ケンのブログ

日々の雑感や日記

日本センチュリー交響楽団センチュリー豊中名曲シリーズvol8 2018年9月30日

2018年09月30日 | 音楽
昨日9月29日、日本センチュリー交響楽団豊中名曲シリーズvol8を
聴きに行った。
会場は豊中文化芸術センター大ホール。
昨年オープンしたこの芸術文化センターにはじめていった。
阪急の曽根の駅に着いたときに一瞬方向音痴になったけれど
近くのコンビニの店員の方に聞いたら親切に教えていただけた。
道さえ知っていれば駅から5分歩けば十分に到着する
距離だし道もまっすぐいって信号で右に曲がるだけなので
簡単と言えば簡単。
指揮は小泉和裕さん。
いつか新聞に小泉和裕さんが僕の故郷
岐阜県で農場を開いておられると読んで
一度、その演奏を聴いてみたいと思っていて
今回それがはじめて実現した。
最初に演奏されたのは
ベートーベン作曲 交響曲第2番 ニ長調 作品36
第一楽章
力強く骨太のイントロダクション。
イントロの力強さをそのまま保って演奏は主部に
入る。
主部になって一気にギアチェンジして
テンポが速くなったりするのかと思ったら
そうでもなくて一定の重みを伴ったまま演奏は
進んでいった。
リズムの刻み方が力強い演奏。
演奏が進むにつれて奏者おのおののしっかり音を
出そうとする気迫が強くなってきたように感じた。
第二楽章
演奏が始まった瞬間
緩序楽章にしてはリズムの刻みが強すぎるかなと思った。
演奏が進むとその気迫に押されたせいか
だんだん演奏のリズムが心地よくなっていきた。
ただ、楽章の終盤にはリズムを強く演奏しようという
意図が表に出すぎてちょっとわざとらしい
あるいは一本調子かなと思う側面もあった。
第三楽章
トリオのオーボエとファゴットのハーモニーは美しく決まったと思う。
第四楽章
リズムの力強い演奏だった。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのが
ブラームスの交響曲第4番 ホ短調 作品98
全体にリズムを力強く刻むタイプの演奏だったと思う。
ただ、この前に演奏されたベートーベンの交響曲第2番の
演奏からそういう傾向はずっと続いていて
そういう演奏の傾向に耳がなれたせいもあると思うのだけれど
なにかこう凡庸な演奏に聴こえた。
オーケストラの方は力強く弾こうとなさっているのは
見て聴いていればわかるのだけれど、その気持ちが
どうも僕に伝わってこなかったような感じだった。
凡庸と思うから眠くなるのか、眠くなるから
凡庸と思えるのかよくわからない感じだった。
第二楽章の第二主題が出る前あたりから
ちょっとしんみりしたいい感じで演奏がすすんでいるかな
と思った。
小泉さんの指揮の動作は腕の振り方とか
からだの屈めかたとかどことなくカラヤンに似ているように思えた。
拍子を割りとしっかりと刻むタイプの指揮の動作であるように見えた。
だから演奏は実直丁寧であったと思うけれど
なんかちょっと色気にかけるなと思ったのも事実。
あとブラームスの演奏の途中でちょっと眠くなってきたので
会場の客席を見渡したら
残念なことに空席が多かった。
僕はオーケストラの経営についてはまったくの
素人だけれど、このお客さんの入りで
大丈夫だろうかと最近このコンサートに限らず
時々思うことがある。
きっとオーケストラの方もそれを感じておられるはずで
なんかカーテンコールのときのはじける笑顔も
大入りのコンサートの時と比べるとあまり
見られなかったような気がする。
まあ、コンサートにもいろんな時があると思う。

むしかくれて戸をふさぐ

2018年09月29日 | 日記
朝、ラジオを聴いていたら女性のDJが今日は二十四節気の
秋分、七十二候では むしかくれて戸をふさぐ に当たる日
と言っていた。
虫が土に掘った穴の戸をふさぐ、
だんだん秋が深まっていくこの季節にふさわしい
名前ですねとDJは言っていた。
そう言われればそうだなと思う。
二十四節気は知っていたけれど
それをさらに3分割する七十二候の名前が
そんなに風流なものとは知らなかった。
いろいろと勉強になるものだなと思う。
台風が迫ってきているようで町を歩くと
もうすでに風が少し強くなってきている。
先日の台風が関西ではちょっと僕が経験したことないほど
風が強いもので関西空港をはじめ
あちこちにかなり被害が出たので
今回の台風の被害が少しでも少ないことを願っている。
隣の町の駅近くのスーパーマーケットでおばちゃんが二人
立ち話をしていた。
おばちゃんの一人が言った
「私は行く場所があるからええけどな。娘のとこ、、、」
通りすがりに聞いた話なので聞き取れた部分はそこだけだけれど
想像で言葉を補うことはそんなに困難ではない。
私はいざとなったら娘のところに行くことができるけれど
旦那はそういうわけに行かんからな。と。
たぶんそういういことなのではないかと思う。
八王源先生がよく
「子供さんをしっかり育てたならば最後の勝利は
女性にあるんです」とおっしゃっていたことをしみじみと思い出す。
ところが最近の新聞を読むと
近くに住む母親が頻繁に尋ねてきていろいろ口出ししてくるとか
母親に監視されているようで気詰まりだという娘さんからの
投書が結構あるので、まあそういう世の中なのかなと思ってしまう。
自分がすでに自分のものではない、どうして子供が自分のものであろう
とお釈迦様は言ったけれど、そこまで割りきるれる人はそんなに
いないようにも思える。
要するに、無、我が物という思いを捨てること、また、
すべては苦しみと割りきることで
人は苦しみから離れることができるという
仏教の根底にある考え方なのだけれど
そう思えるようになるのがなかなか簡単ではないとしみじみと思う。

ポールマッカートニー両国国技館でコンサート

2018年09月28日 | 日記
朝、ラジオを聴いていたら今年来日するポールマッカートニーが
両国国技館で追加公演をすることになったと言っていた。
ラジオではポールはドーム以外でも日本武道館など
日本の伝統的な場所でコンサートをすることを希望しており
その希望がかなったというような説明をしていた。
ちょっと調べるとポールは1942年6月18日の生まれで
今年76才と出ている。
80才近くになって新しいことが実現できる
人生っていいなと思う。
もちろんシューベルトのようにさすらい人として
短い生涯を送りその真価は没後に評価されるというのも
また素晴らしいと思うけれど。
山田征さんという方の本を読んでいると
今日のあなたは結局、昨日までのあなたの延長でしかない
という趣旨のことが書いてある。
ポールは2013年に来日したときに九州場所を観戦し
土俵の回りを呼び出しが懸賞の旗をもって回るのを見て
興味を持ち説明の栃東親方に(玉の井親方)にあれはなんだと聞いたという。
栃東が懸賞の旗について説明するとポールも懸賞を出したいということで
さっそくその場所で懸賞を出すことになったという。
過去にすでにそういう布石があることと
今回の両国国技館でのコンサートの実現は
きっとどこかでつながっているような気がする。
やはり今日のあなたは昨日までのあなたの延長なのだと思う。
北の富士さんが白鵬について
「この人は好奇心が旺盛だから何でもやりたくてしょうがないんですよ。
結局いつか猫だましまでやっちゃったでしょ」
と先場所の解説で言っていた。
そう、猫だましまでやる横綱は珍しいと思う。
ポールもきっと好奇心が旺盛なのだと思う。
ポールの場合そういう好奇心が自分の人生を豊かにし
また、回りからも引き立てられる要因になっているように思える。
僕、両国国技館でコンサートやったんだよ と言えばポールにとっても
いい土産話になるだろうし
観客にとっても俺国技館でポール見たよと言えばそれもまた土産話になる。
そういう種類の話だなとおもう。
ラジオのDJによればポールが国技館のような小規模の場所で
コンサートをするのは珍しいことなのだという。
そういえばそうかもしれない。
音響はどうなのだろう。
国技館の音楽の音響については僕は知らない。
しかし、こと相撲の音響については国技館は抜群だ。
あるとき国技館で相撲を見ていて
あっ、木の音色が変わったと思った瞬間があった
まさにその時
「続いて西方十両力士土俵入りであります」と場内アナウンスがあった。
ああ、相撲は東と西で木の音色が違うんだなとその時はじめて知った。
地方場所ばかり見ていたら一生それに気づかなかったかも知れない。
ポールの歌は国技館にどんなふうに響くのだろう。
ポールの国技館での追加公演を知らせるプロモーションビデオを
見るとポールはこんな風に言っている
「新しいコンサートの場所が決まりました
読みます、ライゴクコクジカン ライゴクコクジカン」
きっと両国国技館にローマ字でルビをふって読むと
ライゴクコクジカンになってしまうのだとおもう。
※ポールのプロモーションビデオの言葉は
ユーチューブで聴いて記憶で書いたので内容はアバウトです。

オーケストラアンサンブル金沢大阪定期公演2018年9月23日

2018年09月27日 | 音楽
去る9月23日ザシンフォニーホールにオーケストラアンサンブル金沢
大阪定期公演を聴きに行った。
指揮は川瀬賢太郎さん
管弦楽オーケストラアンサンブル金沢
最初に演奏されたのは
ハイドン作曲 交響曲第90番ハ長調Hob.1-90
第一楽章は短いイントロに続いてアレグロの主部
第二楽章アンダンテ 第三楽章メヌエットと
続き、ハイドンの交響曲はある意味決まり通りで
聴いていて安心感があるなと思う。
こういう安心感ってハイドンの魅力のひとつだと思う。
オーボエやフルートの音が普段ベートーベン以降のシンフォニーを
聴いているとずいぶん古典的な響きだなとしみじみと思う。
楽しく安心して演奏を聴いていた。
指揮者の左手一直線に3プルト ファーストバイオリンが並んでいる
小編成なので小気味良く演奏が進んでいく。
4楽章も快調に演奏は進んでいった。
曲がいかにもこれで終わりというような展開になり
指揮者が最後の棒を振って体を左に回転させた。
曲の終わりで体を左に回転させるような指揮のしかたしたら
あかんがなと思ったら
指揮者はまた曲の続きを指揮し始めた。
会場では拍手が始まっていたし、僕もあれ?と思った。
また、曲がいかにもフィニッシュという感じになって
指揮者は体を左に振った。
また、曲のフニッシュで指揮者はあんなからだの振り方
よくないやろ と思った。
そうしたら指揮者はまた曲の続きを指揮し始めた。
もちろん今度も会場の人は拍手をした。
また曲がフィニッシュの感じになった。
指揮者は会場に手を差しのべ今度は
観客に自ら拍手をうながした。
今度はほんまにおわりやと思った。
本当に今度は終わりだった。
ジョークと思いつつも
ハイドンはこういうジョークでお客さんを
楽しませたのかなあと思ったら
なんだかハイドンの人柄がしのばれるようでちょっと胸がいっぱいになった。
ベートーベンの交響曲第4番の第四楽章は
最後の部分でこの楽章のメインテーマをとてもゆっくりと
引き伸ばしたように奏で
次の瞬間にそれとは逆にそのテーマを思いっきり速く奏でて終わる。
1990年くらいにロンドンのバービカンセンターで
ベートーベンの交響曲4番をロンドン交響楽団
ティルソントーマス指揮で聴いたとき
コンサートのプログラムの楽曲解説執筆者が
ベートーベン交響曲4番のこの終わり方に言及して
これはハイドン流のジョークと書いていた。
なんか、そのプログラムの楽曲解説を読んだときの感動もよみがえった。

次に演奏されたのは小山実雅恵さんをピアノソリストに迎え
モーツァルトピアノ協奏曲第20番ニ短調 K .466
第一楽章
曲が開始したときスカスカの演奏だなと思った。
モーツァルト特有の陰陽
短調のなかにそこなかとなく見られる微笑み
そいいうものが聴き手の僕にまったく伝わってこない
スカスカやんか、と思った。
ところがピアノのソロが入るとピアノには
それなりの深みもあり
そしてオーケストラの演奏にも深みが増したように思えた。
いやあ、ピアノが入るとオーケストラの演奏も変わるな
音楽ってやはり気が伝播する性質があるんだなとしみじみと思った。

第二楽章
最初の入りは実雅恵さん丁寧で心がこもっているなと思った。
譜割りが細かくなるところで実雅恵さんは
テンポを加速していかれた。
しかし、それで演奏の緊張感が高まったかと言えば
それはちょっと微妙だなと思った。

第三楽章
楽章の途中でオーボエが息をのむほど美しいモチーフを奏で
それは見事に決まった。
美しいと思った。
実雅恵さんはベートーヴェンのような重みで
モーツァルトを弾いておられるなと思う場面もあった。
全体を通してピアノの音がつながりすぎかなと思うこともあった。
こういういところは本当にモーツァルトは微妙に難しいなと
しみじみと思う。
でも実雅恵さんの演奏はいわば実雅恵品質はいつも
保たれるのでそういう点は安心して聴けるなと思った。
最後に指揮者がハイドンに続いてまた体を左に
大きく半回転くらい振ってフィニッシュした。
なんかしまりのないフィニッシュの動作のように感じられた。
指揮者は動作で思いを演奏者や観客に伝える面があるので
動作は大切と思った。
ああいう動作だとなんか振りっぱなしで最後は終わりという
印象を持ってしまう。


20分の休憩をはさんで次に演奏されたのが
ベートーベンの交響曲第5番
第一楽章
なんかスカスカの演奏と思った。
規則正しく緊密な音楽にこめられた
ベートーベンの思いがほとんど伝わってこないように感じられた。
音だけを追っているからこういうことになるのかとも思ったし
指揮者の体重が軽いせいもあるかもしれないと思った。
このままの勢いでいったら全曲を通して
どんな演奏になるかと心配したけれと
第二楽章からは持ち直した。
第二楽章
木管の音色がとても綺麗でしみじみとした感じ。
こういう木管の音のしみじみ感はベートーベンの
時代から始まるのかなと思った。
第三楽章
まずまずよかった。
トリオのところで弦楽器が音の勢いをさばききれず
アンサンブルが乱れているように思えた。
他にも演奏のところどころに素人の耳にも
アンサンブルが乱れていると思えるような箇所かあった。
トリオは全曲のなかでも聴かせどころのひとつと思うので
ここが弾ききれてないと感じるのは残念と思った。
第四楽章
トロンボーンとトランペットのファンファーレを聴いて
第二楽章の木管もそうだけれど
管楽器のオーケストラにおける役割も
ベートーベンは変えてしまったんだなと思った。
同じ日にハイドンの交響曲と並べて聴くことで
それを再認識することができてよかった。
ティンパニーの方が手首をうまく返して
楽器をたたいておられ、しなやかでいい感じだった。
ああいうティンパニの演奏の仕方もあるんだなと思った。

いろいろと勉強になる演奏会だった。


中秋の名月は磨りガラスごしに見るようだった

2018年09月25日 | 日記
昨日は中秋の名月と言うことで夜空を眺めたけれど
空は曇っていた。
曇っていて全く月が見えなかったかというと
そうではなく空のほぼ全体を薄い雲が覆っていて
その雲の覆いの向こう側にぼんやり月が見えた。
雲の覆いの向こうに月が出ているので
磨りガラスごしに見た月のような感じだった。
いっそのこともっと曇っていて
月が全く見えなかったのならば
松尾芭蕉ではないけれど

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき

という具合に月も見えなければ見えないで
それもまた一興とあきらめもついたのかもしれない。
しかし、磨りガラスごしに見えるような月は中途半端だなあと思った。
ただ、僕は月って中秋の名月の日が特別美しいとは限らないと思う。
自分が美しいと思って見た月はどんな月でも
美しいはず。
金光さんが法事は親や先祖の恩を忘れないための大切な日
祭りは神の恩を忘れないための大切な日とおっしゃっていた。

それと同じことで中秋の名月の日も
きっと月があることのありがたさを思い出すために
大切な日のように思う。
 
最近、僕は雨が降った日は視界がクリアで
夜景がきれいだなというのを頻繁に感じるようになった。
このことをネットで調べてみると
あるサイトに雨が降ると水で空気中のほこりが
洗われるからそれで空気が澄んで
雨が降った日は視界がクリアになるという説が紹介してあった。

それを読んだ時、きっとそうだろうなと思った。

そんなことを考えていたら
忌野清志郎さんの「雨上がりの夜空に」という歌のタイトルが
とても気になるようになった。

雨が降ってやむと例えば百貨店のネオンサインなど
近景の夜景は本当に鮮やかになる。

しかし、雨があがりかつ夜空がきれいとなると
雨があがって、かつ、空は晴れているという
条件を満たさなければならないのだろう。

その条件が満たされるのがどれほどレアなことなのかは
僕は気象にうといのでわからないのだけれど、、、。

しかし、雨があがって視界がクリアになって
空も晴れれば、星や月はきれいだろうなと思う。

OH雨あがりの夜空にながれる
WOO ジンライムのようなお月さま

忌野清志郎さんはどんな夜空を想像して
この詞を書いたのだろうと思う。