ケンのブログ

日々の雑感や日記

京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く(第693回)

2024年09月25日 | 日記
京都市交響楽団第693回定期演奏会を聴きに行く。

指揮は阪哲朗さん

最初にドボルザークの交響曲第8番が演奏された。

演奏は無難な感じと思った。

ただ、一週間前に別のオーケストラのコンサートにに行ったときと楽器の配置がかなり異なっていたので頭が混乱して目が回りそうになってしまった。

ホルンだと思って左を見るとそれは右だったり、コントラバスだと思って右を見ると左にいたり、鏡の世界をのぞいているような気持ちで、頭が楽器の配置に慣れてきたときにはもう演奏は後半に差し掛かっていた。

三楽章が始まる瞬間の阪さんの体の動きがスネークのようであの一瞬がとても印象的だった。

一瞬の印象が記憶に残るって割とよくあるような気がする。

20分の休憩をはさんで

ブラームスのハンガリー舞曲集から1,4,5,6,7,10番が演奏された。

ドボルザークの交響曲と比べると曲想がめまぐるしく動くのでオーケストラの楽器を目で追うのがしんどくなってきて途中でやめたしまった。

演奏も、リズムにしかるべきタメがきいていないように思えて、少なくとも僕にとっては凡庸な演奏に思えた。

そして、ハンガリー舞曲って演奏するのが素人が思う以上に困難な曲、と生演奏を聴くことで認識することができた。

ダンスなので生まれつきそのリズムに親しんでいるかということで決まってしまう部分も大きいと思うし、、、。

次にドボルザークのチェコ組曲が演奏された。

この曲になるとまた打って変わって、聴きごたえのある演奏が展開されているように思えた。

ドボルザークが割といい感じでブラームスの舞曲が凡庸に聴こえてしまうのは、指揮者の動きが、ちょっと柔らかい系統のものであることと関係しているのかもしれない、とも思った。

僕にとってハンガリー舞曲はしかるべき体幹が要求される音楽なのかもしれない、ということに生演奏を聴くことで気づくことができたような気がする。

アンコールがまたハンガリー舞曲だったけれどこれもちょっと凡庸であるように思った。

そんな思いで拍手をしていたら、管楽奏者の方が途中で盛んな拍手をされたので、そうだよな、演奏がどうだったかに関係なく、無事終わったんだから拍手はしっかりしなければと思いなおして拍手した。

コンサートホールの出口までくると その管楽奏者の方がコンサートのチラシを配っておられ、たまたま僕が前を通った時にそのチラシが一枚床にポトッと落ちたので拾ってカバンに入れた。

なんだかちょっと運がついたような気がした。

それはともかく一日いちにち無事に過ぎますようにそれを第一に願っていきたい。







名古屋フィルの定期演奏会を聴きに行く(第526回)

2024年09月17日 | 音楽
9月14日愛知県芸術劇場に名古屋フィルハーモニ交響楽団第526回定期演奏会を聴きに行った。

指揮は小泉和裕さん
最初にモーツァルト
ディベルティメント17番K.334が演奏された。

チューニングでホルンが鳴る。

普通チューニングで最初に音を出すのはオーボエ。

ええ?オーボエはどこ と思ったけれどどこにもない。

管楽器はホルンだけの編成と気づいた。

演奏は弦の音が割と濃厚で滑らかにつながる印象で、なんとなくカラヤンのモーツァルトを思い起こさせる。

小泉さんの演奏を聴いているとカラヤンを思い起こすことが時々あるなと思う。

ホルンの柔らかい響きを聴いていて こういう響きがベートーヴェンの英雄交響曲のホルンそしてロマン派の音楽でのホルンの音につながっていくのかなと そんなことを考えながら演奏を聴いていた。

二楽章は深い趣の音楽だけれど ふっと演奏の印象が変わるときに思わずコンサートマスターの方に目が行ってしまった。

演奏の要所、要所を締めるのがコンサートマスターの役割のひとつなんだなと思った。

そして、そういう仕事のうまい方なんだろうなとそんなことをぼんやりかんがえながら演奏を聴いていた。

三楽章のメヌエットは聴き覚えのあるメロディだったので楽しい気分になった。

ただ、微妙な変化にとんだモーツァルトの音楽全6楽章を40分余り聴き続けるのはけっこうしんどいことでもあるなと思った。

休憩をはさんで次に演奏されたのが

チャイコフスキー交響曲4番 作品36
第一楽章では 
音が大きいところよりも小さいところの方が僕にとっては味わい深いものがあったように思う。

木管の響きはメランコリックでもありロマンチックでもあり時に安らぎを感じさせてくれるものだったと思う。

バイオリンを中心に静かにロマンチックな旋律を奏でるところもきれいだなと思って聴いていた。

第二楽章
ここはオーボエの長いソロで始まる。

やっぱり美しいなと思う。

こういうところは生演奏でないと味わえない響きがあるなと感じる場面だった。

オーボエのソロが終わってチェロなど低音の弦楽器が響いた時にはホッとしたというか何とも言えない弛緩効果があるなと思った。

緊張から弛緩、それはチャイコフスキーの音楽のひとつの大きな特色であることに生演奏を聴くことで今さらのように気づいた。

第三楽章
弦のピチカートで演奏される。

特に細かい音をクレッシェンドしていくところは音の効果、弦楽奏者から受ける視覚的効果の相乗でちょっと鳥肌モノだった。

第四楽章も怒涛の盛り上がりの中で演奏が終わった。

大きい音が出るところでもう少し音の密度が高ければさらにいいのにと思った場面もあった。(音は物質ではないので密度があるかどうかわからないけれどあくまでイメージです)

あとビオラの奏者の方々がスッとした感じで弾いておられるので目をやってもさほどクリアに音が聴こえてこない。

それで 僕の座席からだとビオラはもろに楽器の背を向ける位置になってしまうことに改めて思いが行った。

ホールの音響がどうとか十把一からげのように語ることは出来なくてどこの位置にどういう音が聴こえてくるかということも大切と感じた。

カーテンコールの時の拍手に 名古屋のお客さんの何とも言えないぬくもりを感じた。

そういうものをしみじみと感じたのは関西からこちらに越してきて初めてだった。

だんだん そういうぬくもりを感じられるようになっていくといいなと思った。

それはともかく一日いちにち無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。

にらめっこ 笑うと負けよ

2024年09月12日 | 日記
先日夜遅く、尾張美濃地方を代表する私鉄の割とローカルな路線に乗った。

女性の車掌さんだった。

電車が発車してしばらくして車掌さん「シルバーの座席は優先席です。お近くにお体の不自由な方がみえましたら、座席をお譲りください」

「不自由な方がみえましたら」って、あんた、それ、尾張、美濃の方言じゃないの、車内アナウンスは標準語のはずなのにと思ったら顔がにやけてしまった。

僕は電車の最後尾の車両に乗ってたいので車掌さん気づいたのかもしれない。

次から同じアナウンスをするときには標準語に変わった。

僕は割と内転筋があるせいか、男の割には足をすぼめて腰掛ける傾向にある。

そうすると、向かいの座席に座った人の脚が男女問わずそわそわすることがあるので、電車で向かい合わせに人がいるときは眼を閉じていることが多い。

しかし、田舎は、駅からいきなり乗ってきて、わき目もふらずに、家のソファーに座るようにどかーっと電車に乗り込んできて大股開きや斜めに座ったりする人が特に男に多い。だから、駅に停車中は用心のために眼を開いている。

それに気付いたらしくて、僕の向かいに座っていた女の子が、駅に停車して僕が目を開けるとちょうど僕がうつむいた視線の先にスッとしたスニーカーが来るように足を置いている。

駅に停車するたびにそのスニーカーの足がハの字になっていたり、両足外に向いていたり、足がそろっていたり 開いていたり パターンが変わっている。

僕が目のやり場に困っていることに車掌さんが気づいたのかもしれない。なんだかどんどんアナウンスの声がハイトーンになってくる。

とうとうこらえきれずに 顔を覆うふりをして笑ってしまったけれど あれはにらめっこで笑うと負け という原理と同じことなのだと思う。

しかし、まあ、こういう光景は田舎鉄道ならではだなと思う。

それはともかく いちにち いちにち無事に過ごせますようにそれを第一にねがっていきたい。