ケンのブログ

日々の雑感や日記

二月二十八日

2018年02月28日 | 日記
今日で二月も終わりだなと思う。
二十八日、今年二回目のお不動さんの日。
日和にこだわる気持ちはあまりないけれど
八の日はなにかの縁日になるので日付をみると
つい意識してしまう。べつにそれで験担ぎするわけではないけれど。
松下幸之助が門真か守口が忘れたけれど
お店か工場を出すときにそちらは鬼門の方角だからやめた方がいいと
人に言われて、それをいうんだったら日本列島は東北の方に
向かって伸びているんだから日本はどこも鬼門だと言って
意に介さなかったらしい。
たしかに方角的には東北が鬼門だからいわれてみればその通りだと思う。
金光さんも大安吉日と言ってその日を建前の日に選んでも
雨が降ったらどこが大安かわからない。
人間は生まれる日も死ぬ日も自分で決められないのに
生きている間だけ日和とあれこれ言って死んでいってしまう。
それなら、なにごとも神様にお祈りして自分が決めた日を
吉日にした方がよい、ということを言っておられる。
それもいわれてみればその通りだと思う。
僕も金光さんが言われるように今日今月で
毎日お祈りをして日々新たになるように進んでいければと
ひたすら願っている。
あと三日でひな祭りということであちらこちらのお店に
ひなあられを売っていたりおはなやさんには桃のはなが
売っていたりする。
先日百貨店を歩いていたら都会の住宅事情を反映してか
5段の雛人形というのは売り場にでていなくて
お内裏さまとお雛様だけがケースにはいったものがもっぱら
展示してあった。
僕はおかげさまで田舎の育ちなので家に妹の五段の雛人形が
あったけれど、赤いもうせんがきれいで
雛人形もきれい、菱餅や牛車、そんな飾りつけも好きで
雛人形のそばで長い時間あれこれ想像しながら
ボーッとしているのが好きだった。
雛人形には子供にいろんなことを想像させてくれる
要素がいっぱいつまっていると思う。
お雛様の歌の 明かりをつけましょぼんぼりに という下りを
思い浮かべてはぼんぼりのスイッチを入れたり切ったりしていた。
同じことを繰り返し反復してしまうのは子供の頃からの癖であるようだ。
今日も引き続き暖かい日が続いている。
曇り空だけれど冷え込む気配はあまりないようだ。
天気予報をみていないので気象情報にはうといのだけれど
暖かい気団が入り込んでいるのかもしれない。
気候がよくなるのにつれて自分も少しでも力をつけられればと
願っている。本当に一日一日だなと思う。

二月二十七日

2018年02月27日 | 日記
晴れのお天気。今日も引き続き暖かいと感じる。
二月に入って今日が一番暖かいような気がする。
隣の町の市民交流センターであった歌声サロンに参加した。
サロンに参加した女性が暖かいですねと言った。
そうですね。と僕は言った。
でもまた寒くなるんでしょうね、桜が咲いてからでも
寒いことありますもんね、と女性は言った。
そうですねと僕は言った。
その通りだと思う。
ただ季節に関しては暑さ寒さも彼岸までという言葉は
一番実感に近い言葉ではないかと思う。
立春と言ってもまだ寒いし立夏と言ってもまだ暑いわけではない
立秋と言ってもまだ暑い。
暑さ寒さも彼岸までが一番実感を伴った言葉のような気がする。
歌の先生は上はホワイトに近いような薄いブラウンのセーター
下は濃いブラウンのスカート、ブラウンで濃淡をつけておられる。
ピアノの先生は下はフェルトのような生地の赤いスカート
上はグレーのセーターだった。
なんかブローチをつけておられたけれどずっとピアノの方に向かっておられたので
見えなかった。
ピアノの先生は黒い瞳というロシア民謡に日本語の歌詞をつけた
歌を歌うとき伴奏はいろいろパターンがありますけれど
どれにしましょう、とおっしゃて3パターンくらい
伴奏のさわりを弾かれた。
先生のピアノの技術だとロシア民謡をするときなどは
きっと即興に近い形で何種類か伴奏ができるのだと思う。
みんなはなにも意見は言わずに笑っていた。
ピアノの先生は3つほど提示されたパターンの中から
一番ダイナミックな伴奏をなさった。
ロシア民謡はダイナミックな伴奏をするとチャイコフスキーの
音楽のような感じになる。
伴奏につられてキャパの100パーセントに近い声で歌うと
歌の先生が
「伴奏が立派な伴奏ですものね。たまには声を出していただかないと
ストレスがたまりますよね」とおっしゃった。
ピアノの先生はみんなの方を見るたびに今日はちょっと
いつもよりとろんとした感じの目をしておられる。
後片付けの時に「先生、熱があるんですか。今日は目がちょっと
いつもと違います」と僕は言った。
「いいえ熱はありませんのでご心配なく
でもちょと顔が暑いです」とおっしゃった。
すると、そばにいた女性が
「ほんま、ちょっと目がうるうるしてる、花粉症かも」と言った。
「そうですねそうかもしれません」とピアノの先生は言った。
「ちょっと花粉症が出たかも知れません」とピアノの先生は僕にも言った。
「それはお大事に」と僕は言った。
ちなみに黒い瞳というロシア民謡に日本語の歌詞をつけた歌は
楽譜をみるとハ短調になっている。
フラット三つか僕が苦手なタイプの楽譜やなと思っていると
(僕の頭はちょっと偏りのある頭でフラットやシャープの
数が増えると急に楽譜がわからなくなる)
歌の先生が「これはいろんな楽譜をみたんですけど
どの楽譜も微妙にメロディが違うんです
民謡は口伝で広まったものが多いのでこういうことはよくあるんです。
楽譜によって調性もまちまちで。
なので歌いやすい調にして私が楽譜を書きました」とおっしゃった。
みるとコピーされた楽譜は手書きになっている。
簡単な和音もところどころついている。
他の調で書かれた楽譜をハ短調に転調して手書きで書くのって
そんなにたやすい作業ではないはずだ。
やっぱり歌声サロンの先生ってすごいんだな
そして素人が思う以上に忙しいんだなと感じる。

二月二十六日

2018年02月26日 | 日記
昨日は今年二回目の天神さんの日だった。
毎月二十五日は天神さんの日だからそれは意識していた。
昨日は隣の町の駅の南側だけで過ごしたけれど今日は天神さんのある
駅の北側へ行ったみた。すると駅から天神さんの鳥居にまっすぐに
通じる通りにフランクフルトソーセージやたこ焼きやいろいろ
売っている露店商がいっぱい出ている。
なんだろうとおもって見ると二月二十五日、二十六日は
天神祭と書いてある。そうだったのか気づかなかったなと思う。
駅から北へ道路を2、3百メートル進むと天神さんの鳥居がある
だいたいそこまでずっと露店が出ている。
歩いて鳥居のちょっと向こうまでいった。
そこからはかなり急勾配の坂道で本殿につくまで
僕の足でもだいたい十分以上歩かなければならない。
そこまで歩くのはきょうはちょっと気が進まなかったので
やめた。
そのかわり坂の登り口にお参りする場所が作ってあるので
そこにお賽銭を入れてお参りした。
普段はこの坂を上っていく人はほとんどいないけれど
きょうはそこそこ坂を上っていく人がいた。
やはり、こういう縁日をきっかけにお参りすることはいいことだと思う。
なにかのきっかけがなければなかなかお参りできない。
お祭りということでギターで細川たかしの北酒場を弾き語りしている人がいた。
この歌、北の酒場通りには、という歌い出しだけれど
そこを、北の湖は横綱だ、と歌詞を変えて歌うのが癖の人が
以前勤めていた会社にいた。
だいたい、こういう演歌系のヒット曲には替え歌があったりするものだなと思う。

自分では心を定めて毎日精進しているつもりでも
ちょっと何かを言われたり、いろんなことがきっかけで
急に迷いが出てしまうことがある。
聖書にイエスの弟子がイエスに言われて湖の上を歩いていて
風を見て急に怖くなり怖くなったとたんに体が湖の中に
沈みだしイエスに助けてもらうシーンがある。
イエスは弟子を助けて
「信仰のうすい者よ、なぜ疑ったのか」と言うけれど
信じるのが人間の性ならばまた疑うことも性なので
やむを得ないと言えばやむを得ない気がする。
そういうことまでちゃんと書いてあるから聖書は永遠の
ベストセラーであり続けるのだと思う。

般若心経に日本語に直訳すれば
無明もなければまた無明がつきることもないというくだりがある。
無明はないけれど、かつつきることがないと論理的に
つじつまのあわない話になっているのだけれど
それが真実なのだと思う。というか真実そのものが書いてある。
ちなみに無明は一番簡単な訳は迷い、ということになっている。
心を定めているつもりでもまた迷い
こんなことではいけないとまた祈り
そうして今日今月で進んでいくものだと思う。
少しづつ順番に進んでいきたいなと思う。

ここ一週間くらいショスタコーヴィチを聴く時間が増えている。
ショスタコーヴィチの音楽はなんとも言えない暗さが
漂っているところが大きな魅力のひとつだけれど
ここ2年くらいその暗さゆえにちょっとショスタコはあまり聴く気にならないな
という時期が続いた。しかし、そういう時期を脱しつつあるのかも知れないという気がする。
もちろん先のことはわからないけれど、、、。

便秘の処方箋

2018年02月25日 | 日記
二十五日という日付を見て今日は今年二回目の天神さんの日だなと思う。
特に天神さんにはお参りに行かなかったけれど。
隣の町の天神さんは日本で二番目に古い天神さんと境内の
看板に書いてあるけれどかなり長い坂を上っていかないと本殿に
つかないのでお参りにあまりいかない。ある夏その天神さんに
坂を上って汗をかいておまいりにいったら僕以外誰もおまいりにきていなくて
猫が賽銭箱と本殿のあいだの日陰で三びきくらい寝ていた。
最初猫が死んでいるのかと思って見たら、お腹が出たりひっこんだりしているので
呼吸している生きているとわかった。
僕のお参りが終わると神社の方が賽銭箱を空けに出てこられた。
神社の方に「猫がねていますね、最初死んでいるかと思いました」と僕が言うと
「これ、うちの猫ですわ、猫は涼しい場所をよく知ってますわ」とお宮の人は言っていた。
そうか、これはお宮の猫だったのかと思った。
このお宮では賽銭泥棒がお堂に火をつけてお堂が焼けてしまうという悲しい出来事が
かれこれ十年くらい前にあった。
賽銭を盗むだけならまだわかるけれどお堂に火をつけるなんて
それを知ったとき僕は絶句したしまった。一人でいたので
特に話し相手がいたわけではないのだけれど。
放火は即、人の死につながるから放火の罪は重いと大学時代に
刑法の先生に教わった。
今日、市民総合交流センターのタバコを吸うところで
タバコを深く吸い込んで最後まではききる吸いかたをしていたら
うんちがしたくなってきた。
昔からタバコをすうとうんちがしたくなるという都市伝説のようなものがある。
今日、僕はタバコの煙をはくときにはく息の圧力で
大便が腸のしたの方に押し出されるのを感じた。
たばこをすうとうんちがしたくなるというのは単なる都市伝説ではないらしい。
僕はこのようにたばこをはききる吸いかたをするようになってから
しばしばタバコ中にうんちがしたくなるのでそれ以来
うんちが出にくいときには息を思いきり吸い込んで
それからもうここが限界これ以上息をはけないというところまで
息をはくようにしている。この方法はかなり効果があり
便意がぐっともりあがってくる。
ただ息をとめてうんうんいきむだけではあまり効果がない。
息をすってはくという呼吸法は妊婦の方の出産の時の呼吸法とあい通じるものがあるかも
しれない。
妊婦の呼吸法についてはそれほど調べたわけではないけれど。
また機会があったら勉強してみたいと思う。
男がそんな勉強していたら、人から怪しまれるかもしれないけれど。
便秘に悩む人はけっこういるようで、いつか大阪北のターミナルで
100錠入りの便秘薬を5箱まとめ買いしていて女の人がいた。
なんか僕は見てはいけないものを見てしまったような気がした。
郊外の町ではなかなかそういうことはできないけれど
北のターミナルは人でごった返しているので
人混みにまぎれて便秘薬を5箱買うということもできてしまう。
僕も市販薬はのむことがあるけれど市販の便秘薬に関しては
一回飲んだらまるで健康診断でバリウムを飲んだときの下剤のような
感じだったのでなんかむりやりうんちを出している感じで
かえって不快だったのでそれいらい使っていない。

二月二十四日

2018年02月24日 | 日記
曇りのお天気。ここ数日と同様に暖かいと感じる。
本当に寒いときは気密性の高いマンションのなかでも
しんしんと冷える感じだったけれど夜も同じ暖房の温度設定にしても
以前よりこころなしか暖かく感じる2度くらい温度が上がるだけで
ずいぶん違うものだなと思う。
自宅マンションの菊の花がずいぶん咲いた。白黄色に続いて
赤も咲いた。これでチューリップの歌と同様に赤白黄色と並んだ。
見ると赤のはなと白のはなと黄色の花では別の株になっている。
ちゃんとそうなるように商品をセットしているんだなと思うと
植物を販売する業者の気遣いのしかたがよくわかる。
ただ楽しみにしていた花がひとたび咲くとあとは枯れるのを待つばかりだな
という咲いた花を惜しむ気持ちの方が勝ってくるから
やはり人間には煩悩というものがあるのだなとしみじみ思う。
菊は晩秋か冬ごろにお茶会で飾られることが多いし
M神宮の菊も見頃が紅葉の頃なのでその季節の花だと思っていた。
ところが今日ちょっとお花やさんで聞くと菊もいまや年中さくそうだ。
もともと野生の菊がそうなのか品種改良の結果そうなったのか
はたまたそのような栽培法をしているのかそこまではちょっとわからない。
おばあちゃんが菊人形を見に行くのが好きだったのだけはよく覚えているけれど
季節はいつだったのだろう。それは忘れてしまった。
隣の町へ来ると駅前の割りと繁華な場所でお坊さんが托鉢をやっていた。
衣の相撲取りで言うと下がりを下げる場所にお寺の名前が書いてあった。
お坊さんには失礼と思うけれど自分が所属するお寺から二人で来る托鉢は
サラリーマンが広告物の手配りにいったりするような感覚で
個人でやるよりはハードルが低いような気がする。
でもああいうお姿を見ていると自分も托鉢をやってみたいなと
思うことがある。衣だけ衣装やさんでつくってもらったりして。
僕は地声が低いのでバリトン歌手のような感じでお経をあげても
いいかもしれないなと思ったりする。
唱歌をバリトンで歌いながら托鉢というのはどうだろうかと
思ったりもする。京都の五条大橋とかで。
その場合警察の許可はいるのだろうか。想像の話なのに
余計なことまで考えてしまう。
でもヨーロッパにいくとカフェの店先にお盆にコインを入れて
歌を歌っている女性がいたりする。
ヨーロッパは大道芸がさかんだ。
ロンドンの地下鉄の駅構内ではカラオケでモーツァルトの
クラリネット協奏曲をやっている人がいてかなりうまかった。
それよりもなによりもモーツァルトのコンチェルトをカラオケで
という感覚に驚いてしまった。
京都もヨーロッパからの観光の方も増えたことだし
なんかやってみたいなと思ってしまうことはある。
それなりの勇気はいるだろうけれど。
まあこういうのは想像している方が楽しいのかもしれない。
時々新聞に在宅僧侶の資格の通信口座の広告が載っている。
思わずみてしまうこともあるけれどきっと実際講座をとってみると
覚えたくないことまで覚えないと資格はとれないのだと思う。
僕は昔から自分が好きでこれをやろうと思った勉強は長続きするけれど
具体的な目標のある資格などの勉強は長続きしないというかそもそも
やる気が出ない。
聖書やぶっだの言葉を始めいろいろな教典を読むときも
自分でこれは時代遅れの記述、必要ない記述
ここまでがちんこに教えを守っていたらとてもやってられない
という箇所はどんどんすっ飛ばして自分にとってありがたいところだけ読んでしまう。
こんな態度では資格はおぼつかないと思う。
好きなこともそうでないことも覚えないと資格はとれないというものだと感じる。
まあ、どうしても必要となればその気でいよいよ勉強するかもしれないけれど
おかげさまでこれまでの僕の人生、そういう必要に迫られたことがない。
これも自分の親や八王源先生、また、それにご縁の方々のおかげさまだと
しみじみと思う。
昔から僕は教典は自分にとってありがたいと思うところ以外はすっとばして
読んでしまう癖があり、またその判断だけはなぜか瞬時にできた。
なぜなのだろう。ちょっとわからない。
聖書そのものぶっだの言葉そのものを読むのは面白いと思うけれど
その解説書を面白いとかんじたことはほとんどない。
たいがいの場合、解説を読んでいるくらいなら自分で原典を読んだ方が
はるかに確実と思ってしまう。
本当に変わった癖だなと自分でも時々思うときがある。
寅さんシリーズのある映画でお盆で御前様が忙しいときに
「今日はお盆で忙しいのでお経は短めに」と御前様が言うと
「へいへい、ありがたいところだけお願いします」と寅さんのおいちゃんが
応じる場面がある。
あれを見たときはよくぞおいちゃん言ってくださいましたと僕は思った。

ここ数日、アメリカフロリダの学校での銃乱射殺人事件に関して
トランプさんから銃の所持年齢を21才以上に引き上げると共に
しかるべきトレーニングを受けた学校の先生も銃を持って生徒を
守るべきというような話が出ている。
トランプさんのこの話はトランプさんが銃規制に一定の理解を
示しているかのような文脈のなかで出ているけれど
学校の先生が銃を持って銃による犯罪を防ぐって言う考え方って
ちょっと日本人の常識では考えられないことだなと思う。
私たちはいろいろあっても安全な国にすんでいるのだなと思う。
それでも毎日、無事を願っているけれど。