1月20日金曜日 京都コンサートホールに京都市交響楽団第685回定期演奏会を聴きに行った。
指揮は沖澤のどかさん
最初に演奏されたのは
オネゲル交響曲第5番
指揮者の棒がふわっと上がるタイミングで冒頭のコラールが始まるように僕には見えたことが印象的だった。
指揮の棒がふわっと上がる アップビートってあのことか? などと演奏の中身とはちがうこともあれこれと考えてしまった。
それは、さておき、この冒頭のコラールはかなり重厚で悲壮感があるのだけれど、やがてティミヌエンド、つまり音がだんだん弱くなっていく。
そのディミヌエンドの作り方がとても滑らかで美しく聴こえた。
決してなめらかな曲調ではない音楽の場面で滑らかなディミヌエンドをつくるということがとても印象に残った。
指揮者がすごいなとも思ったけれど 指揮者とともにこういう音を作れる京都市交響楽団もやっぱりかなりうまいんだなと思った。
世界的に誰もが名前を知っているようなオーケストラを聞いた時に 強い音よりも弱い音を勢いを失わずに出していることに感心することがたまにある。
最近 海外のオーケストラをほとんど聴いていないので 音が弱くなるところで美しいと思えたことはちょっと記憶に残りそうな気がする。
あと 曲全体を通じて 木管楽器がけっこうけたたましく聴こえるところがあったので そういうところでは やはり ショスタコーヴィチを心のどこかで連想しながら演奏を聴いていた。
プログラムの楽曲解説によると作曲年代もショスタコーヴィチの全盛期だし 作曲者のオネゲルも健康状態が良くなかったということで やはり そういう ショスタコーヴィチのような不安な要素が曲に現れるのかもと思った。
次に演奏されたのは
タイフェール ハープと管弦楽のための小協奏曲
演奏中 なぜか ラヴェルの音楽を常に連想しているような状態だった。
どの曲か思い出せないけれど ラヴェルの管弦楽曲と同じモチーフを使っているのではないかと感じる場面が何度かあった。
どの曲のモチーフかわかれば「やったぜ」という気分になれそうだけれど それが思い出せないのがちょっともどかしい気がする。
でも どの時代でもそうだけれど 同時代の作曲家って互いに影響を与え合っているんだなと思った。
ハープの独奏は吉野直子さんだった。
僕が聴いたいろんなオーケストラの演奏会でハープの独奏という場面では 多くの場合、吉野直子さんがそこにいたな とそんなことを思いながら直子さんの演奏を聴いていた。
同じ道で ずっと一線で出続けること やはり すごいなと思う。
20分の休憩をはさんで次に演奏されたのは
イベールの寄港地
この曲にはローマ チュニス バレンシア という三つの地名が出てきて 「これがローマか」などど考えているうちに演奏が終わったので コンサートから日数が経過した今ではあまり演奏のことは覚えていない。
指揮者の沖澤のどかさんがプレトークでこの時代のイベールのように自分が立ち寄った港といういわば作曲家のパーソナルな体験を音楽にすることを ベートーヴェンやモーツァルトの普遍性との対比で語っておられて 面白い視点だなと思ってその話を聞いていたことの方がむしろ記憶に残っている。
そして最後に演奏されたのがラヴェルのボレロ
これは 小太鼓が終始 ボレロのリズムを刻んでいて それは、最初小さい音で すこしずつ 少しずつ 音が大きくなっていく(たぶん)。
僕は 最近 オーケストラの音が どこから出ているか 目で追ってしまう習慣がある。
小太鼓はずっとなっているのに どこで小太鼓がなっているのかわからない。
あれ 「小太鼓どこや?」と思いながら演奏を聴いていた。
演奏が終わりに近づいて 小太鼓の奏者の方の動作が大きくなってやっと ああ 小太鼓あそこかと気づいた。
僕のところからは 小太鼓が 譜面台に隠れる位置にあって 小太鼓奏者の方の 上半身しか見えなかった。
でも その 上体は 演奏中 ほとんど ぶれることがなかったので 譜面台に隠れた小太鼓をたたいておられることがわからなかった。(僕が視力を矯正しても少し近眼というのもあるかもしれないけれど、、、)
でも あれだけ上体がぶれないで10分余りも演奏を続けられるということは よほど 体幹がしっかりしておられるのだろうな と演奏の音そのものとは ちょっと違うところで感心してしまった。
もちろん 音もよかったけれど、、、。
いい演奏会だった。
それはともかく いちにち いちにち 無事でありますように それを第一に願っていきたい。