ケンのブログ

日々の雑感や日記

京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く。(第689回)

2024年05月29日 | 音楽
5月25日 京都コンサートホールに京都市交響楽団第689回定期演奏会を聴きに行く。

指揮はヤン ヴィレム デ フリーントさん
ピアノ デヤン ラツィックさんで 
ベートーヴェンピアノ協奏曲第4番が演奏された。

この曲 たぶん 中学生のころハンスシュミット イッセルシュテット指揮 ウィーンフィル バックハウス ピアノのレコードで初めて聴いて、そのレコードをかなり繰り返して聴いたから その演奏が僕の心の中ではスタンダードになっている。

ピアノはとてもうまい けれど ちょっと僕が聴いたこともないようなタイプの音がしばしば出てきた。

第一楽章のカデンツァも僕の耳にはちょっと聴いたことがないタイプの即興演奏のように聴こえる。

ピアノだけでなく オーケストラの演奏も 例えば第二楽章の冒頭など あれだけ 音を短く切って 速いテンポで奏でられるパフォーマンスに今まであまり接したことがない。

僕は ピリオド奏法という言葉の定義を知らないので あいまいな言い方になるけれど きっとピリオド奏法的な表現だったのだと思う。

なので バックハウスのレコードが心の中のスタンダートとしてある僕にとっては とてもうまいけれど ちょっと違和感を覚える という演奏になってしまった。

ちょうど このコンサートの前日に ユーチューブで バーンスタインがショスタコーヴィチの交響曲5番を演奏する動画を見てというか聴いて 現在という時の地点から見れば ちょっと古いスタイルの演奏に思えるけれど 作曲した人の思いに同調しそれを聴き手に伝えるという精神においてはバーンスタインは素晴らしいなと思った。

カールベームさんの演奏なども 最近YouTubeでよく聴いていて やはり スタイリッシュな演奏ではないかもしれないけれど 作曲者の心 そして 長年はぐくまれてきた伝統 そういうものを伝えようとする意識が強いように思う。

そういう 動画を 見た直後に この演奏会でのベートーヴェンのピアノコンチェルトに接したので 新しいスタイルを求めようとする気持ち、自分はこんな表現をしたい という気持ちがややもすれば先行しているように僕には思えた。

うまいということなら とても うまかったと思うけれど、、。

特に 僕の場合は 交響曲第5番に匹敵するような このピアノ協奏曲第4番の主題労作の繰り返しの要素を楽しみたいタイプの聴き手なのでそのように感じたのかもしれない。

僕にとってはかなり変化にとんだ音が出てきたので 「ああ また同じこと繰り返してる」と思える楽しみがやや足りなかった気がする。

でも どうでもいいことかもしれないけれど 関西に住んでいたころは 京都市交響楽団の演奏を聴いて まあ プロなら このくらいはできるだろう と思っていた。

関西を離れて いわば お上りさんとして 京都市交響楽団を聴くと いやあ うまいなあ と思ってしまう。

暮らす環境の変化が思いを変えるのだないうことも感じた。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのがシューベルトの交響曲第1番Ⅾ82


第一楽章の思いイントロからアレグロに進むさまを聴いていて ハイドンのイメージかなと思った。

ただ、第一楽章に限らず全曲を通してハイドンやモーツァルトの交響曲よりも木管がハーモニーを伴いながら朗々と歌う場面も多く やはりシューベルトだなと思った。

そして 木管が ハーモニーを伴って朗々と歌う場面の 幸福感はもうシューベルト以外の誰にも創出することができない そういう 世界だなと思った。

演奏のいたる場面で 指揮者が 楽しそうに踊っているのを見て それもまたシューベルトだなと思った。

第三楽章メヌエットのワン ツー スリーの刻みが かなり早くて鋭く 実質はメヌエットとスケルツォの中間くらいの路線をいっているんだなと思った。

プログラムの楽曲解説に記された作曲年代を見ると1813年となっている。

もうベートーヴェンが 第九以外の交響曲を書き終えた時代の作曲なので いくら古典的と言っても やはり メヌエットもスケルツォに近くなるのかなと思った。
全曲を通して僕にとってはとてもいい演奏だった。

演奏が終わって カーテンコール でも 僕は端の席やからみんなが会場を出るときに すみやかに出られるように帽子をかぶって 会場を出る準備をしていたら 突如アンコール曲が演奏された。

定期演奏会ではアンコールってそれほどあるわけではないけれど 演奏が始まって 数秒後にモーツァルト アイネクライネナハトムジークの メヌエットとわかった。

エレガント ノーブル という形容詞はこういう音楽のためにあるのかな と思えるような演奏だった。

本当によかった。

それはともかく いちにちいちにち無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。







名古屋フィル定期演奏会を聴きに行く(523回)

2024年05月19日 | 音楽
5月18日愛知芸術劇場コンサートホールに名古屋フィル定期演奏会を聴きに行く。

指揮はアンガス ウェブウスターさん

最初にJ ウィアー作曲のニュー エヴリ モーニング が演奏される。

演奏を聴きながらラヴェルのダフニスとクロエの夜明けを思い浮かべたり、先月末に名フィルのメンバーの方の演奏で聴いたメシアンの音楽は木管は鳥の鳴き声という印象だったけれど この曲は鳥の鳴き声かな それとも 朝の心象風景かな などど演奏中に考えていた。

金管の音を聴くと これはきらきらした輝きだなとか考えていた。

金管が輝きに聞こえる音楽って僕にとってはシベリウスだけれど このニュー エブリ モーニングは スコットランドで初演されたと演奏会のプログラムに書かれている。

スコットランドと シベリウスのフィンランドの共通点は緯度が高いことかなと思う。

地図で見ると スコットランドはフィンランドほど緯度が高くないけれど それでもヨーロッパの中では スカンジナビア半島をのぞけば最も緯度の高い地域になる。

何となく 緯度の低いところは灼熱の太陽 そして高緯度のところでは きらめく太陽、そんな感じなのかなと考えてみたりした。

というよりも 高緯度の場所は 光と影という印象なのかもしれない。影が多いから日が差すときらめく そんな印象なのかもと思った。

演奏が滑らかに進んでいくので 指揮者の動きを見ると 滑らかだった。

結局は指揮者の動きの通りの音が出るんだなとか 考えていた。

次に演奏されたのがヴィオラ独奏パク ハヤシ さんで
ウォルトンのヴィオラ協奏曲1961年版

演奏を聴いていて もう 僕にとって20世紀の音楽は 決して退屈なものではないのだなと感じていた。

20歳代のころまでは 何となく 20世紀の音楽って退屈 と思っていたけれど もうそういう感覚は 自分の中からだんだんなくなってきているな と思った。
若い演奏家の方も どんどん20世紀の作品の演奏なさるし そういう音楽を聴く機会が増えて慣れてきたというのもあるし やはり 時代が進んできているのだと思う。

それで ヴィオラ協奏曲がどんな演奏だったのかというと あちこちの楽器に目移りしているうちに どんな演奏なのだか 忘れてしまった。

演奏の途中で コンサートミストレスの方が かなり 意欲的に指揮者の傍らから オーケストラに向けて気を送っておられるな と思い始めた。

どこかに 視線を向けて気を送っておられるのだけれど その 視線の先がどこは 僕の席からは判別ができなかった。

でも あれこれ 目移りしているうちに 演奏が終わっていた。

20分の休憩をはさんで
ドボルザークの交響曲第7番ニ短調作品70が演奏された。

第一楽章 第二楽章を聴いていて ドボルザークの音楽は本当に 心をホッとさせてくれる何かがあるんだな としばしば感じた。

これは この曲に限らず 新世界から でも 交響曲イギリスでも 感じることなのだけれど。

こういう 戦争の時代になると こういう ほっとさせてくれる音楽が とてもいとおしいものに思えてくる。

演奏は フォルテでも音量がそれほど 大きいものではなく 先月小林研一郎さんの指揮で聴いたスメタナのわが祖国とは ある意味 対照的だったけれど 僕は 名フィルをきき始めて 案外 音量を抑え気味の時に これって 結構いいやん と思うことが多いように感じる。

第三楽章あたりから コンサートミストレスの方が さかんに オーケストラに気を送っておられるけれど あの気は あまりにも意欲的で 指揮者がオーケストラに送っている気と ちょっと方向性のずれがあるかも と思い始めた。

指揮者の方は 案外 のほほんと そして 滑らかな感じだったので、、、。

あと 指揮者が 突発的に 強い気をオーケストラに送る場面が何度かあったけれど それに オーケストラがあまり反応していないと 感じられる場面もあった。

そんな あれこれが 気になり始めてからは 演奏を聴く 集中力がちょっと落ちてしまい、聴く側の僕にとっては演奏の後半は若干不完全燃焼になってしまったようにも思う。

でも まあ いろいろと 聴いたり 見たり 楽しい演奏会だった。

演奏会が終わったのが18時くらいだったけれど まだ 外は 明るかった。

「外はまだ 明るいね」と話しながら帰途に就く人もいた。

本当にもう夏至も近いなと思う。

それはともかく 一日 いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。












居住地で怖いなと思うこと

2024年05月13日 | 日記
僕は 東海地方で生まれ育ったけれど 高校を卒業して以来 東京に6年ほど そして大阪に30年ほど暮らしてこちらに戻ってきた。

なので もともとこちらの出身と言っても やはり いまだに 東京や大阪での経験が僕の中ではスタンダードになっていてこちらに来て おやっと思うことが多い。

その おやっと思うことの中身は 今のところどちらかというと 印象の良いことよりも あまりよくないといういか 少なくとも僕にとっては好ましくないように思えることの方が多い。

僕は 男の割には電車などで足をそろえて座る癖というか習慣がある。

おかまの真似をしたくてそうしているというよりも、僕は股関節が柔らかくて かつ内転筋がかなり発達しているので 脚をだらっと開いて座るよりはある程度すぼめたほうが 背筋も伸びるしむしろ楽ということがある。

先日 両ひざがくっつく程度に足をそろえて 電車の中でうつむいて寝るというか目をつぶっていた。

脚をそろえて正面を見据えているとやはり それは男性としては ちょっと変わったポーズであることに変わりないので 向かいに座った人が妙に足の位置を気にしたりすることが多いので なんとなく申し訳なくて目を閉じることが多い。

そんな風にして 脚をそろえて目を閉じていたら ある駅で男子高校生が乗ってきて 僕のすがたを見て「きゃははは 面白いやないか」と言って僕の隣にドカッと腰を下ろした。目をつぶっているので見てないけれど たぶん 大股開きで 背中を背もたれに沈めるようなよくあるヤンキー座りをその子はしたのだと思う。

そして 僕の方に体を寄せてきて 友達に 「よし、この場面写真にとってや」と言った。

友達はたぶん写真を撮ったのだと思う。そんな気配だった。

これは いかん 相手にしたらいかん 相手にしたとたんに車内での喧嘩になってしまう。

そんなことになったら 下手したら 高校生も 僕も 手痛いダメージを食らってしまう。

今は 車内暴力などに対する警察の意識も高いから下手したら刑事責任を問われることになりかねない。

ここは がまんと思って ずっと目を閉じていた。

すると 高校生は 僕の方にもたれかかるようになってきた。

僕は 喧嘩はさけなければと思いつつも このままなめられっぱなしでは 高校生がどんどんエスカレートしてきて さらに喧嘩の可能性が高まってしまう。

少しはおどしたらなあかん と思って 脚を閉じたまま 握りこぶしを自分の太もものあいだにねじ込んで 内転筋に力を入れて 電車が揺れても 体はほどんど微動だにしないという芸をやった。

僕は そういう芸が実はちょっとだけできるのです。

その芸を始めて一二分経つと 高校生は だんだん 静かになってきた。

これは やばいと 高校生に 思ってもらえれば喧嘩の確率は下がるししめたと思った。

5分ほどたつと高校生は完全に静かになった。

電車が 目的地に近づいたころ 僕は 初めて目を開けた。

すると その高校生は 単語帳を開いて 勉強していた というか 勉強するふりをしたのだと思う。

まあ、喧嘩にならずにやれやれだった。

ただ こちらに来て ここまで程度がはなはだしくはなくても これに類することを何度か経験しているから 僕は こちらで電車に乗るときは 最後尾 つまり 車掌さんのいる車両に乗ることに決めている。

車掌さんも 僕と高校生の間の出来事は 把握しておられるような気がする。

でも 車掌さんが乗っている車両でよくあんなことできるなと思う。

というか 車掌が乗っている車両とか意識してないだけかもしれないけれど。

でも 大阪に 30年住んでいたけれど こういうたぐいのあほな目にあったことは一度もない。

たとえば 僕が大阪で使っていた私鉄の路線には 野球で甲子園出場経験のある高校もあり そんな駅から 野球部の子が乗ってくると まるで 丸太のように太い手足で 一瞬ごついなあと思うけれど そういう子たちって 一般乗客を威嚇するような態度をとることはほどんどない というか 部活で上下関係などをたたきこまれていてむしろ礼儀正しい子の方が多いくらいだ。

ほんとにヤンキーみたいな子が電車で幅を利かせているって やはり 田舎なのだろうかとおもってしまう。

大阪ではしかるべき領域でヤンキーの子が幅を利かせているのは見たことがあるけれど電車など公共の場所でそれをしているのをあまり見たことがないから、、、。

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これも大阪ではあまり経験しなかったけれど こちらで 時々経験する話。

夜 9時過ぎに 安い定食屋などに行くと 数人のグループで話をしているのだけれど 何を話しているのか全く分からないという集団が少なからずある。

それは 外国語を話しているわけでもなく 小声でひそひそ話をしているわけでもない。

声は 小さくはないけれど 発音がもごもごしていてきわめて不明瞭なので 声はそこそそ大きくても 周りの人間には何を話しているのかわからないという話し方。

いわば 故意に低い声で発音を不明瞭にして声をこもらせているという状態の話し方をしている。

それでいて 仲間内では話は通じているようなのだ。

先日中華料理店に行ったときに お店の駐車場で自動車からなかなか出てこずにいる人たちがいたので ああ あの人たちは 僕がお店に入ってから 自分たちがお店に入ってきたいんだなとなんとなくわかった。

そういうのに逆らわない方がいいと思って その車を極力見ないようにしながら 僕は中華料理屋の店内に入った。

すると案の定 その人たちは 僕が注文し終わったころに数人の集団でお店に入ってきた。

そして話を始めたのだけれど やはり ひそひそ話をしているわけではないけれど 発音が不明瞭で声がこもった独特の話法で話しているので 日本語であることには間違いないのだけれど 僕には その人たちが何を話しているのかまったくわからない。

ちょっと気味が悪いなあと思う。

その人たちには申し訳ないけれど、、、。

それで 僕が食べ終わるにつれて だんだん 声が明瞭になってくる。

僕がその人たちの方を見ないので 少なくとも 僕はその人たちに悪意を持っているわけではないというのがその人たちにはわかるのだと思う。

でも 食事が終わって 会計をする頃になって だんだん 発音が明瞭になってくるって やはり これも あまり気持ちのいいものではない。

たぶん 僕が店を出たら あの人たち お店で 大声で話しているのだろうなと思う。

もう 僕の会計が終わるころには 話し方がかなり元気になってきているから そのように想像がつく。

やはり 気持ちのいいものではないことに思える。

ネットで声をこもらせる方法 と検索してみると 舌を上あごにつけるだけで声はこもる と書いてあるサイトがある。

実際にやってみると その方法で見事に声がこもるし それは 僕が定食屋で聴いたこもった声の話し方にそっくりの声にも思えてくる。

そういう方法を身に着けている人もいるんだなと思う。

他人に 話を聞きとられないという目的のためならば ひそひそ話より はるかに効果的であることは間違いない。

ひそひそ話は 声を潜めているだけで 発音が不明瞭なわけではないので 何を話しているか意外とわかってしまう。

こもった声は 何を話しているのかわかりにくいし 声をこもらせること自体に 一種 威嚇的な効果もあるので その人たちの話に耳を傾けてはいけないという意識も働く。

大阪で あまり 遭遇しなかった 故意に声をこもらせる人に こちらでは 夜9時以降に 頻繁とまでは言えないけれど 時々 遭遇するなと思う。

大阪は夜9時だとまだ 残業をした勤め人がいっぱい街にあふれている時間なので こもった感じにはあまりならない。

そういえば 回転寿司店で 一度とった皿を戻したりする動画を撮って拡散したり カラオケボックスの中で 女性を殺害してしまったり 町長が職員に セクハラを繰り返したり そういう陰湿な事件がこの地方では立て続けに起きている。

なぜなのだろう。

やはり こちらは 自動車で行動することが多いので 自動車の中に こもるという習慣が大阪に比べると多いような気がする。

飲食店なども 大阪のような都会では 直接歩いて行って入るということが多いけれど こちらでは 多くの場合 自動車をとめて そこから店に歩いていく場合が多い。

そういうことも少なからず影響していると思う。

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逆に 僕の自動車は あと3か月で 車検の期限だけれど いまだにワイパーに車検業者のチラシははさんでない。

大阪では 車検が近づくと 割と管理の行き届いたマンションに住んでいるにもかかわらず、ワイパーに車検業者のチラシがそこそこ頻繁にはさんであった

こちらは そういうことをほとんど見かけない。

あと 飲食店で 「おまえらにとって100万は大金かもしれへんけど 俺にとって100万なんてはした金なんや。そんなもんすぐに払ったるわ」みたいなことを電話で大声で話しているおじさんに 大阪 特に 南の方では ときどき 遭遇したけれど こちらでそういう人に遭遇したことはまだない。

こういうのも地域性なのだと思う。

ただ、だれしも 昔の記憶は美化されるというか どちらかというと 陰にこもったタイプのヤンキー的な人を見ていると 大阪の 割とあけすけなヤンキーの人たちが懐かしいなと思うこともある。

人の出方を見て声をこもらせたり 明瞭にしたり ある意味 大阪よりも 怖いなと思うこともあるけれど 八王源先生に教わった 極力その人たちの方を見ないでかかわらないようにすること というのを実行して また 安全は 人事を尽くして あとは天におまかせするという気持ちをいつももっていれば怖いということはないというか そういう気持ちはかなり軽減するのだと思う。

まあ いずれにしても いちにち いちにち 安全に 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。





名古屋の街で

2024年05月07日 | 日記
名古屋のドン・キホーテの横を通った時に聞こえてきた会話。

「やっぱり 数あたることが大切やぞ。ほんで、うまくいったときのパターンを頭に叩き込んでおくんや」

たぶん客引きかナンパの指南をしているところなんだろうなと思う。

そういう世界に入ったことはないけれど うまくいくと面白いのかもしれない。

名古屋駅の近辺で聴こえてきた会話。

「そうですか 安城に行く最終電車はそんなに遅いですか。岐阜はもっと早いです。安城に負けました。くやしいなあ。安城はトヨタの勢力が及んでるんですかねえ。岐阜よりも栄えてそうです」

本当に 岐阜もまもなく県庁所在地から百貨店がなくなるし 昼間の柳ケ瀬はほとんどシャッターがおりているし。

でも 「岐阜は安城に負けました」 って田舎の会話だなあと思う。

※実際に乗り換え検索で調べてみると 名古屋から岐阜も安城も最終電車の時刻はそんなにかわらないようだけれど。あくまで道行く人の会話なので、、、。

それはともかく一日 いちにち 無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。



室内楽のコンサートに行く

2024年05月01日 | 音楽
4月28日 日曜日 名古屋のハレ ルンデに名古屋フィルのメンバーの方が演奏される室内楽のコンサートに行った。

最初、ピアノの方がメシアンの前奏曲より 鳩と 幼子イエスにそそぐまなざしより 聖母のまなざしを演奏された。

僕は、コンサートでここ10年くらいは 真っ先に拍手をするということをしたことがない。

それで 一曲目の鳩が終わった後 誰かが拍手をしたら僕もしようと思っていたのだけれど 結局誰も拍手をしなかった。

それで ピアニストは二曲目の聖母のまなざしを演奏された。

結果的に 拍手のタイミングということで言えば 鳩と 聖母のまなざしが二曲セットという形になってしまった。

メシアンの曲なので 「終わった 拍手だ」という感じの終わり方ではないのだけれど 結局
誰もが、誰かが拍手をしたら と思っているうちに結局 誰も拍手をしなかったということなのだろうか。

きっと そうだと思う。

演奏は 素晴らしいものだったから、、、。

一曲目で拍手がないときに ピアニストが立ち上がるなどして 曲が終わったことを観客に示すかなと一瞬思ったのだけれど それもなかった。

たぶん ピアニストの方の判断で 下手に拍手を促して 雰囲気が崩れるよりも そのまま メシアンの 深遠というか 混沌というか そういう雰囲気を保ったまま二曲目に進めばいいや となったような気がする。

僕の勘にすぎないけれど。

それから チェロと バイオリン それにクラリネットが加わって同じくメシアンの
「時の終わりのための四重奏曲」が演奏された。
これは コンサートのチケットを買ってから2度くらいYouTubeで聴いたのだけれど 家の小さいブルートゥースのスピーカーで聴くとちょっと退屈な曲に思えた。

コンサートで根気が続くかなと不安も少し感じながら行ったけれど 生演奏だとホールが小さくて 音が よく届くというか 大きく聴こえるし 生の音はやはり迫力があるので 退屈することはなかった。

印象に残ったことは 曲の中で あれ? ひょっとしてショスタコーヴィチのDSCH音階の引用 あるいは 部分的引用かな と思えるような音がちょこっと顔を出したことだ。

僕は 楽譜を読むことができないので あまり 自信はないけれど ちょっとDSCHに似た音階が出てきたように思う。

演奏に先立って ピアノの方が 鳥の鳴き声ということを話しておられたけれど 確かにクラリネットのみならず バイオリン そして たぶん チェロにも鳥の鳴き声の音階が出てきたように感じられた。

オーケストラの時は、割と楽器というか奏者を見ながら 聴いているけれど 小さいホールだと逆にほとんど目を閉じて聴いているので どの楽器がどの音を出しているのかわからないところもあったけれど。

クラリネットの音も低いところは眼を閉じていると 弦楽器と区別がつかなくなってしまうような場面もあった。

またチェロも高音域になると目を閉じて聴いているとバイオリンと区別がつかなかったり、いろいろと演奏を聴きながら、そんなことが気にかかった。

単に僕の耳が悪いだけだとは思うけれど。

また 僕の耳には 不協和音がずっと続いていくと思われるような場面もあった。

それだけ メシアンの曲を聴きなれていないということだと思う。

でも 不協和音で気持ちが悪いというのではなくて 楽器同士の音のかけあいがどことなく ちぐはぐで それでいて 一定の秩序はある という微妙な感覚は聴いていて 楽しくもあった。

この曲の終楽章 イエスの不滅性への賛歌が終わった時には やっぱりすごい曲だし すごい演奏だったなとちょっと感動してしまった。

前の方で聴いたので ちょっと音が大きすぎかも と思った場面もちょこっとあったけれど、それだけ迫力があったということで やっぱり 生演奏は違うなと思った。

しかし、大きい音よりも 小さい音を聴いているときに やはり もう少し 楽器から距離を置いて聴いた方がいいかもと思ったりした。

と 言いつつも 結局 小さいホールで聴くときは 前の方に行ってしまうことが多いけれど、、、。


演奏会が引けて 地下鉄で街の中心部まで行って ラーメンを食べて 財布をポケットに入れて でも大通りに出て もう一度 電車に乗るお金あったかな と思って財布をポケットから出すと 僕の目の前にいた数人の警察官が 僕の方を向いて 一瞬向かってくるような気配だった。

ちょっと後退して 手を真ん中で合わせるようにして身構えたので 警察官の方は僕が出したのが 財布だと気づいてくださって 事なきを得た。

見ると 沖縄の 戦争反対か 環境破壊反対か わからないけれど とにかく 沖縄関係のデモをやっていて 警察官の方が警備にあたっておられるところだった。

もう40年くらい前にレーガン大統領が来日する直前に 霞が関の公官庁の警備をしている警備隊に声をかけられたり 私服警官に職務質問された経験のある 僕だけれど 相変わらず とっさの時に 警察官に怪しまれるんだなと思った。

でも デモ隊から最も近いところで警備にあたっていた女性警官はかっこいいなと思った。

どうでもいいことだけれど。

それはともかく いちにちいちにち無事に過ごせますように。それを第一に願っていきたい。