ケンのブログ

日々の雑感や日記

京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く。(第685回)

2024年01月25日 | 音楽
1月20日金曜日 京都コンサートホールに京都市交響楽団第685回定期演奏会を聴きに行った。

指揮は沖澤のどかさん
最初に演奏されたのは
オネゲル交響曲第5番

指揮者の棒がふわっと上がるタイミングで冒頭のコラールが始まるように僕には見えたことが印象的だった。

指揮の棒がふわっと上がる アップビートってあのことか? などと演奏の中身とはちがうこともあれこれと考えてしまった。

それは、さておき、この冒頭のコラールはかなり重厚で悲壮感があるのだけれど、やがてティミヌエンド、つまり音がだんだん弱くなっていく。

そのディミヌエンドの作り方がとても滑らかで美しく聴こえた。

決してなめらかな曲調ではない音楽の場面で滑らかなディミヌエンドをつくるということがとても印象に残った。

指揮者がすごいなとも思ったけれど 指揮者とともにこういう音を作れる京都市交響楽団もやっぱりかなりうまいんだなと思った。

世界的に誰もが名前を知っているようなオーケストラを聞いた時に 強い音よりも弱い音を勢いを失わずに出していることに感心することがたまにある。

最近 海外のオーケストラをほとんど聴いていないので 音が弱くなるところで美しいと思えたことはちょっと記憶に残りそうな気がする。

あと 曲全体を通じて 木管楽器がけっこうけたたましく聴こえるところがあったので そういうところでは やはり ショスタコーヴィチを心のどこかで連想しながら演奏を聴いていた。

プログラムの楽曲解説によると作曲年代もショスタコーヴィチの全盛期だし 作曲者のオネゲルも健康状態が良くなかったということで やはり そういう ショスタコーヴィチのような不安な要素が曲に現れるのかもと思った。

次に演奏されたのは
タイフェール ハープと管弦楽のための小協奏曲
演奏中 なぜか ラヴェルの音楽を常に連想しているような状態だった。

どの曲か思い出せないけれど ラヴェルの管弦楽曲と同じモチーフを使っているのではないかと感じる場面が何度かあった。

どの曲のモチーフかわかれば「やったぜ」という気分になれそうだけれど それが思い出せないのがちょっともどかしい気がする。

でも どの時代でもそうだけれど 同時代の作曲家って互いに影響を与え合っているんだなと思った。

ハープの独奏は吉野直子さんだった。

僕が聴いたいろんなオーケストラの演奏会でハープの独奏という場面では 多くの場合、吉野直子さんがそこにいたな とそんなことを思いながら直子さんの演奏を聴いていた。

同じ道で ずっと一線で出続けること やはり すごいなと思う。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのは

イベールの寄港地

この曲にはローマ チュニス バレンシア という三つの地名が出てきて 「これがローマか」などど考えているうちに演奏が終わったので コンサートから日数が経過した今ではあまり演奏のことは覚えていない。

指揮者の沖澤のどかさんがプレトークでこの時代のイベールのように自分が立ち寄った港といういわば作曲家のパーソナルな体験を音楽にすることを ベートーヴェンやモーツァルトの普遍性との対比で語っておられて 面白い視点だなと思ってその話を聞いていたことの方がむしろ記憶に残っている。

そして最後に演奏されたのがラヴェルのボレロ

これは 小太鼓が終始 ボレロのリズムを刻んでいて それは、最初小さい音で すこしずつ 少しずつ 音が大きくなっていく(たぶん)。

僕は 最近 オーケストラの音が どこから出ているか 目で追ってしまう習慣がある。

小太鼓はずっとなっているのに どこで小太鼓がなっているのかわからない。

あれ 「小太鼓どこや?」と思いながら演奏を聴いていた。

演奏が終わりに近づいて 小太鼓の奏者の方の動作が大きくなってやっと ああ 小太鼓あそこかと気づいた。

僕のところからは 小太鼓が 譜面台に隠れる位置にあって 小太鼓奏者の方の 上半身しか見えなかった。
でも その 上体は 演奏中 ほとんど ぶれることがなかったので 譜面台に隠れた小太鼓をたたいておられることがわからなかった。(僕が視力を矯正しても少し近眼というのもあるかもしれないけれど、、、)

でも あれだけ上体がぶれないで10分余りも演奏を続けられるということは よほど 体幹がしっかりしておられるのだろうな と演奏の音そのものとは ちょっと違うところで感心してしまった。

もちろん 音もよかったけれど、、、。

いい演奏会だった。

それはともかく いちにち いちにち 無事でありますように それを第一に願っていきたい。



幼い女の子

2024年01月07日 | 日記
コンビニで マスクがないか探そうと思った。

だいたい マスクなどは衛生用品というくくりで除菌スプレーとかウエットティッシュとかそういうものと同じあたりに置いてある。

もう いろんなコンビニに行きつけているとそういうのは感覚的にわかるようになる。

それで 衛生用品がおいてあるあたりに目星をつけて その棚をめがけていくと 棚の下の方に置いてある除菌スプレーやらそういうものを5歳くらいの女の子が一生懸命見ていて その斜め後ろにお母さんが立っていた。

僕はせっかく商品を夢中になって見ている女の子を驚かせてはいけないと思って お母さんの前をそっとかすめ通るように横切って お母さんと斜めに並ぶ形でやはり女の子の後ろからそのあたりにマスクがないか探した。

すると しゃがみこんで棚の下の方の商品を見ていた女の子は お気に入りの商品を見つけたらしく 目の前にあった 商品をちらっと指さして それから 思い切り僕の脚にしがみついた。

もう 女の子はお気に入りの商品を見つけて 夢中で僕の脚をお母さんの脚と勘違いしてしがみついたことは 状況から判断して明らかだった。

女の子は 僕の脚にしがみついて 上を見上げると そこにあったのはお母さんの顔ではなかったので とっさに 僕の脚から離れ 本当のお母さんの足元に 恥ずかしそうに そして とてもショックを受けた様子で うずくまってしまった。

お母さんの脚と思って 全幅の信頼を寄せて 夢中でしがみついた脚が お母さんの脚ではなかった とんだ間違いをしてしまった、その時の子供のショック 恥ずかしさは どんなものだろう。

自分が子供のころ 5歳くらいだったころのことを振り返って想像すると そのショックの程度は容易に推し量ることができる。

夢中になって商品を見ていて お気に入りを見つけたうれしさで 全力で脚にしがみつく そして 間違いと分かると ショックを隠すこともなく うずくまってしまう。本当に聖書に「子供に見習いなさい」と書いてある通りだなと思って僕は感動していた。
感動を隠すために 僕は照れ隠しに 笑った。

すると お母さんが 女の子に 「あんた 間違えるから おじさん 笑ってみえるやないの」と言った。

子供は 自分が勘違いしたショックで そのお母さんの言葉にはほとんど無反応だった。

僕は その時 なんとなく 女の子に その子の間違いを笑ったと思われるのはいやだなと思った。

お母さんの脚と思って 僕の脚にしがみついた子に 間違いを笑われた という記憶を残したくないと思った。

それで 僕は ほんの一瞬ためらったけれど 女の子に 思い切り声のトーンを柔らかくして「間違えたんやね」と言った。

すると 女の子は 無反応だったけれど ちょっと安堵してくれたことはなんとなくわかった。

少なくとも 悪意で女の子に声をかけたわけではない ということは コンビニのお兄さんもわかってくれたみたいで そこで 飴とチロルチョコの勘定をするときに ニッっと笑ってくれた。

結局 マスクは 僕のお目当てのものが見つからなかったので 僕は 飴とチョコを買ったのだ。

ああ でも ほんの 一瞬の出来事だったけれど 僕が生きているかぎり 僕の記憶にのこるほど感動的な出来事だったなと思う。

それは ともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。







年末年始のあれこれ

2024年01月03日 | 音楽
昨年末は 年末恒例の ベートヴェン第九。

第九を年中行事のように聴きに行くなんて と思いながらも成人してからは第九を聴きに行った年の方が聴きに行かなかった年よりも多いような気がする。

今年は 名古屋フィルと 京都市交響楽団と二つの第九を聴いた。

名古屋フィルの方は川瀬賢太郎さんの指揮。
名古屋金山のフォレストホールというところで聴いた。

金山に行くのは数回目だけれど ちょっとディープな街だなと思う。

でも ディープというなら 大阪の天王寺界隈とか 名古屋なら今池界隈の方が僕はちょっと好きかなと思う。

個人の好みの問題だけれど、、、。

名古屋フィルの第九。

よかった。

けれど一楽章 二楽章は 迫力があるなと思う反面 ちょっとせせこましいかなと思う場面もあった。

ちょっとせせこましいかも と思い始めたころに 第三楽章のゆったりした音楽が始まり せせこまし感を覚えなくなり ベートーヴェンが従来シンフォニーでは第二楽章にもってこられることが多かった緩序楽章を第三楽章に持ってきた意図はこんなところにもあるのかも と思ったりした。

もちろん これは ベートーヴェン自身、意図しなかった意図かもしれないけれど、、、。

意図しない意図まで生まれてしまうところが ベートーヴェンはやっぱりすごいなと思う。

そして 意図しない意図まで生まれてしまうから それが新たな気づきや感動を呼び 200年も演奏され続けるのだと思う。

いつかN響のコンサートマスターの篠崎さんが、「天からのインスピレーションがなければ100年も演奏される音楽はできない」 というような主旨のことを語っておられるのをネットの動画サイトで見たけれど 本当にその通りだなと思う。

京都市交響楽団の指揮は大友直人さん。

大友さんが京都市交響楽団の音楽監督をされていた時は ちょっと地味で物足りないかもと思ったこともあったけれど 昨年末に聴いた第九は本当によかった。

もう 演奏会からかなり経過してしまったけれど 端正な演奏という印象を持った。

指揮の動きは大きくはないけれど 小さい動きの中から発する気が オーケストラによく伝わっているなと思う場面が何回かあった。

何楽章かというのは忘れてしまったけれど 通常、音をつなげぎみに演奏するところで 音を 切るというよりは あえて つなげずに演奏するような場面も何度かあったけれど そんな時は コンサートマスターの方が うまくイニシアチブをとっておられるなと思った。

オーケストラを見渡しながら演奏を聴いていると ベートーヴェンは本当にオーケストラのすべての楽器のすみずみにまで意識を働かせてこの曲を書いたんだなという気持ちが心に湧き上がってきた。

ここ10年くらいの間に聴いた第九の中で 昨年末の京都市交響楽団の演奏は僕にとっては最高だったかもと思った。

京都コンサートホールに行くとき 地下鉄の烏丸線 北山に電車が近づいた時「京都コンサートホールは北山が最寄り駅です」というような車内アナウンスがあった。

あれ? 聞き覚えのある声だぞと思った。

誰の声だろう と思って 考えを巡らせたら あの ちょっとハイトーンのだみ声は 広上淳一さん?と思った。

まあ あの先生なら たのまれたらやりそうなことだし、、、。

もちろん 京都市交響楽団や京都地下鉄に電話して あの声は誰かと取材したわけではないので 広上淳一さんかどうかは わからないけれど。

でも 広上さんに似た声だなと思った。

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12月28日に自宅近くの山寺にお札を納めそして 受けに行く。

本堂の前でお線香をたいていたので その煙を 思い切り頭に刷り込んでいたら 男の人が 戻ってきて 僕と同じように 身体に線香の煙をなすりつけ始められた。

すると その人の子供が来て「お父ちゃん僕には はよ行け 言ったくせに 自分はまた戻ってきてやってるやないか」と言った。

まあ ありがちな話だけれど こういうお父さん 僕は好きだなと思う。

正月は二日連続で 地震やら衝突やら悲しいことがあったけれど 

それでも いちにち いちにち 無事でありますように それを第一に願っていきたい。