京都コンサートホールに京都市交響楽版第651回定期演奏会を聴きに行った。
指揮大友直人さん ピアノ清水和音さんで最初に演奏されたのは
グリーグのピアノ協奏曲イ短調 作品16
第一楽章の冒頭でピアノの音がなりだした時、グリーグの曲なのに、なぜかベートーベンのピアノソナタ第8番「悲愴」を思わせるような、独特の重厚感があると感じた。
グリーグのピアノコンチェルトって聴くたびに、ちょっとムード音楽のようだなと思うことが今まで多かった。
しかし、今日は違った。
清水和音さんの熱くて広い思いが伝わってくるような感じで、グリーグのコンチェルトってこんなに美しいのかと思った。
ゆったりしたテンポの重厚感のある演奏と感じたけれど、細やかなところは本当に細やかで、演奏の途中で涙が出そうになる場面が何回かあった。
僕はコンチェルトを聴くときに、指揮者に照準を合わせて聴いたらいいのか、ソリストに照準をあわせて聴いたらいいのか、わからなくなることがしばしばあるけれど、もう清水和音さんのピアノでオーケストラも含めた演奏の全体の雰囲気が決まっているというように僕には思えた。
20分の休憩を挟んで次に演奏されたのは
エルガーの交響曲第二番変ホ長調 作品63
第一楽章の冒頭、大友さんの指揮の手が動き始め音がなり始めた時、なんか、指揮の手が発する気というものがオーケストラにダイレクトに伝わっていないという感じのなんとも言い難いもどかしさを感じた。
多分、演奏者としての大友さんと聴き手の僕の相性の問題だと思うのだけれど、大友さんの演奏を聴く時、僕はこの手のもどかしさをしばしば感じてしまう。
演奏が、サーッとどうもダイレクトな掴みどころのないまま流れていくような感じで、なぜ大友さんの演奏を聴く時、しばしばそう思ってしまうのか不思議だなと感じる。
エルガーの交響曲第二番を僕が初めて聴くというせいもあるのだろうと思う。
第三楽章で、木管が演奏を引っ張っているように僕には思える箇所があって、そこはかなりぐっと気持ち的に踏み込んで聴くことができた。
第三楽章か第四楽章か忘れてしまったけれど、リヒャルト・シュトラウスに響きが似ているなと思う箇所が何箇所かあった。
演奏には関係ないことかもしれないし、人の身体感覚というのは他人には絶対にわからないものなので、これを書くのは失礼なことかもしれないけれど、演奏の途中で、コンサートマスターの方がとても大股開きで演奏しておられるのが急に気になり始めた。
長年プロとして演奏してこられた身体感覚のなかでそうしておられると思う。
しかし、弦は女性奏者が多いので男性の奏者があまりにも大股開きで弾いていると、見栄えがよくないし、偉そばった印象を与えてしまうと感じた。
生演奏には視覚的な要素もあるのでそこはちょっと気になってしまった。
第四楽章の終わりは、大友さんが注意深い集中力を持って音を徐々に小さくして終わるという、終わり方で、かなりそこは印象的だった。
最後の音が鳴り終わる前に拍手が起きるといういわゆるフライイングの拍手ではなかったけれど、また消え入る音の気が残っているうちにパラパラっと拍手が出始めて、ちょっと微妙だなと思ったけれど、そういう聴衆と演奏者の掛け合いもコンサートの醍醐味に一つだなと思った。
こういうコロナの中で、客席はソーシャルディスタンスを守って、座席が指定されたけれど、オーケストラはもうフルサイズになっていた。
京都市交響楽団の響きはとても充実したものであったと僕は思う。
本当にこういう時期にコンサートを開いてくださったことに感謝したいと思う。