5月20日 京都市交響楽団の第678回定期演奏会に行く。
指揮は井上道義さん。
最初に演奏されたのが ラヴェルの「ダフニスとクロエ」組曲第2番。
聴いていて 美しいオーケストレーションに触れ ラヴェルを形容するときによく使われる言葉 「オーケストラの魔術師」という言葉が何度も心に浮かんだ。
プログラムに「無言劇」と書いてある箇所が曲中にあって そこで フルートのとても印象深い しみじみとしたソロが出てきた。
確か ここのソロのことを 20世紀に書かれたフルートの旋律で最も美しい と言っていた人がいたなあ と思いつつ その旋律に聴き入ろうと思った。
そうしたら その時 どこからともなく かすかな いびきの音が聴こえてきた。
なので 僕の耳には フルートといびきのデュオのような感じになってしまった。
フルートの旋律に 聴き入ることは ある意味 妨げられる形になってしまったけれど コンサートに ハプニングは つきもの。 その先 どうなるものかと思って そのデュオに身を任せていた。
すると そのフルートのソロが終わって ちょっとおどけたような楽想が出てきたときに いびきがピタッと止んだ。
ハイドンのびっくり交響曲のように 突如 大きい音が出るわけでもなく ただ しみじみとした旋律から おどけたような楽想に音楽が移っただけなのにピタッといびきがやんだ。
それも すごいことだな と僕は思った。
要するに いびきをかいてしまう つまり 覚醒と睡眠の狭間にあるような状態の脳にもラヴェルの音楽は 確実に何かを伝えているということなのだと 僕は思った。
やっぱり 音楽って そして ラヴェルの音楽ってすごいな と思った。
コンサート会場で 欧米からのお客さんと思われる人もちらほら見かけたけれど 演奏中 この演奏なら 海外からのどんなお客さんに 聴いていただいても 恥ずかしくないというか 素晴らしい演奏だな と何度か思った。
プログラムに「全員の踊り」と書いてある箇所 つまり 音楽の終盤に盛り上がっていくところでは 通常CDなどでこの曲を聴くのよりも はるかに ストレートに小太鼓の音が 耳に入ってきた。
スーッと ストレートに ダイレクトに クリアに 耳に入ってくるという感じだったので ステージに目を凝らすと 小太鼓は 指揮者 井上道義さんの ほぼ真正面 つまり オーケストラ後方の センターに配置されていた。
僕も 後方のセンターに近いところにいたので 本当に ホールの中央を 音が 僕のいるところに まっすぐに 届いてくるという感じで とても印象的だった。
それを聴きながら そして ステージを見ながら そういえば ちょうど一週間前の名古屋フィル定期の クセキナス作曲 ノモスガンマの演奏でも 道義さんの正面にティンパニーが配置されていたことを思い出した。
二週連続で 違うオーケストラで 同じ指揮者の演奏を聴いて こういう 共通項を見つけられるのもまた興味深いことだなと思った。
演奏の最後の一振りで道義さんは 身体を 反時計回りに180度回転されたので 曲が終わった瞬間には もう 客席の方を向いておられた。
そういえば 一週間前の名古屋フィル定期の第一曲目 バルトークのルーマニア舞曲の時もそうだったなと思い出した。
バルトークもルーマニア舞曲だし ダフニスとクロエの最後も 「全員の踊り」つまり舞曲かと思った。
共通項を見つけ 分類 整理して 知識を得ていくというのは 僕に限らず ヒトの脳の特徴の一つだとは思うけれど あまり そういう方向ばかりに 頭を働かせるのもよくないかもしれないけれど、、、。
次に ドビュッシーの夜想曲が演奏された。
ラヴェルの直後にドビュッシーを聴くと ほぼ同時代のフランスの音楽でも ラヴェルが 明晰で絢爛な感じなのに対して ドビュッシーの響きは 少し 沈んでいて 重みがあるなと感じる。
僕は 20歳代のころに 管弦楽曲に関しては ドビュッシーよりもラヴェルをよく聴いていたせいもあると思うけれど ドビュッシーのちょっと重い感じが いまだに 苦手で コンサートから数日が経過してしまった今では 演奏のことは あまり記憶に残っていない。
もっと早くにこのブログ記事をかけばよかったのだけれど つい さぼってしまった。
この曲の演奏では 女性コーラスが オーケストラ後方の高いところに 配置されて その 声は 印象的だった。
ただ それを 聴きながら ラヴェルの「ダフニスとクロエ」も 女性コーラスを入れて演奏される場合もあるのに なぜ ダフニスとクロエに コーラスを入れずに ドビュッシーにはコーラスを入れたのか そういう 「なぜ」が生まれるところも 演出の見せどころなのかな と思った。
ラヴェルとドビュッシーというコンサート前半の二曲で ひとつの流れ という風にとらえると 二曲目のドビュッシーで コーラスを入れて 前半の最後を盛り上げる という風にとらえることができるかもしれない。
20分の休憩をはさんで 次に演奏されたのが 武満徹の「地平線のドーリア」
演奏中 木管の響きのような音が かなり 頻繁に出てきて 木管はどこにいるのだろうと探したけれど ステージには弦楽器しかいない。
どんなふうにして 木管のような音が出ているのだろうと 目を凝らしたけれど ちょっと近眼なので けっきょく わからずしまいだった。
視覚と聴覚の両方を使うと それなりに 楽しく聴けるけれど CDなどで 音だけ聴いたら 僕の場合は ちょっと退屈するかも と思った。
最後はドビュッシーの交響詩 海 が演奏された。
管楽器ももちろん美しかったけれど 弦の音が朗々となるような場面もあって そういうところで心が引き込まれた。
それを聴きながら 素晴らしいな と思う自分もいたし もっと響きが濃厚ならば、、、と思う自分もいて その思いが相半ばしていた。
演奏の後半あたりで 近眼の僕にはフルートの人が オーボエの人に話しかけているように見える場面があり、「演奏中に話をしとったらあかんがな」と思っていたら それからほどなくして フルートとオーボエの印象深いデュオが出てきたので 僕には話をしているように見えただけで 実際は 何かの合図をしておられたのだと思う。
最後の盛り上がりは 圧倒されるような感じで 目をつぶってしまった。
いい 演奏会でよかった。
蛇足だけれど、道義さんはプレトークで 「キリスト教は一神教なのでオルガンは教会の中央に置く場合が多いけれど 日本は多神教 八百万の神なので 中心をずらす。 なので 京都コンサートホールのオルガンも ちょっと中心(中央)から右にずれている」というような面白い趣旨の話をしておられた。
そういわれて コンサートホールのオルガンを見ると確かに中央より右に位置している。
京都コンサートホールには何回も通ったけれど そんなこと意識したことなかったなあと思った。
人に指摘されることで気づくことが人間 いくらでもあるものだなあと思う。
地下鉄で 四条までもどってきて 駅のエスカレーターに乗ったら 後方から 男性同士の会話が聴こえてきた。
「今の段階では 優勝した時と同じペースらしいで」と話す声が聞こえたので 阪神タイガースの話題だとすぐにわかった。
あとで落ち着いて セントラルリーグの順位をスマホでチェックしたら 阪神タイガースがセリーグの首位だった。
知らなかったなあ。中日ドラゴンズが最下位は知っていたけれど、、、。
それは ともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように。それを第一に願っていきたい。