ケンのブログ

日々の雑感や日記

いろいろな対応

2023年04月30日 | 日記
関西と言う まあいえば都会から 田舎に引っ越してきて 川や山や緑が毎日のように見られるのはいいなと思う。

けれど 都会にいたころには 想像もつかないような対応に遭遇することも多くなった。

たとえば 大型商業施設でのこんなやりとり。

おばさん 「この品物二ついただいていきます」
店員さん 「この品物は ひとつしかありません」
おばさん 「いま まだ午前中ですが それでは午後から来られたお客さんには “”今日はもう売り切れました“” と言うんですか?」
店員さん 「いいえ 一人につきひとつしかないということです」と。


同じく大型商業施設でのこんなやりとり。

マイバッグを忘れた僕は袋詰めの台のところまで行ってそれに気づいた。

それでもう一度 列の最後方にならんで 僕の順番が来たとき 
「レジ袋一つください」と言った。

すると 店員さんは 「レジ袋は 買い物をした人のために一つ3円で売っているんですよ。お客さん 買い物したんですか?」と言った。

僕は「はい しました」と言った。

すると店員さんは めんどくさそうな顔で レジ袋を3円で売ってくれた。

これも 都会にいたころの感覚だと ちょっとアンビリーバブルだなと思う。

ある飲食店ではこんなことがあった。

ランチセットと かやくご飯をたのんだ僕は さらに 追加で二品注文した。

すると 店員さんは 「お客さん そんなに頼んで 食べきれるんですか。今 食べているのを食べ終わってから ひとつひとつ 追加で注文してったら どうですか?」と言った。
そこの店に来るのは 二回目で メニューをかなり詳細に読んで 実際に食べてみて メニューにこの書き方がしてあれば このくらいの量 と自分なりに把握したうえで頼んでいるのに これも ちょっと 都会でと極めてレアなケースだなと思う。

ただ、こうして 並べて書くと ひとつの線でつながることがある。

レジ袋は 買い物をした人だけに売る 商品は一人の人が 複数は買わないようにする 料理の注文は 余りがでるほども 取らない という 共通項があるということだ。

その 共通項の持つ意味は 言うまでもなく 資源に無駄が出ないようにしようということ。

資源を無駄にしない という上から出されるマニュアルだけが 頭に こびりついてしまって 個々のお客さんの状況を考えることができなくなってしまっているように感じる。

田舎で 過疎で 大型商業施設も 閑古鳥が鳴いているところもある。

そして ちょっと 信じがたい やりとりは いずれも ここのお店 こんなに 閑古鳥が鳴いていたら まずいんじゃないか と言うところで 起きている。

経営がひっ迫しているから 無駄を出すなと上の人は 下の者に号令をかける。

下の者は それを 間に受けるあまりに お客さんに とんちんかんな 対応をしてしまう。

そんな 構図がそれとなく見えてくる。

本当に 田舎は 田舎で 世の中が 閉塞しているな と思う。

なんとか 良い方に向かっていくといいのだけれど、、、。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますよに それを第一に願っていきたい。



京都市交響楽団の定期演奏会を聴きに行く

2023年04月21日 | 音楽
4月15日は 京都市交響楽団の定期演奏会を聴きに行った。

愛知県に引っ越してから 初めて京都に行った。

懐かしいなと思う。

そして 阪急の 烏丸と河原町の記憶がいつの間にかごっちゃになっていることに気づく。

ここを上がったらドラッグストアがあるはずだと思って登った階段の先の地上にドラッグストアがない。

そこは 銀行だった。

それで 烏丸を河原町と取り違えていることに気づいた。

まあ 関西にいる頃は 河原町と烏丸は余裕で歩いて往復していたので 記憶が ごっちゃになりやすいというのもあるけれど でも 時の経過を感じて少しショックだった。

この日の指揮者は 今 話題の女性指揮者 沖澤のどか さんだった。

会場につくと 入場ゲートの近くで 男性の オー という声がした。

こんなところで 喧嘩が始まるのかと一瞬身構えたら コアなファンの方同士の「やっぱり今日のコンサートは来るよなあ また コンサート会場で会ったなあ」という感じの手荒い挨拶の交換だった。

僕は そんなに すぐ 人と仲良くなるタイプではないので コンサートホールであって挨拶する友達と言うのがいない。

そういうのも ひとそれぞれだなと思う。

沖澤のどかさんは 演奏に先立って プレトークをされた。

その中で 「一歳になる自分の娘が 京都の公園で ある欲求を満たそうという気持ちが強く働いた時に 初めて 歩いた。 なかなか 歩かないと思っていたのに 歩いた」という主旨の話をされた。

ある欲求と言うのは 例えば 公園の乗り物に乗りたいとか そういうたぐいの欲求だったと思うけれど 具体的なことは忘れてしまった。

でも その話を聞いて チャップリンのライムライトと言う映画の中で 精神的ショックで足がマヒしてしまったバレエダンサー テリーがもう歳だからと落ち込むチャップリン演ずるカルヴェロを励まそうとして 身体に力を込めた瞬間に 足のマヒのことを忘れて 立ち上がって歩いていた というシーンを思い出した。

欲求を満たそうとするとき 何かが 動く というのは ひとつの教訓であるような気がする。

で あるならば なるべく よい欲求を持つように心がけたいものだなと思った。

演奏された曲目は

メンデルスゾーンの「ルイ ブラス」序曲 そして 交響曲第4番「イタリア」ブラームスの交響曲第3番

メンデルスゾーンの4番と ブラームスの3番を選曲された理由として 沖澤さんは 曲の持つ明るさ 特に 冒頭の明るさというようなことを語っておられたと思う。

曲のもつ明るさが 新しい門出にはよいと思ったというようなことを語っておられたように記憶している。

※コンサートの当日から 日数がかなり経過したので記憶が少しあいまいだけれど。

メンデルスゾーンの交響曲第4番が始まった時 確かに 明るいけれど 僕が 初めてこの曲を中学生の時にユージン オーマンディのレコードで聴いた時に感じた はじけるようなイメージとはまたちょっと違うなと思った。

はじけていて クリアーなのだけれど どこか マイルド そんな気がした。

ステージを見ていて 金管は トランペットとホルンしかいないことに気づく。

意外とシンプルな編成なんだなと思った。
メンデルスゾーンを聴いた後 ブラームスの交響曲第3番を聴いた時には ブラームスは木管をはじめとした管楽器の響きが しみじみとした趣で 深いなと思った。

沖澤さんの指揮は 全体を通して 曲と言うか おのおのの楽章が終わるときに 音を止めるというよりは 音を スッと抜く と言う感じの動作をされることが印象的だった。

これまで 音楽の終わりは 音が 止む(やむ)という認識が 僕にとっては強かった。

なので 音楽の終わりで 音が 曲から抜ける という感覚を味わったというのは ひとつ勉強になったような気がする。

それは 僕が今までに 意識したことのない 感覚だけれど 曲の終わりは 音が抜ける という 感覚も また それなりに いいものだなと思った。

あと ブラームスに関して 曲は いろんなCDやレコード コンサートなどで何度も聴いていて このあたりで 管楽器の音量と言うか 音楽的クライマックスが来るだろう というのは あらかじめ 予測できるので そういうところで 身構えていると 爆発的な 音が来るというよりは ちょっと抑え気味の音が来ることも僕にとっては印象深いことだった。

ただ、音が来ないから物足りない というわけではなかった。

力で 音楽を盛り上げるというよりも しなやかさを 大切にしておられるような 印象を持った。

また これからも 機会があれば 沖澤さんの指揮する演奏を聴きたいと思う。











名フィルの定期演奏会を聴きに行く。

2023年04月19日 | 音楽
4月8日 愛知県芸術劇場に名フィルの定期演奏会を聴きに行く。

指揮は川瀬賢太郎さん。名フィルの音楽監督として初の定期演奏会。

最初にハイドンの交響曲第86番が演奏された。

第一楽章 ゆっくり始まって 途中から 快速になる。

ハイドンの交響曲によくあるパターン。

でも 緩から急というのは本当に音楽が楽しく聴こえるパターンだなと思う。

第三楽章のメヌエット もう終わりかと思ったら そこから トリオだった。

終わるかと思うと終わらない ということが 全曲を通じて何度かあった。

こういうのも 音楽のひとつのジョークなのだと思う。

宮廷で音楽を聴く人たちは きっと 「終わったと思ったら まだ 続くのか」とか言って楽しんでいたのではないかと想像する。

ハイドンの時代の音楽は まだ コンサートホールで聴く音楽ではなく 宮廷の音楽なのだなと生の演奏を聴くと実感する。

最初のチューニングの時に コンサートマスターが ツーっという感じの直線的で細い音を出していたけれど 演奏も そういうピリオド奏法的な音が全体を通じて出ているように聴こえた。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのがマーラーの交響曲第5番

第一楽章冒頭のトランペットのファンファーレが凛としていて 耳にスーッと入ってきた。

こういうトランペットが活躍する曲を演奏する3時間くらい前のトランペット奏者の気持ちはどんなものなのだろう とか 演奏とは 直接関係ないことを考えたりもしていた。

あと 弦楽器の演奏者の手が ハイドンに比べると 顕著にぶるぶる震えていて ビブラートをかけていることが素人なりに目視できたことも 僕にとっては印象深いことだった。


第三楽章 この楽章の冒頭で出てくるホルンのメロディは大好き。

コンサートでも柔らかい音できれいになっていたと思った。

楽章の途中でかなり長い弦のピチカートが出てくるのだけれど そこを聴いて きっとマーラーは単に弦のピチカートを入れる という意図で このピチカートを入れているのではなく 何らかの 民族楽器をイメージしながら このピチカートを入れているのではないだろうか そんな気がした。

そして 『出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている』というマーラーの出自に関してウィキペディアに書いてある記述を心の中で思い浮かべていた。

この楽章を聴いていて 民族的なものへの思い入れが感じられる部分 管楽器が自然の鳥の声のように聴こえて 自然を思わせる部分 やはり 民族の楽しい踊りを想起させる部分 ほんとうにいろんな要素から成り立っている楽章だなという思いを新たにした。

マーラーが三重の意味で故郷のない人間 つまり 自分を異邦人と感じているからこそ 作ることができた音楽 そんな 気がした。

四楽章 五楽章もよかったけれど コンサートの日から この記事を書くまでに かなり日数が経過してしまったので 記憶が薄れてしまった。

木管が 金管のように 管を上に向けて演奏していたり ホルンも 曲想によって ラッパの向く方向を変えたり そんな風にしている様子をぼんやり見ていたことだけは 覚えている。

いい演奏会だったと思う。





前進そしてバック

2023年04月14日 | 日記
ゴミ出しが間に合わなかったので 街の ゴミ収集所にもっていった。

受付で 所定の用紙に記入すると 「あちらの1番の番号が書いてあるおじさんのところまで自動車を進めてください」と係の女性が言った。

それで1番の方に向かって車を進めていくと 1番のところに立っているおじさんは 僕に向かって「オーライ オーライ」と二三回言った それで 僕は 1番の方に向かってその声にしたがって 自動車を進めて行った。

おじさんは 途中から オーライとは言わなくなったけれど ストップ とも言わないので まだ オーライが継続しているのだろうと 自動車を超低速で進めていくと1番から2番 そして 5番まで進んでしまった 「ええ?1番と聞いたはずなのに 自動車が極めてゆっくりと5番まで来てしまった。行き過ぎではないのか?」と僕が心配になり始めたまさにそのとき おじさんは「バック バック」と言い始めた。

自動車が1番まで バックすると おじさんは 「ストップ」と言った。

「それなら 最初に1番を通過した時にストップと言ってくれよ」 と 僕は思ったけれど おじさんも 僕が受付で1番と言われているのを聴いていたので 最初にオーライ とはいったものの 僕が1番で自発的に 止まると思っていたのだと思う。

あるいは 僕は 危ない場面では 今にも止まりそうなほど超低速で自動車を運転するので おじさんも これほど低速ならば1番で当然止まるだろうと思って ストップと言わなかったのだと思う。


さすがに 5番まで行ったときに 僕が運転する自動車は 止まりそうなほど低速だけれど止まらない ということに気づいて 「バック バック」とおじさんは言い始めたのだと思う。

僕も どんくさいけれど おじさんも どんくさいと思う。

大阪の人は 言葉を発するときは 勢いがあって ちゃんと 「はい ストップ」と言ってくれる人がほとんどなので こういうことがあると 本当に ここは 田舎だなと思ってしまう。

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名鉄の改札口を出たすぐのはしらに いろんな国の建物を移築した テーマパークのポスターが貼ってあった。

それには 「いろんな国がアリッス」と書いてあって その下に 不思議の国のアリスの パロディのような絵が描いてあった。

大阪で 不思議の国のアリスをもじって 「いろんな国がアリッス」なんて ボケをかまししていたら みんな 突っ込む気も起らなくなって どう反応したらいいのか わからなくなってしまうような気がする。

新幹線で1時間もかからない距離でも 徳川御三家の街と 商人の街では 本当に 言葉をはじめ 習慣が かなり 違うなと思ってしまう。

ところが変われば いろいろ 人の気持ちも変わるものなのだなと思う。

それはともかく 一日 一日 無事に過ごせますように。



奥深い言葉

2023年04月06日 | 日記
桜の季節 歩いて花を見に行ったのは3月の末頃でもう満開を過ぎて 花吹雪の状態になっていた。

桜とカエデが一緒に植えてある場所を通って 毎年のことながら 桜の花がさくのと カエデの新しい葉が 出るのは同じころだなと思った。

細い川沿いの 桜を見ていると 近くの高校生の女の子の二人ずれが 互いにスマホで何か撮影をしていた。

動画を撮っているのか 静止画をとっているのかわからないけれど。

でも 桜と 川と 若い女性がそろうとなんとなく ハイカラさんの世界だな いいものだなと思ってしまう。

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坂本龍一さんが亡くなったニュースは 僕には この一週間でもっとも印象深いニュースだった。

20年ほど前の冬に 京都の河原町近辺の イタリアンのお店に行ったとき そこで 坂本龍一さんの「戦場のメリークリスマス」が流れていた。

なんども 同じ旋律を繰り返すし BGMはたぶん 繰り返し再生モードになっていて 聴いている間に旋律が 記憶にとどまってしまった。

なんとなく 独特の やり場のないような 寂しさのある音楽だなと思った。

そこから 一般に報じられる 世界のサカモトとか 女性にもてたとか そういう 華やかなイメージとは違って 本人は 以外に寂しかったのかもしれないと 思ったりする。

ネットで見ていると 何人かの女性と 結婚 もしくは 事実婚の関係にあったと書いてある。

そんな 記事を見て ぼんやりと それは ある意味 罪なことだなあと思った。

罪と言うのは 本当にいろいろな 意味があるけれど 僕が言うのは 禍のもとになる要因といったような意味での罪と言うことだ。

こういう罪の用法で 僕がわすれられないものが ひとつある。

それは ある 飲食店に僕が一人で行ったとき 近くに 座った 女性二人の会話が 聴こえてきたときのことだった。

一人の女性が パスタとか パンとか 自分が 好きな 食べ物の話としていた時 相方の女性が 「あんたの 好きなもんって 炭水化物ばっかやん」と言った。

すると パスタの話をしていた方の女性は 「そうやねん 罪やわー」と言葉を返した。

その言葉を聞いて 罪という言葉には こういう 用法があったのかと 僕は驚いてしまった。

そして やはり これは 関西の 女性の会話だなと思った。

竹内まりやさんの 恋の嵐 という歌のフレーズの中に

“”友達でいたいけど 動き出した ハートは もうこのまま 止められない 罪の始まり“”

という一節があるけれど この 罪も 「炭水化物は罪やわー」と言うときの 罪と似たような用法だと思う。

こういう 用法における 罪と言うのは きっと 辞書的な定義をすれば 「禍の元」ということになるのだと思う。

結局 こういう罪の用法が 最も 日本語的な 罪の用法であるように思う。

そして 罪 という言葉を 口に出したり 意識したりするのは どちらかといえば 女性の方が多いのかなと思ったりもする。

罪と言うのもある意味 奥深い言葉だなと思う。

それは ともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを 第一に願っていきたい。