3月28日 名フィルの名曲シリーズを聴きに行く。
最初は行くつもりはなかった。
けれど 数日前にN響コンサートマスターの篠崎史紀さんがベートーヴェンの例に触れながら、「人間の想像しうるものならばヒットはするけれど100年も200年もは残らない、残るようなものならば そこには目に見えないものとの交信があるはずだ」というようなことを語っておられる動画を見て 「それは そうだよな」 と思ったことがきっかけで 急に思いついてこのコンサートに行くことにした。
プログラムが ベートーヴェンの交響曲第一番と 第三番だったからだ。
指揮は小泉和裕さん。
僕の個人的な 印象なのだけれど 小泉和裕さんと 秋山和慶さんの二人は なんとなく
もう聴く前から安心 という気がする。
特別なことが起きるかどうかは聴いてみないとわからないけれど すくなくとも はずれるという心配はない という安心感がなぜか 聴く前からある。
あくまで 個人の感想ですけど、、、。
金山と言う駅で降りる。
金山は大阪で言うと 京橋のイメージに近いかな と考えたりして。
駅チカのコンサートホールなのだけれど 駅の逆の出口から出てしまい ぐるっと駅の回りを一周してたどり着いたので 徒歩5分程度とあるサイトに書いてあったのに 15分くらいかかってしまった。
時間に余裕を見ておいてよかった。
ホールは 4階席まである天井の高いもので 客席の勾配もけっこう急で 昔の 大阪フェスティバルホールなどを思い出してしまう。
最初に演奏されたのは ベートーヴェンの交響曲第一番。
上の方の席の正面からオーケストラを見ていると 曲の開始は 木管楽器が 主導的に音を出して 弦楽器は ピチカートでそれに合の手を入れる という形になっている。
よく 交響曲第一番は まだ ハイドンなどの影響が 色濃いと言われるけれど こんなに 管楽器が堂々と鳴って始まる交響曲って ベートーヴェンの前の時代には 僕が知る限り やっぱり ないぞ と思ってしまう。
しかも 最初の方の木管の和音は まずキーンとなって それからふわっと来る という連続で とても印象深いものになっている。
やっぱり 曲が始まると同時に ベートーヴェンは 世界が違うなと思ってしまう。
篠崎さんのおっしゃった目に見えないものとの交信 というようなことが 心にある状態で聴くと、旧約聖書創世記の天地創造の場面で「神は光あれと言われた。すると光があった 神はその光を見てよしとされた」と書いてあるように ベートーヴェンも 一つ一つの音を 心の中でよしとしながら 作曲と言うか創作をしていっているように思えてくる。
やっぱり すごいなと思う。
第九交響曲に出てくる 歓喜の歌の旋律は ドレミファソラシドの音階を隣同士行ったり来たりするものだけれど 交響曲第一番でも 全体を通してそういう 音の進み方が 随所にきこえてくるような気がして それも 僕にとっては 印象深いことだった。
あと これも 単なる 僕の主観にすぎないけれど 木管の響きの中心がオーボエにある とういうことを ベートーヴェンは かなり 周到に意識しているのではないだろうか という気がした。
演奏も本当に 僕にとっては オーソドックスに聴こえるもので とてもよかった。
20分の休憩をはさんで次に演奏されたのは 同じくベートーヴェンの交響曲第三番
ステージを見ると 金管は ホルンが3人と トランペットが2人(たぶん)いるだけだ。
あの 長大で 広大で壮大なシンフォニーの金管がたったのこれだけなのか と演奏を聴く前から すでに いまさらのように 感心してしまう。
この曲の演奏も 僕には オーソドックスに思えるもので とてもよかった。
第三楽章の中間で出てくる ホルンの響きは 柔らかい感じでよかったなと思う。
第四楽章の 中間で オーボエがゆっくりと しみじみと この楽章の主要な旋律を奏でて それから 音楽が 壮大に盛り上がっていくのだけれど そこを 聴いて 「こういう世界が きっと ワーグナーなどにつながっていくのだろうな」と心の中で想像していた。
あと 下から 上に 上がってくる ホールの音の感じが 天井の高い 急こう配のホール独特だなと思ったことが何度かあった。
そういう音って 結構好きなので それも 僕にとってはありがたいことだった。
いいコンサートでよかった。