10月23日付の全国紙を実家で読んでいたら 若手ピアニストのMFさんのことが記事になっていた。
新聞を実家に置いてきてしまったので 記憶で書くと
その記事にはMFさんの言葉として およそ次のような主旨のことが書いてあった。
“”「録音された自分のモーツァルトの演奏を耳にしていたら なんていいモーツァルトだろうと思わず聴き入ってしまった。この録音 自分でも 買います」相当な自信と強いメンタルの持ち主だ。“”と。
MFさんの語った言葉が 最後に 「相当な自信と強いメンタルの持ち主だ」という新聞記者の言葉で結ばれていた。
なんだか その 新聞記者の結びの言葉を読んで 気持ちが がくっと 来てしまった。
※個人の感想です
僕は MFさんが 録音された 自分のモーツァルトを聴いて 「なんていい モーツァルト」 と思わず聴き入ってしまう というのは MFさん自身の 芸術家としての ごく 自然な感じ方を そのまま 言葉にしただけで 相当な自信 とか 強いメンタルとか そういうこととは 別次元の話だと感じた。
また、そのように 感じたことを そのまま 口にできるのが いわば MFさんの 芸術家としての魅力のひとつであるのに それを 相当な自信とか 強いメンタル とか そいうステレオタイプの言葉で まとめて結んでしまうのは とても興ざめと感じた。
※個人の感想です
これは あくまで 僕の想像なのだけれど 記者の方は ピアノの演奏を 例えば フィギュアスケートのような 採点競技に近いものに感じておられる可能性が なきにしもあらずだと思った。
言うまでもないことだけれど 音楽の演奏は 採点競技ではない。
相当な自信とか 強いメンタルとか そういう言葉はなじまないと思う。
まあ、 新聞の記事というのは ステレオタイプに書くことが求められるものではあるので 記者の方も やむを得ず そういう言葉で結ばれた 可能性も もちろん 高いと思う。
でも ピアノの演奏を 伝える記事を 採点競技の選手の記事と同じような言葉で結ぶのは 個人的には ちょっと勘弁してほしいと思う。
このような いわば マスコミからの 誤解というか ちょっと的外れの期待 あるいは評価が 若い 芸術家に いらぬ プレッシャーを与えて つぶしてしまうことのないようにと個人的には願いたい。
まあ MFさんは そんなたまでは ないとは 思うけれど、、、。
しかし この 記事のおかげで MFさんに興味をもって ネットに出ていた モーツァルトのピアノ協奏曲の動画を聴いてみた。
やはり ちょっと 聴いたことのないタイプのモーツァルトだ。
僕の つたない言葉で しいて 書けば
それは 抑えが利いていて それでいて パワーもあるし 明晰さもある という なんというか 三拍子そろっているような ちょっと不思議な世界だった。
普通 パワーがあって 明晰さがあれば 音が解放される方向に行ってしまって おさえが あまり利かなくなるようにおもうのだけれど しかるべき抑えが利いていて なおかつ 強いパワーと 明晰さがある いわば モーツァルトを超えたモーツァルトだなと思った。
そして 一緒に演奏している 指揮者と オーケストラのメンバーが 楽しそう。
ピアニストが 指揮者と オーケストラまで引っ張っている。
ちょっと あまり 頻繁に お目にかかれない 光景が 動画に記録されていた。
まあ すごい人だなあとは 思った。
それと同時に 自信とかメンタルとかいう言葉を用いて ステレオタイプに 物事をまとめてしまって ゆえに 本質をはずしてしまう という現代の思考の傾向の一端を見るような気もして 僕にとっては いろんな意味で 考えさせられる新聞の記事だった。
まあ それは ともかく MFさんの 今後の ご活躍を祈るとともに 自分自身は いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。
■君といつまでも
加山雄三さんの「君といつまでも」をカラオケJOYSOUNDの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップロードします。
聴いていただければ幸いです。
カラオケボックスの広い部屋にあたったので エコーがよくきいて 広いお風呂で歌を歌っている気分でした。
加山雄三さん 今年で歌は引退されるとかニュースで出ていたと思います。
昭和23年生まれの 叔母が 加山雄三の大ファンだったので 子供のころから 聴いていた歌です。
夢の広がる歌詞を見ていると 作詞の岩谷時子さんが 宝塚歌劇団で編集者として働いておられたという経歴を思い浮かべます。
今、 こんな 夢のある 歌 ないな と思います。
時代もよかったのでしょうね。
↓加山雄三さんの「君といつまでも」をカラオケJOYSOUNDの音源で歌いました。
さすがの感性です。
演奏は聴いてませんし記事全文も読んでいませんが、
うまいヘタではなくて、自分さえ愛さない演奏を誰が好きになるのだろうか?といえると思います。
私は素晴らしい演奏者だと察せられると思いました。
記者は、おそらくは自分の気に入らない、彼の思うモーツァルトとは違う演奏を表現する言葉を、言葉のプロなら探さないといけないと思いました。
それを強いメンタルで音楽を押しつけたともとれる言葉で音楽とは違う物差しを持ってきた。
評論にもなっていないと思います。
記事上で、ハラスメントを行い、編集者も見逃したのは罪が深いと思います。
そしてそこに気づいたブログ主さんはすごいと思います。
新聞には 新聞の語法というものがたぶんあって 記事を書いた人は あまり意識せずに新聞の語法として 相当な自信とか 強いメンタルとか書かれてしまったかもと思います。
でも 「なんていいモーツァルト」 という 演奏者の 言葉は 確かに 「まず 自分の演奏を愛する」ということで それこそが 演奏者の話の 重要なポイントと僕も思いました。
その 重要なポイントに即した言葉で 記事を結んでほしかった と 僕もそのように感じたので 口はばったく 今回のブログ記事をかいてしまったという次第です。
コメント どうも ありがとうございました。