ケンのブログ

日々の雑感や日記

京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く。(第688回)

2024年04月18日 | 音楽
4月13日 京都市交響楽団の定期演奏会を聴きに行く。

指揮はペドロ アルフテルさん。

最初にバイオリン独奏 辻彩奈さんで
プロコフィエフのバイオリン協奏曲第2番が演奏される。

第一楽章を聴いていて、バイオリンが柔らかい感じと思ったことと オーケストラと調和していると思ったことが印象に残っている。

プロコフィエフの時代になると チャイコフスキーのころとは違い バイオリン協奏曲はバイオリンとオーケストラが対峙するというよりも バイオリンがオーケストラの演奏の一部に溶け込んでいるというコンセプトになってきているのかなと思った。

第二楽章の木管を中心に奏でられる延々と続く3連符はちょっと神秘的だなと思った。

指揮者のアルフデルさんはこの曲の第三楽章はスペイン情緒が漂っていてカスタネットも使用されるという主旨のことをプレトークで語っておられたけれど なるほどスペイン風の音楽だなと思った。

そして、後でアルフデルさんのプロフィールをプログラムで見ると、スペイン、マドリード生まれとなっていた。

本当に ヨーロッパ、ロシアは陸続きでいろんな文化が行き交うなと思う。

僕はオーケストラの音楽でカスタネットが出てくる場面というとチャイコフスキー 白鳥の湖のスペインの踊りを真っ先に思い浮かべるというか、それしか思い浮かばないけれど、プロコフィエフのカスタネットも小気味よくていい感じだった。

指揮者アルフテルさんの動作を見ていて 優雅なところと快活なところのコントラストがエレガントだなと思った。

20分の休憩をはさんで次にリヒャルトシュトラウスのアルプス交響曲が演奏された。

CDはアンドレプレヴィンさん指揮のものを持っているはずだけれどもう何年も聴いてないなと思う。

交響詩と同様いろんな場面が出てくる音楽で、いろいろ変化に富んでいて楽しく聴けた。
トランペットが細く鳴ったりするとマーラーを思い浮かべたり、音楽が巨大になるところではワーグナーを思い浮かべたり、僕の連想癖をいろいろ刺激してくれる音楽だった。

この曲は、最初は人間が自然に挑むというところから始まるけれど 最後は結局自然は人間を超える存在だというところでおわるという主旨のことを指揮者のアルフテルさんがプレトークで語っておられて また それは現代の私たちがまさに直面している問題という主旨のことも語っておられたように思う。

そんなことも考えさせられる演奏になるのだろうかと思ったけれど 実際演奏が始まるとあちこちの楽器に目が行ってしまったり 曲が長いので、途中でボーっとなってしまったりで あまりそのようなことを考える余裕はなかった。

たぶん嵐の場面だと思うけれど ヒューっという感じの音が聴こえてきたので あれは何だ と思ってみると ちょっと見たところ ドラム缶の3分の2くらいの直径の円筒に布を巻き付けたような奇妙な楽器をパーカッションの方がぐるぐる回しておられた。

あれは かなり 体力を使うというかちょっとしたアスリートのトレーニング並みの負荷なのではないだろうかとそれを見ながら考えていた。

風が強くなったり弱くなったり抑揚もうまくついていたのでなおさら大変だなと思った。

当たり前の話だけれど ただ ぐるぐるまわせばいいというものではないので、、、。

楽器を作る人も あまり摩擦係数の高いものを作ってしまうと演奏家に負担をかけてしまうし でも 嵐の風の雰囲気は出さなくてはいけないし いろいろ工夫が必要かも と考えていた。

コンサートが引けて 四条まで戻ってくると 四条の地下街でヨーロッパ人と思われる外人の女の子が両親と歩きながらスキップしていた。子供がスキップをするのはあまり人種に関係ないのだろうかとそれをみながら考えていた。

河原町と烏丸の間にあるサイゼリアの前を通った時 本当にかれこれ20年くらい前にここに入ったことがあるなと思い出して入ってみた。

たまにはサイゼリアもいいもんだなと思う。

それは ともかく 一日いちにち 無事過ごせますように、それを第一に願っていきたい。











中華料理屋の女の子

2024年04月07日 | 日記
最近 台湾の人がやっておられるような中華料理店に行くことが多くなった。

名古屋や岐阜は そういう店が多いような気がする。

僕がよく行く店は 丸テーブルが置いてあって その丸テーブルの中央は回転式の円卓になっていて そこには 胡椒 ラー油 餃子のたれ お酢 などがおいてある。

ある時 僕が 店に入ったら その時、そこはすいていて 丸テーブルには僕 一人しかいなかった。

ここの中華料理屋は カウンター席がないので 一人の客は 円卓に案内されることが多い。

僕は 円卓で一人 料理が出来上がるのを待っていた。

すると そこの料理屋の 4歳くらいの女の子が 僕がいる 円卓のところにやってきて 円卓中央の回転テーブルを回して ティッシュペーパーを取って それから 厨房の隅っこにその子は行って そこで しゃがんで 絵本を読んでいた。

本当に おもむろに 僕がいるテーブルにやってきて 回転テーブルからティッシュをとる様は そこに ティッシュがあるよ と僕に教えているかのような感じだった。

僕は それまで 調味料がその回転テーブルに置いてあることは知っていたけれど ティッシュがおいてあることには気づいていなかった。

それで 料理で口に油がついたりすると いつも自分のハンカチや 料理屋から出されたおしぼりでそれをぬぐっていた。

それを見かねた 女の子が その回転テーブルにはティッシュもあることを無言の行動で教えてくれたような気がする。

女の子の動作か おもむろだったのできっとそうだと思った。

子供って面白いなと思う。




京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く。(第687回)

2024年03月22日 | 日記
3月16日は京都市交響楽団第687回定期演奏会を聴きに行った。

指揮は広上淳一さん ピアノはジャン エフラム バヴゼさん。

最初に演奏されたのはピアノ バヴゼさんで
バルトークのピアノ協奏曲第2番


演奏が始まってしばらくは ボーっとしていたけれど ある程度、時間がたってくると、これって おしゃれで かなり華やいで ブライトな世界と思い始めた。

バルトークは暗いイメージが僕にはあるけど、この演奏はおしゃれで ブライトだなと思った。

それで、たまたま この演奏会の数日前にネットで目にした バルトークの若き日の写真はとてもシュッとした男前であることを思い出した。

芸術家に限らず、死後も名前が残るような人は、晩年の写真が主に人の目に触れることになるけれど若いころのシュッとした顔にも注目すべきだと思う。

どんな人でも 若いときのベースがそのまま根底に残るということがあるから。

オーケストラの方をずっと見ていて二楽章になってふと ピアノのバヴゼさんに目をやると ピアノを弾くためという観点で考えると ちょっと不自然というか 無駄な動きをバヴゼさんがしていることに気付き始めた。

この動きはなんだ と思ってしばらく見ていると 「ああ あの動きはオーケストラにキューを出したり 気を送ったりしているんだ」ということがわかった。

特に二楽章から三楽章にいたる場面では もう二楽章の最後でピアニストがオーケストラの方に顔を向けて 「この状態をキープして三楽章よろしくたのみます」という感じでおがみたおしているような気がしてちょっとユーモラスでもあった。

きっと、ピアニストがキューを出したり 気を送ったりしてもいいという合意というか暗黙の合意がバヴゼさんと広上さんの間に出来ていたのだと思う。

でも、ピアニストがたとえキューや気を送ったとしてもそれに対応できるだけの余裕というか度量が広上さんにもあったということなのだと思う。

もちろんピアニストは特に指揮のような動作をしなくてもそこで演奏しているだけで大きな気をオーケストラに送っているわけだけれど、このピアニストの場合は 素人目というか 僕の目にもそれとわかる動作だったということだ。

でも 見ていて けっこう楽しかった。

ピアノを弾いてて指揮も自分がちょっと表に出たいというときは ちゃっかり表に出ちゃうというのはフランスというかラテン的な考え方なのかなと思った。

第二楽章は 途中から 結構 速いスケールをピアノが弾いていくことになる。

音楽が速くなっても 中庸のテンションを保ちながら弾いておられるように僕には思えてそれもまたすごいことだなと感じた。

たぶん 第二楽章の表記が演奏会のプログラムによると アダージョとなっているので だとえ途中で音が速くなっても アダージョのベースを崩してはいけないという意識も働いているのかもしれない。

そういう なんというか 根本の型を崩さずに 自由にふるまえるというのがすごいことのように僕には思えた。

さすがに 三楽章になって 音楽がもっと激しくなると 中庸のテンションではなくなったけれど、、、。

アンコールにドビュッシーが演奏された。
聴いたことある曲だけれど タイトルまでは知らないという曲。
ちょっと勢い余った感じの演奏に僕には思えた。

けれど アンコールだし コンチェルトをやったあとだし。

最初から ドビュッシーを演奏する という意識で演奏されたら きっとまた違った感じになるのだろうと思った。

演奏が終わった後 ピアノの後ろでアンコールを床に腰を下ろして聴いておられた広上さんの方にバヴゼさんは歩み寄られた。

その時になって 広上さんが後ろで聴いておられることに僕は初めて気づいた。

そして バヴゼさんと広上さんのカーテンコールは 二人の体格の違いを存分に生かしたパントマイムの要素も多分に含まれていてみていて楽しかった。

20分の休憩をはさんで次に
ラフマニノフの交響曲第3番作品44が演奏された。

いい曲なのだけれど 僕の理解がまだまだ足りないせいか いまひとつ交響曲としての統合性に欠けるような気がして どこか映画音楽のようだなという印象がぬぐいされなかった。

でも ときおり 木管や チェロなど主に低い音を受け持つ弦から ふっと気持ちが和らぐような旋律が出てくるのに気づいて そういうところはやはりラフマニノフだなと思った。

最後に毎年3月の定期恒例の今年で引退なさるプレーヤーの紹介がなされて、毎年のことだけれど、ちょっとうるうるっとなってしまった。

帰りは京都植物園の門からちょっと中をのぞいて それから地下鉄の駅に向かった。

駅にいく道々 夫婦でコンサートの印象を語る声が聞こえてくる。

ある おじさんが 奥さんと思しき人に「やっぱラフマニノフは辛気臭くないからええなあ」と語る声がたまたま僕の耳に入ってしまった。

確かにメロディは美しいし バーッと盛り上がるところもあるし 癒しの要素もあるし 辛気臭くない なるほど と思った。

でも それよりも なによりも 辛気臭くない という いわば関西独特の表現がコンサートの帰りに人の口をついて出てくるというのが 京都のコンサートだなと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。









ファゴットのリサイタルを聴きに行く

2024年03月15日 | 音楽
3月9日 京都の呉竹文化センターに京響のファゴット、村中宏さんを中心としたリサイタルを聴きに行く。

最初に演奏されたのがファゴット村中さんピアノ矢野百華さんで
ドボルザークの「わが母の教えたまいし歌」
ちょっと前に京響でドボルザークの新世界からを聴いた時もそうだったけれど、彼の旋律はなぜか涙を誘うなと思う。

次にやはりファゴット村中さんピアノ矢野さんで
モーツァルトのファゴット協奏曲K.191が演奏された。
知り合いでアマオケでプレイしている方がモーツァルトは長調でも影が差す と言っていた。

本当にそうだなと思ったし そう思えるような演奏だった

あとケッヘル番号がまだ100番台のころのモーツァルトはバロック音楽と古典音楽の狭間のような音楽に感じられる部分があるなと思った。

次にピアノ ファゴットに加えてフルート中川佳子さんが入られて
バッハのフルートソナタBWV1035よりアダージョ マ ノン トロッポ とアレグロが演奏された。けれど 中川さんが京響の時とは雰囲気の全然違うドレスを着て入ってらして僕が緊張してしまったせいかどんな演奏だったか忘れてしまった。

どんなドレスだったかも忘れてしまったというか 緊張して目に入らなかった。

ただ、演奏に先立つトークで中川さんがヨハン セバスチャン バッハのことを「お父さんバッハ」と呼んでおられて そんな呼び方、初めて聞いたと思ったことは不思議に覚えている。

村中さんもなんとなく中川さんには気を使っておられる感じだったとか、そんな 余計なことだけ覚えているということは要するに僕が演奏に集中して聴けてなかったということだと思う。

次にファゴットとフルートでエイトル ヴィラ ロポスの
ブラジル風バッハ第六番が演奏された。
1938年第二次世界大戦に向かっている時代の作品。

聴いていてショスタコーヴィチを思い浮かべるような不安な要素が漂っている部分があるなと思った。

あと、これは特定の曲を聴いてというよりもリサイタル全体を通しての印象なのだけれど、
ファゴットの低音はチェロの低音に似ている、特に バッハの無伴奏チェロソナタで 例えばフルニエさんの演奏のように 低音をぐっと踏み込んで出すタイプの演奏における低音によく似ているなと思った。

次にファゴットのソロでモーリスアラール編 パガニーニの主題による変奏曲が演奏された。

これは凄い演奏だった。ファゴットのソロだけでここまでできるのかと思った。

次にまたピアノ ファゴット フルートのソロでチックコリア フルートとファゴットとピアノのためのトリオが演奏された。

途中で聴いたこともないような種類の音が聴こえてきたので目を開けたらピアノの矢野さんがグランドピアノのグランドの部分に手を突っ込んでピアノの弦を直接はじいておられたので驚いた。

ただ これは パガニーニを聴いた後だったので ジャズということもあり ちょっとリラックスして聴けたなと思う。

アンコールで
能登半島の舟こぎうたという感じで中川さんが紹介しておられた曲が演奏された。
演奏を聴いていて ラヴェルの ダフニスとクロエ 第一組曲の冒頭付近でフルートで最初に出てくるテーマ(ニンフたちのテーマ)を心に思い浮かべる場面が何度かあった。

家に帰ってきてからニンフを調べてみると それは水の妖精というようなことが書いてあったから舟漕ぎ歌のなかでニンフの主題を思い浮かべるのはあながち間違った感覚ではないかもと思った。

もちろん 音楽をきく感覚に 正しい 間違いはないとは思うけれど、、、。

村中さんがアンコール曲の作曲者の名まえを読み間違えて中川さんからするどく突っ込まれたことも印象的だった。

そして最後にグノーのアベマリアが演奏された。

ほとんど伴奏でバッハ平均律ピアノ曲集のプレリュードを奏でるピアノの音だけに集中してしまった。

やはりバッハはいいなと思った。グノーのアベマリアだけれど、、、。

四条の駅まで戻ってきて 四条駅で京都産業大学の看板が目についてしまった。

3月のお彼岸過ぎにはもうオープンキャンパスがある。

本当に 早くから動かないと学生が獲得できない時代になっているんだなと思う。

看板に描かれていた京産のキャンパスに立つ3人の女の子の後ろ姿はかわいかったけれど。

京産の出身のある子が、「勉強は嫌いやったけど 学校は好きやった」と言っていたことをふと思い出した。

まあ それもよくある話かなと思って。

逆に 勉強はよくできたけれど 学校は嫌いやったという人もいたりして 本当に世の中いろいろだなと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事にすごせますように それを第一に願っていきたい。


甘い誘惑

2024年03月12日 | 日記
名古屋駅構内のコンビニでチロルチョコを買った。

店員の女性が「これだけで足りますか」と言った。

「はい」と僕は言った。

たりるかどうかわからないけれど、チョコレートは一度にたくさん買うと買っただけ食べてしまいがちなのでチロルチョコにすることが多いのも事実。

チロルだと一個ずつばら売りだから。

でも、その時の女性の「これだけで足りますか」という言葉の抑揚は
こんな甘い誘惑に一個だけで耐えられますかというような含みがあるように僕には思えた。

男性と 女性では ホルモンなどいろいろ身体の仕組みが違うけれど 甘いものへの希求性というのも男と女ではやはりかなり違うのだろうなと思った場面だった。

本当に見ず知らずのあいだがらだけれど 思わず「足りますか」と言ってしまったという感じだったから。

それはともかく いちにち いちにち無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。