男の子は男の子 女の子は女の子だなと思う。

幼い子に物事を それとなく教えてもらえるというのはきっといいことのような気がする。

もう閉店に近い時間だったからしれない、僕が食事を始めると 台湾料理店の経営者の家族は 僕の近くのテーブルで 談笑し始めた。

お父さんの声が大きく店に響いていた。

中国の言葉って まったく意味は分からないけれど 響きは豪快だなと思う。

お会計の時 20歳くらいの娘さんがレジに出てくれた。
さっきの幼い男の子がそのお姉さんのところに僕が食べ終わった食器の載っているトレーを早足で持ってきた。
幼い足取りなので 食器が倒れそうになる。
でも 娘さんが助太刀を出して なんとか 食器のトレーは厨房へと運ばれた。
「本当にうるさくてすみません」と娘さんは言った。娘さんのお詫びの言葉は家族の談笑のことに言及しているようだった。

「いいえ 大丈夫です」と僕は言った。
「おやすみなさい」と娘さんは言った。
「ごちそうさまでした。おやすみなさい」と僕は言った。
台湾の娘さんに声をかけてもらえるのも 気分のいいものだなと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。

京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く。(第688回)

2024年04月18日 | 音楽
4月13日 京都市交響楽団の定期演奏会を聴きに行く。

指揮はペドロ アルフテルさん。

最初にバイオリン独奏 辻彩奈さんで
プロコフィエフのバイオリン協奏曲第2番が演奏される。

第一楽章を聴いていて、バイオリンが柔らかい感じと思ったことと オーケストラと調和していると思ったことが印象に残っている。

プロコフィエフの時代になると チャイコフスキーのころとは違い バイオリン協奏曲はバイオリンとオーケストラが対峙するというよりも バイオリンがオーケストラの演奏の一部に溶け込んでいるというコンセプトになってきているのかなと思った。

第二楽章の木管を中心に奏でられる延々と続く3連符はちょっと神秘的だなと思った。

指揮者のアルフデルさんはこの曲の第三楽章はスペイン情緒が漂っていてカスタネットも使用されるという主旨のことをプレトークで語っておられたけれど なるほどスペイン風の音楽だなと思った。

そして、後でアルフデルさんのプロフィールをプログラムで見ると、スペイン、マドリード生まれとなっていた。

本当に ヨーロッパ、ロシアは陸続きでいろんな文化が行き交うなと思う。

僕はオーケストラの音楽でカスタネットが出てくる場面というとチャイコフスキー 白鳥の湖のスペインの踊りを真っ先に思い浮かべるというか、それしか思い浮かばないけれど、プロコフィエフのカスタネットも小気味よくていい感じだった。

指揮者アルフテルさんの動作を見ていて 優雅なところと快活なところのコントラストがエレガントだなと思った。

20分の休憩をはさんで次にリヒャルトシュトラウスのアルプス交響曲が演奏された。

CDはアンドレプレヴィンさん指揮のものを持っているはずだけれどもう何年も聴いてないなと思う。

交響詩と同様いろんな場面が出てくる音楽で、いろいろ変化に富んでいて楽しく聴けた。
トランペットが細く鳴ったりするとマーラーを思い浮かべたり、音楽が巨大になるところではワーグナーを思い浮かべたり、僕の連想癖をいろいろ刺激してくれる音楽だった。

この曲は、最初は人間が自然に挑むというところから始まるけれど 最後は結局自然は人間を超える存在だというところでおわるという主旨のことを指揮者のアルフテルさんがプレトークで語っておられて また それは現代の私たちがまさに直面している問題という主旨のことも語っておられたように思う。

そんなことも考えさせられる演奏になるのだろうかと思ったけれど 実際演奏が始まるとあちこちの楽器に目が行ってしまったり 曲が長いので、途中でボーっとなってしまったりで あまりそのようなことを考える余裕はなかった。

たぶん嵐の場面だと思うけれど ヒューっという感じの音が聴こえてきたので あれは何だ と思ってみると ちょっと見たところ ドラム缶の3分の2くらいの直径の円筒に布を巻き付けたような奇妙な楽器をパーカッションの方がぐるぐる回しておられた。

あれは かなり 体力を使うというかちょっとしたアスリートのトレーニング並みの負荷なのではないだろうかとそれを見ながら考えていた。

風が強くなったり弱くなったり抑揚もうまくついていたのでなおさら大変だなと思った。

当たり前の話だけれど ただ ぐるぐるまわせばいいというものではないので、、、。

楽器を作る人も あまり摩擦係数の高いものを作ってしまうと演奏家に負担をかけてしまうし でも 嵐の風の雰囲気は出さなくてはいけないし いろいろ工夫が必要かも と考えていた。

コンサートが引けて 四条まで戻ってくると 四条の地下街でヨーロッパ人と思われる外人の女の子が両親と歩きながらスキップしていた。子供がスキップをするのはあまり人種に関係ないのだろうかとそれをみながら考えていた。

河原町と烏丸の間にあるサイゼリアの前を通った時 本当にかれこれ20年くらい前にここに入ったことがあるなと思い出して入ってみた。

たまにはサイゼリアもいいもんだなと思う。

それは ともかく 一日いちにち 無事過ごせますように、それを第一に願っていきたい。