ケンのブログ

日々の雑感や日記

コロナの感覚

2020年06月29日 | 日記
歯医者さんから定期検診案内の葉書が来たのでさっそく予約を入れて行った。

治療室に入って
「やはり、マスクはつけたままにしといたほうがいいですかね」と僕。

その瞬間、マスクをつけたままでは歯の治療はできないと気づき
「あ、マスクつけてたらできないか。もう感覚が狂ってますわ」と僕は言った。

先生はあきれたような顔で
「本当に今は痛くなった患者さんしか来ないんですよ。こちらも感覚が狂います」とおっしゃった。

本当にコロナでいつもと違う感覚になっているのは日本中全員なのかもしれない。

歯を掃除してくださる歯科衛生士の方に
「咳は出ると思いますけど、コロナの咳ではないと思いますので」と言ったらなんとなくわかってくださったような感じだった。

この衛生士の方は一年くらい前に新しく入られた方だ。

なぜか一年前にこの方に歯の掃除をしてもらったのだけれど、患者の側から見てもまだ仕事を始めて間もない方というのがすぐにわかった。

しかし、今、歯の掃除をしてもらっているとすっかり慣れられたということがわかる。
安心感が違うからだ。

若い人が仕事になれるのが早いさまを感じると少し感動する。仕事をして生きていくためにはやはり早く慣れなければならない。なんだかそういう気持ちが伝わってくるような感じだった。

歯の掃除が終わった後の先生への報告、会計の処理も一年前よりもぜんぜん慣れておられる。

本人の努力ももちろんだけれど、きっと周りの教え方もうまいのだと思う。

日曜日の風景

2020年06月28日 | 日記
日曜日の京都。人出はさすがにずいぶん戻っている。やはりいくらコロナでもみんないつまでも家に閉じこもっていたらやりきれなくなってしまうのだと思う。

夏ならではのおしゃれを楽しんでいる人も多い。マスクをして苦しそうな顔をしている人を見るとなんとか無事でと思う。

しかし、この時期の京都に祇園祭の雰囲気がほとんど感じられないのはやはりちょっとさびしい。

ツイッターで自分のことを中傷した人物の特定などを求めて裁判を起こしている若い女性のことが新聞に出ていた。

本当に裁判を起こしても戦うという姿勢の人が出てこないとネットでの中傷ってなかなか少なくならないと思う。

面と向かって言えないこと、自分の顔や名前を知られたら言えないことをネットで野放図に言える時代というのもなんだかちょっと怖くて陰湿な時代と思う。

誰かが動くことで少しでもよい方向になっていくといいなと思う。

イチローと王さんの言葉を調べてみると

2020年06月26日 | 日記
ちょっとネットを見ていてイチローが夫婦喧嘩について問われ、頭脳が違いすぎて喧嘩にならない、という主旨のことを答えた上で次のように語っている。

「しょっちゅう(喧嘩を)する人って小出しにしているから、あまり大きいのは来ないでしょう。うちはデカイのが来るんですよ」と笑いを誘っていた。

本当にイチローさんらしいクレバーなジョークだなと思う。ジョークというよりは半分、本当のことなのだろうけど。本当のことを面白く語るところがクレバー。すごいなと思う。

イチローを見たら王さんの言葉が知りたくなった。

今回のコロナということについて王貞治さんが語った言葉をネットで検索したら出てきた。

こんな言葉だ

「あとで振り返った時に、ちょっと大事を取り過ぎたなと言われるような、それぐらいがちょうどいいんじゃないか」と。

あとで振り返ったときちょっと大事を取り過ぎたと言われるくらいがちょうどいい。
これも本当に王さんらしい。大事を取りすぎるくらいという点と、あとで振り返ったときという点の2つの要素が入っているところが王さんそのもの。

「言われるくらいがちょうどいい」と言ってしまうのは、きっと王さんがいろいろ言われ続けてきた人だから。

やはり、みんなからいろいろ言われる人の気持ちはその人でないとわからないだろうなとも思う。

あとで振り返ったときという発想を持つのはとても大切なことのように思う。

連結部の自動ドア

2020年06月25日 | 日記
コロナになってから阪急の特急に乗る時はなるべく連結部の近くの優先席に座る習慣になってしまった。

そこに座るのがいわゆるソーシャルディスタンスを確保できる可能性が最も高いと経験則でわかってきたから、、。

もちろん杖をついた人などがいらしたら優先席なのでゆずらなければならないと思うけれど、、、。

その優先席は連結部のドアに近いところにある。

連結部のドアには縦型のドアノブの形をしたセンサーがついていて、そのセンサーに軽く手を触れるとセンサーが反応して連結部のドアがあく。

軽く触れるというのがコツで強い力でドアノブの形のセンサーを握ったりするとセンサーは反応せずドアは開かない。

40歳くらいの女性が車両をツカツカと歩いてきて、連結部のそのドアノブを持ってドアを手動で開けようとした。

手動で開けようとするとそのドアノブ型のセンサーには強い力がかかるのでドアは開かない。

一瞬僕はセンサーに軽く手をかざしてドアを開けてあげようかと思ったけれどちょっと僕の座っている場所からドアまでは微妙な距離があった。

それで僕が思いとどまっているうちに女性はドアが開かないと見て、僕の横に50センチくらい間隔を開けてドシンと腰をおろした。やれやれという感じで。

女性がドアを開けるのを手伝えなかったという思いと、女性がドアが開かないのをあきらめて腰を下ろすまでの動作が早かったなという思いが心の中で交錯して僕はちょっと苦笑いした。

すると女性はそれに気づいて
「何笑っとるの」と僕に言った。

ちょっと強い独特の口調で、あ、この人、昔ヤンキーやったかもととっさに思った。

なんとなく相手に突っかかっていくような口調がくせになってしまっていて、僕にもとっさにそんな言い方をしてしまったという感じだった。

これはまずいと僕は思った。

「笑ってゴメン」と僕は言った。「ドアは強く開けようとしたらあかんねん。ノブにちょっと触れるだけにしな。僕があけるわ」と言って僕が連結部のドアの方に進むと女性も立ってそこまで来た。

僕がドアノブに軽く触れるとドアは自動でスッと開いた。もしドアがここで開かなかったら僕はもう一度謝らなくてはいけない場面だったけれど開いてくれて良かった。

女性も、あっ ドア開いたという感じの顔つきだった。

「こうすれば開くねん」と僕は言った。

「私この電車乗るの初めてやったんや」と女性は言った。

「まあ、ゴメン」と僕は言った。

女性はそのまま隣の車両の方に進んでいった。

まあ、僕もたまに阪急以外の私鉄に乗ったりするとき要領がわからないときがあるし、まあそれはお互い様だなと思う。





男の子 女の子

2020年06月24日 | 音楽
郷ひろみさんのデビュー曲「男の子 女の子」は岩谷時子さんが作詞された。

その二番の詞はこんなふうになっている。

‘’
幸せ探すのはまかせてほしいのさ
夢があるれる
一度の人生 大事な時間‘’

詞を読んでいて 幸せ探すのはまかせてほしいのさ
という一節が頭にとりついて離れなくなってしまった。

本当にまさに岩谷時子さんという一節。

夢のある言葉だなと思う。

男でも女でもそれは、幸せ探すのはまかせてほしいという人に出会えたら、それは理想の出会いだと思うし、誰もがこの人とだったら幸せになれる、そんな出会いを求めているのだと思う。

とても強烈に個性的な歌詞だなと思う。

この歌の歌詞全体を見ると

go go go go
と連呼するところが二回出てくるけれど、郷ひろみさんはラジオのコマーシャルなどで今でも
go goと連呼されることが多い。

その原型はデビューのときに時子さんが作られたのかなと思う。

もちろんgo に関しては関係者からの要望で郷との語呂合わせで入れてほしいという要望があったのかもしれない。

もしそうだとしても、文脈上全く違和感のない形でそれをやってしまわれるところが、やっぱり時子さんすごいなと思う。