今日の新聞に○○ガスの社長が変わるという記事が出ている。
その記事にこのような記述がある。
“”
(○○ガスは)電力小売が全面自由化された2016年以降、関西電力などから約145万件の顧客を獲得し、首都圏にも進出した。(中略)
関西の電力、ガス小売市場は競合他社への切り替え率が全国で最も高く、競争環境が厳しい。
新社長は「勝ち抜くには新しい価値を提供することにつきる」として、、、以下略“”
ということでどうやら○○ガスは電力自由化でかなり関西電力などから顧客を奪っているらしい。
道理で、○○ガスからよく電力をうちで買いませんかというような内容の郵便物が送ってくるはずだと思った。
郵便物を顧客に送る。
そしてその何日後かに○○ガスから電話がかかってくる
「先日お送りした郵便物お読みいただけましたでしょうか」と○○ガスの担当者。
「いいえ、読んでいません」と僕。
「大体でいいんですが、お宅様の毎月の電気代はどのくらいか教えていただけますでしょうか。大体でいいです」と○○ガスの担当者。
「そのお答えは拒否いたします」と僕。
○○ガスの担当者は電話の向こうでムッとした感じになって、失礼しましたと言って電話を切る。
そんなもの回答を拒否するのはぼくにとっては当たり前。
大体、電気代がいくらか答えようものなら
「大体そのくらいの電気代でしたら、○○ガスに電気を切り替えると月々このくらい電気代がお得になります」という話の展開になって、まとめてお得の論理で○○ガスの担当者に理屈でまるめこまれてしまって、なんとなく○○ガスから電気を買わなければならないはめになってしまう展開は、予想できることだ。
僕、ガスや電気などエネルギー関係は生活の根幹だし、一つ間違えば大きな事故にもつながりやすい分野。
そういうものはやはりガスなら○○ガス、電気なら関西電力というように長年それ専門、もしくはそれ中心でやってきた会社にお任せするのが一番安心、という考え方。
ただ、安くなるというだけで切り替えたくないという考え方だ。
はっきり言って、電気をうちで買ってくださいという郵便物を送ってきたり、電話をかけてこられるのは迷惑という考え方だ。
電話は、拒否したのにも関わらず3回くらいかかってきている。
そういう関係の法律にぼく詳しくないけれど、拒否したところに繰り返し電話をかけることはまずいことではないのだろうか。
また、○○ガスの下請けの業者にガス警報器を取り替えてもらったとき、作業が終わったあとで、作業員の方が「ところで電気の話なんですが」と言ってこられた。
ガス警報機の取り替えに来て電気の話なんておかしい。
まともに話を聞いていたら、また、電気も○○ガスでまとめてお得の話になる可能性は高いと見た。
「電気の話は、なしにしてください。聞くつもりありません」と僕は言った。
ああ、すみません、と大阪ガスの下請けの会社の工事の作業員の方は言った。
そういう営業の話さえなければ、「工事していただいてありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。またお願いします」ということでお互い気持ちよく別れることができるのに、、、。
もう、こんな状況になってくると、ガスの工事に来てもらうのもイヤという感じになってしまう。
○○ガスの下請けの工事会社にまで営業の司令が下っている可能性は高いように思う。
ある携帯ショップのお兄さんが、関西は業者に家に来られることを嫌う傾向が高いですからね。
と言っていたけれど、それはそうなるだろうと僕も思った。
その○○ガスの下請け会社も以前はそんな工事に来て余計な営業の話をしてこられることはなかった。
それに、ガス警報器の工事に来ると言っておいて、電気の営業をするのは、厳密に言えば訪問販売法に抵触する可能性もないわけではないと僕は思う。
まあ、その点は法律の専門家に相談しなければわからないけれど。
逆に、関西電力の方はそんなに郵便物を送ってきたり、ガスもうちで買いませんかという電話をかけてくることもない。
いっそのこと逆にガスも関西電力でまとめてしまおうかと思うことさえある。
カレーショップでカレーを食べても、バイトのおばちゃんがカードの営業をしてくる。
スーパーマーケットで買い物をしても、カードの営業。
営業、営業、営業でもうそれをかわすのに気を使ってしまって、レジのお姉さんとまともに話をする機会もないような感じになってしまっている。
自由化でものが安くなると言うけれど、これだけ営業、営業、競争、競争の世の中で本当に私達は今までよりも幸せな毎日を送れるのだろうかと思ってしまう。
ものが安くなれば、自分が勤めている会社の商品も安くしなければ売れなくなり、結局、自分がもらえる給料も安くなってしまう、つまり、ものが安くなっても生活は楽にならない、という経済の論理もあるそうだ。
まあ、何を思ってもなるようにしかならないのだろうけれど、、、。
なんとか毎日、無事に生き延びていけるようにとねがっている。