ケンのブログ

日々の雑感や日記

京都市交響楽団第651回定期演奏会

2020年11月29日 | 音楽
京都コンサートホールに京都市交響楽版第651回定期演奏会を聴きに行った。

指揮大友直人さん ピアノ清水和音さんで最初に演奏されたのは
グリーグのピアノ協奏曲イ短調 作品16

第一楽章の冒頭でピアノの音がなりだした時、グリーグの曲なのに、なぜかベートーベンのピアノソナタ第8番「悲愴」を思わせるような、独特の重厚感があると感じた。

グリーグのピアノコンチェルトって聴くたびに、ちょっとムード音楽のようだなと思うことが今まで多かった。

しかし、今日は違った。

清水和音さんの熱くて広い思いが伝わってくるような感じで、グリーグのコンチェルトってこんなに美しいのかと思った。

ゆったりしたテンポの重厚感のある演奏と感じたけれど、細やかなところは本当に細やかで、演奏の途中で涙が出そうになる場面が何回かあった。

僕はコンチェルトを聴くときに、指揮者に照準を合わせて聴いたらいいのか、ソリストに照準をあわせて聴いたらいいのか、わからなくなることがしばしばあるけれど、もう清水和音さんのピアノでオーケストラも含めた演奏の全体の雰囲気が決まっているというように僕には思えた。

20分の休憩を挟んで次に演奏されたのは
エルガーの交響曲第二番変ホ長調 作品63

第一楽章の冒頭、大友さんの指揮の手が動き始め音がなり始めた時、なんか、指揮の手が発する気というものがオーケストラにダイレクトに伝わっていないという感じのなんとも言い難いもどかしさを感じた。

多分、演奏者としての大友さんと聴き手の僕の相性の問題だと思うのだけれど、大友さんの演奏を聴く時、僕はこの手のもどかしさをしばしば感じてしまう。

演奏が、サーッとどうもダイレクトな掴みどころのないまま流れていくような感じで、なぜ大友さんの演奏を聴く時、しばしばそう思ってしまうのか不思議だなと感じる。

エルガーの交響曲第二番を僕が初めて聴くというせいもあるのだろうと思う。

第三楽章で、木管が演奏を引っ張っているように僕には思える箇所があって、そこはかなりぐっと気持ち的に踏み込んで聴くことができた。

第三楽章か第四楽章か忘れてしまったけれど、リヒャルト・シュトラウスに響きが似ているなと思う箇所が何箇所かあった。

演奏には関係ないことかもしれないし、人の身体感覚というのは他人には絶対にわからないものなので、これを書くのは失礼なことかもしれないけれど、演奏の途中で、コンサートマスターの方がとても大股開きで演奏しておられるのが急に気になり始めた。

長年プロとして演奏してこられた身体感覚のなかでそうしておられると思う。

しかし、弦は女性奏者が多いので男性の奏者があまりにも大股開きで弾いていると、見栄えがよくないし、偉そばった印象を与えてしまうと感じた。

生演奏には視覚的な要素もあるのでそこはちょっと気になってしまった。

第四楽章の終わりは、大友さんが注意深い集中力を持って音を徐々に小さくして終わるという、終わり方で、かなりそこは印象的だった。

最後の音が鳴り終わる前に拍手が起きるといういわゆるフライイングの拍手ではなかったけれど、また消え入る音の気が残っているうちにパラパラっと拍手が出始めて、ちょっと微妙だなと思ったけれど、そういう聴衆と演奏者の掛け合いもコンサートの醍醐味に一つだなと思った。

こういうコロナの中で、客席はソーシャルディスタンスを守って、座席が指定されたけれど、オーケストラはもうフルサイズになっていた。

京都市交響楽団の響きはとても充実したものであったと僕は思う。

本当にこういう時期にコンサートを開いてくださったことに感謝したいと思う。


相手に何を言われるのかばかりを想像してしまう

2020年11月28日 | 日記
僕が読んでいる全国紙の編集手帳に夏目漱石の「三四郎」の次の箇所が引用してある。

「用談があって人と会見の約束などする時には、先方がどう出るだろうということばかり想像する。自分が、こんな顔をして、こんなことを言ってやろうとは決して考えない」

これは小説「三四郎」の主人公、三四郎の心の中を表現した箇所である。

新聞の編集手帳は、今の政府はコロナに際してなかなか記者会見を開いて自分から情報発信をするという態度にかけるのではないかという主旨のことを指摘したくてこの箇所を引用している。

まあ。それはそれとして、三四郎が人と会うときに自分が何を言おうかということではなく、相手が自分に何を言ってくるだろうかとそればかり想像してしまう。という気持ち。

それは、今の世の中で多くの人が感じている気持ちを、夏目漱石が三四郎という小説の中で代弁してくれているのだと思う。

まあ、そういう小説だから書かれてから100年以上経った今でも売れ続けているのだと思う。

時代を超えた普遍性のないものの多くは時代の流れの中で消えてしまう。

また、「三四郎」のこの引用箇所を読んで僕は、作家、よしもとばななさんのお父さん、つまり吉本隆明さんのことを思い出した。

吉本隆明さんは「ひきこもれ」という書物の中で次のような指摘をしておられる。

「夏目漱石は、社交べたなひとにとっての異性や恋愛の問題にこだわりを持ち続けた人です。生涯この問題に引っかかっていると言ってもいいほどです」と。

まあ、それはそうだと思う。自分が何を言うかよりも、相手が何を言ってくるかばかりを想像してしまう人は社交べたである可能性が極めて高いから。

そして、これはもちろん僕の主観も入っているのだけれど、吉本隆明さんは社交べた、あるいは引きこもりの人が恋愛で不利になるのではないかという問題に関して書物の中で次のように結論づけておられる。

「恋愛というのは、お互いがある距離内に入らないと成立しないものです。そして、何かの拍子でその距離に入ってしまえば、遠くから見ていた時とは別のものが見えてくる。そうすると社交的であろうと、引きこもりであろうと、美人であろうと不美人であろうと、そんなことは意味をなさなくなります。

世間的な価値判断は関係なくなって、自分にとって好ましいかどうかという問題だけになる。 中略 だから、ちやほやされたいとか、いつもたくさんの異性にかこまれていたいとか、そういうことは引きこもりの人は難しいかもしれませんが、本質的な恋愛においては何の問題もない。保証してもいいくらいです」と。

本質的な恋愛において引きこもりというのは何の問題もない。

という吉本隆明さんの指摘を本で読んだ時、なるほどそのとおりだと思ったし、なんか救われる思いだった。

僕も決して、多くの人に気軽に話しかけることができるというタイプではないから、、、。

そして、吉本隆明さんがおっしゃっていることをもっと拡大して考えると、男同士、女同士の友情についてもそれは言えると思う。

大勢の友達に囲まれているということと、本当に信頼できる友達がいるということはまた別の問題であると僕は思う。

夏目漱石の「三四郎」から始まった、自分が何を言うかよりも、人から何を言われるかばかりを考えてしまう。ひいてはひきこもりという問題は、特にSNSなどが発達した今の社会では漱石の当時よりも多くの人が抱えている問題であるように僕には思える。

SNSなどで情報を、盛って、盛って、発信する人がいる一方で、そういうのを見て、羨ましく思ってしまったり、自分は何も言えなくなってしまったり、自信を失ってしまったりする人も多いわけで、、、。

若いミュージシャンのデモンストレーションの映像を見ていたら

「このことに関しては、自信を持って言えるかなって思ったりするんです」という感じの自信を持っている割にはなんとも言葉をぼかした発言になってしまっていた。

もう、ミュージシャンがデモンストレーションでこういう表現をしてしまうのも下手に大きく出ると、ネットなどで何を言われるかわからないという潜在意識がきっと関係していると感じた。

僕自身も、ブログを書くときにずいぶん言葉を濁すことも多いし、、、。

ところで、スーパーマーケットに行くと、必ず「カードはお持ちですか」と聞かれる。

それも、僕がお金の計算を間違えてないだろうかと神経をとがらせた瞬間を見計らったようなタイミングで「カードはお持ちですか」と聞かれるので、ついイラッとして「持ってません」と不機嫌そうに大きな声で答えることが多くなってしまった。

そうするともうカードって聞かれることが、ちょっと苦痛になってくる。

今はレジ袋が有料になって、レジ袋はお持ちですか、カードはお持ちですかと2つを聞かれるのでよりしんどい。

そこへもってきてコロナでレジはビニールのシートで覆われ、店員の方はマスクで顔を覆い、こちらもマスクをしているので、お互いに言葉が聞き取りにくいときている。

もう、カード?、レジ袋?って言われるのをを待っているよりも、僕の場合は「こんにちは、レジ袋とカードなしでお願いします」という具合に最初に自分から踏み込んで言ってしまったほうが気が楽だと思うようになった。

本当に複雑な世の中になったものだなと思う。

なんとか人間らしくやっていければ、と願っている。



良い習慣 くせを身につけたいな

2020年11月27日 | 日記
大阪で最もディープな地域の一つにあるカラオケの喫茶でかれこれ一ヶ月くらい前に水原弘の「君こそわが命」という歌を僕は歌った。

僕が歌い終わって自分のシートに着席した瞬間に、傍らのシートに座っていた、元プロ野球の城島選手のような顔つきのおじさんが
「熱唱やなあ。あんた、水原弘よりええ声してるわ」と言った。

僕はその言葉を聞いて気風のいいおじさんだなと思った。

熱唱やなあ。と言って、歌に心を込めたことも褒めてくれているし、声の質も褒めてくれている。

声の質というまあ言えば生まれ持ったものと、心を込めるという努力の部分の両方を飾らない言葉で褒めてくださるので、とても嬉しい。

しかも、歌い終わって着席した瞬間に言ってくださるので、ああ、これは、とっさに言ってくださったので本当に僕の声がよくて気持ちがこもっていると思ってくださったんだなあと思い、それも、また嬉しい。

そのおじさんが、先日また、そのカラオケ喫茶にやってきた。

ママが「マイクにこのカバーしてよ」とそのおじさんの歌の順番が回ってきたときに言った。

今はコロナなのでマイクにカバーをして歌わなければならない。

そのマイクのカバーにはミッフィー(うさこちゃん)のプリントがほどこされていた。

そのカバーを見た瞬間に、そのおじさんは「うわ、これは、また、えらいかわいいカバーですやん」と言った。

それを言われたらミッフィーのカバーを用意したママはきっと嬉しいと思う。

もう、この、おじさんのような人って、きっと、とっさに人を褒めるのがくせになってしまっているんだなと思う。

どうせ、くせを身につけるのなら、こういういいくせを身につけたいものだなと思う。

ママからミッフィーのカバーを渡されたおじさんは、菅原洋一の「忘れな草をあなたに」をソフトな声で歌っておられたので、野球選手のようないかつい風貌でも心はやさしいのだろうと思う。

しばらくするとお店に、あらかじめ酔っ払ったお客さんが入ってきた。

酒癖の悪い人のようで、あたりかまわず、人のことをいじったり、からんだりする人だった。

その城島選手のような風貌のおじさんは、5分くらい、その酔っぱらいに口先をうまくあわせていたけれど、タイミングを見はからって、さっさと勘定をすませて店を黙って出ていってしまった。

そういうところもスマートだなと思う。

試行錯誤のとき

2020年11月25日 | 日記
僕はコロナで季節感が希薄になっているけれど、気づくと桜の葉ももう紅葉という段階を超えて散ってしまっている。

僕が利用している私鉄の駅にかえでの紅葉だよりのポスターが貼ってある。そこに私鉄沿線の16箇所のかえでの紅葉の名所が案内してある。そのポスターを見ると16箇所のうち半数以上にもう見頃すぎのワッペンが貼ってある。

今年は近場のかえでの紅葉も見に行かなかったのでそういうポスターを見てもう紅葉の見頃も終わったのかと改めて感じている。

街はいよいよイルミネーションなどクリスマスムードになってきた。

コロナの感染がまた拡大してきて大阪では飲食店に営業時間の短縮などを要請する流れになっている。

本当に先行きの見えないことだなと思う。

僕が利用している私鉄はこの寒いのに窓をあけて走っているけれど2,3日前から、日が暮れると車掌さんが窓の開け幅を狭くしたり、窓を開けていることに関する理解を乗客に求める車内アナウンスが入るようになった。

きっと、いくらコロナでも車内が寒すぎるという苦情がかなり行っているのだと思う。

本当にこのコロナということに関してはみんなが試行錯誤なんだなと思う。

昨日も、結婚をして皇籍を離れた女性が特別職の公務員として皇室関係の公務を行うという主旨の新聞記事を読み、もう皇室もやがてはなくなってしまうのではないだろうかというなんとも言えない不安が心をよぎった。

僕はできれば皇室は続いてほしいなと思っているのだけれど。

本当に、こんなご時世だけれど、毎日無事にすごせますようにとそれを一番願っている。




皇女 特別職の公務員

2020年11月25日 | 日記
今日の新聞に、皇族の女性は結婚後に特別職の公務員となり、皇室活動を継続してもらう制度を創設することを政府が検討していると書いてある。

このような案が出てきた理由として新聞は
皇族の減少により、残った皇族の方の公務の負担が非常に大きいものになるので、結婚した元皇族の女性に特別職の公務員としてこれを遂行していただく。

この案だと、女性宮家ができることによって女系天皇が生まれる可用性が生じることに対する保守系議員などの反対をかわすことができる。

なぜなら皇位継承の問題と、公務遂行の問題をこの案だと切りななして考えることができるから。

なのでこの案は皇位継承の男系を重視する保守派も受け入れやすいものである。

とまあおよそ上記のようなことが新聞に書いてある。

本当に皇族が男系であることの意味って何なのだろう。僕にはよくわからない。

男系というのが世界に類のない日本の伝統だから守らなければならないと言うことなのだろうか。

もしそうだとすれば、僕にとってはなんだか意味がわかるようなわからないような、どちらかと言えばナンセンスのようにも思えるのだけれど。

遺伝の専門家に聞いたら答えがでるのだろうか。

もしそういう答えがあったとしてもそういうことを語るのはあるいはタブーなのだろうか。

本当にわかりにくい問題だと思う。

天皇の地位が憲法に書いてあるように国民の総意によるものであるとすれば、保守系議員の反対などを気にするよりも広く国民の世論がどうなのかということを考えたほうがいいように僕には思える。

ある内親王殿下が婚約されたとき、その婚約者はなんだか僕にはちょっとチャラい方のように見えた。

その婚約会見を見ていると、心がこもっていなくて、予め暗記したことを、無機的に話しているように見えた。

そして、内親王殿下の婚約者よりも内親王殿下が話しておられる時間が圧倒的に長いように見えた。

まるで、「こういう場面は私にまかせといてよ、それで、この場を切り抜けられれば大丈夫だから」、と内親王殿下と婚約者の間に内密の打ち合わせがあったかのように。

そして、それは皇族の方の会見の伝統にそぐわないものであるように僕には思えた。

男系という遺伝上の伝統が保たれても、公務ということに対する心のありかたも含めた伝統ということが維持されなければ伝統の意味がないように僕には思える。

そして、心をないがしろにした伝統というものは多くの場合すたれてしまうのではないだろうか。

僕にはそのように思える。

特別職の公務員って国会議員も特別職の公務員であるはずだ。

国会議員と同じ、特別職の公務員という身分に属する皇女が、あの会見のときのように心もこめずに形だけの公務を行うかと思うと僕はちょっとぞっとするというような気持ちにもなる。

そういうことにはならないように祈りたい。

女性も宮家にとどまるということにして、子供の頃から宮家とは何かということをしつける教育をする、というふうにした方が僕には良いように思えるのだけれど。

氏よりは育ち、ということもよく言われることで、男系とかそういう遺伝の問題よりも大切なことに僕には思える。