ケンのブログ

日々の雑感や日記

京響の第九を聴きに行く

2025年01月05日 | 音楽
今となっては昨年のことだけど12月17日に京都コンサートホールに京都市交響楽団のベートーヴェン第九演奏会を聴きに行った。

北山の駅を降りる。

地上に出ると僕の後方から夫婦と思しきの方の会話が聞こえてくる。

「チケットにLって書いてあるわ」
「Lって左のことやろう」
「そうか左ってどっちから見て左や。わからへんわ」
「そうやな、わからんわ」

普段、関西で暮らしているとごく日常、耳にする会話のパターンだけれど関西をはなれて尾張地方から京都に上っていくと京都と言うか、関西の会話やなあとしみじみ思う。

ほっこりした気持ちになることも事実。

人工知能の台頭の影響も大きいと思うのだけれど、人の口から言葉が出にくくなっているし、出たとしても妙にかまえた中途半端な言葉になってしまったり。

そんな中で 最後までしぶとく生き残るのは案外、関西弁かもしれないとふと思う。

さて、今年の京響第九演奏会の指揮はガエタノ・デスピノーサさん。

第一楽章か第二楽章かちょっと記憶があやふやになってしまったけれど楽章の最後の音が妙に小さかった。そんなところに少しピリオド奏法の影響を感じた。

全体的には僕の感覚だと、アクセントが妙に強いちょっと癖のある演奏に思えた。

指揮者の動きがちょっとオーバーアクションと僕には感じられる場面がいくつかあり、そんなこととアクセントの強い演奏と思ったことときっと関係があるように思う。

ピリオド奏法の影響があると思われたことと関係している気もする。

ちなみに第二楽章の副主題は木管にホルンが重なっていた。しかし、それはワーグナーのように音を雄大に響かせるためのホルンではなく木管に彩りを添えるそいうたぐいの重ね方だった。そんなところにも演奏が必ずしも雄大さを目指したものではないことが感じられた。

オーバーアクションとは関係ないかもしれないけれど デスピノーザさんが頭で頭づきをかますような動きでオーケストラに気を送ったと思える場面もありちょっとコミカルな印象をその時には持った。

デスピノーザさんのプロフィールにイタリア生まれと書いてあるのを見たときには、沖澤のどかさんが京響に就任してはじめての定期演奏会でメンデルスゾーンの交響曲「イタリア」が演奏されたことを思い出した。


僕の音楽におけるイタリアのイメージはあの交響曲イタリア 特に第一楽章の抜けるようにはじける感じ、そしてエレガントさ そういうものだ。

そういうイメージの演奏とは異なるものであったように思う。

木管のアンサンブルが精緻。それはこの日の演奏でとても印象に残ったことの一つだった。


開演前にあらかじめプレーヤの方を目にしていた先入観もあるかもしれないけれど、第二楽章の弦の掛け合いでビオラの音がよく耳に届いて新鮮な印象を持った。

これもプレーヤの方が途中から出てこられて、そこに注目したおかげで、第四楽章、テノール独唱が入る前に木管が歓喜の歌を行進曲風に変奏した旋律を奏でるのはピッコロだと今さらのように気づいた。ちなみにピッコロが出る前のファゴットの音色も心にぐっとくる味わい深いものだった。

自分は楽器の音色を聴き分けるのが困難とさとってから努めて楽器を見るようにしているけれどその成果がひとつ出たなと思った。

コーラスが歓喜の歌を高らかに歌い終えて、終盤のコーラスによるフーガに至る場面でオーケストラのみで緊張感のある旋律を刻む場面があるのだけれど、コンサートマスターの方のリードのもと聴きごたえのあるものだった。

それに続いて コーラスがフーガを歌う時にオーケストラは譜割りの細かい音を刻んでいくのだけれど、そこも本当に弦楽器の方全員が、前向きな気もちで演奏されているように僕には思えて心の充実感を味わった。

そしてこういう場面でのコンサートマスターの役割は大きいなあとステージを見ていて思った。

自分の反省点としてはこの日の演奏会は通常アルトが歌うパートにカウンターテナーが入っていたのだけれどオーケストラの方ばかり見ていて カウンターテナーの方を見るのを忘れていたのが少し残念に思えた。

総括的に思ったことは、第九と言うのはどの楽器も均等に活躍する。そしてそれはソロ的に活躍する場面ももちろんあるけれど、複合的にからみあって活躍するという要素も大きい。要するにソロ的な要素も複合的な要素も均等になっているということ。

つまり第九ほど均整のとれた交響曲は探してもきっとないだろうとおもえるほど均整がとれていると感じた。

木管の充実度はベートーヴェンの交響曲の中でも随一かもと思った。

こういうCDを何度となく聴いても気づかないことに生演奏は気づかせてくれるから、本当にコンサートと言うのはありがたいものだと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。















名古屋フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴きに行く(第592回)

2024年12月14日 | 音楽
12月7日愛知県芸術劇場コンサートホールに
名古屋フィルハーモニー交響楽団第529回定期演奏会を聴きに行く。

指揮はアントニ ヴィットさん
最初に
シューマン 序曲「ヘルマンとドロテア」が演奏された。

ラマルセイエーズのメロディが頻繁に形を変えて出てきた。ちょうど知り合いの人がフランスに行っているときだったので、フランスに思いを馳せながら祈るような気持ちで演奏を聴いていた。

次にバイオリン独奏 森岡聡さんで

シューマン バイオリン協奏曲 が演奏された。

録音、生演奏、含めてたぶん初めて聴いた曲だと思う。

バイオリンが独奏楽器としてオーケストラと対峙して際立っているというよりも、バイオリン独奏がオーケストラの演奏と融合しているという印象を僕は持った。

たぶん独奏の森岡聡さんが名古屋フィルのコンサートマスターと言うことでオーケストラと独奏者のなんというか心理的な距離が近いことが一因かもと思った。

何楽章とか言うのは忘れたけれどコンサートマスターとバイオリン独奏が掛け合いをする場面があってよく息があっているなと思った。

例えば一楽章でオーケストラ全体が一斉に鳴るようなところは特に何番と言うわけではないけれど シューマンの交響曲を連想しながら聴いていた。

楽想は交響曲を彷彿させる場面でも演奏は音量的にはかなり抑え気味であることも印象的だった。

オーケストラのメンバーの方が遠慮しておられるのだろうかとも思ったけれど、指揮者を見るとやはり大きな音を求めるような動きはされていなかったのできっと指揮者の意図によるものなのだろうと思った。

全体に抑え気味にまとまった演奏であるように僕には思えた。

チャイコフスキー 幻想曲「フランチェスカ ダ リミニ」

演奏の前半 悲劇的な楽想が頻繁に出てきたけれど、弦の高音域がその悲痛さに見合うような音が出ていないように思える場面がしばらくあった。
そんな時には、もう少し 弦の高音域が悲痛さを表現するようなある種の鋭さがあればなあと思いながら演奏を聴いていた。

ただ、演奏が進んで音楽が躍動的になって来るとそのような弦の高音域の音不足のような感覚はだんだん気にならなくなってきた。

結果的にはよく盛り上がって演奏が終わったように僕には思えた。

金管の高らかに鳴る感じ、木管の音が転がるような感じ そんなところでチャイコフスキーの交響曲第4番を心に思い浮かべながら聴いている時間もかなりあった。

チャイコフスキー 幻想序曲「ロメオとジュリエット」

最初は割と静かな曲調が演奏を支配していた。

前に演奏された幻想曲では最初、弦楽器の高音域がもう少し耳に届いてくればという思いで聴いていた場面もあったけれど この曲ではそういうこともなく その意味でリラックスして演奏を聴けた。

基本的に初めて聴く曲という認識で演奏を聴いていたけれど 後半になって金管と絡みながら弦の音が細かく動くようになると、ああ いつかどこかで聴いたことのある音楽と思った。

曲が盛り上がるところは演奏にとても満足することができた。

この日は4曲演奏されて4曲とも実質初めて聴く曲だった。

最近はそういう機会も減っているように思うけれど 知らない曲を聴くときはどうしても自分が過去に聴いた曲と結び付けて聴いてしまうことが僕の場合多い。

もともと連想癖が僕にはあるので、そういう連想をしながら演奏を聴くのもまた楽しみの一つだなと思う。

それにしても、若いころはオーケストラの奏者の方がおじさん おばさんに見えたけれど、最近は奏者のほとんどの方は僕より年下でなんとなくフレッシュに見えるなあと思うことがある。

それはともかく いちにち いちにち無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。




京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く(第695回)

2024年11月18日 | 音楽
11月16日

京都コンサートホールに京都市交響楽団ダイオ695回定期演奏会を聴きに行く。

指揮は鈴木雅明さん

最初に演奏されたのがモーツァルト 歌劇ドンジョヴァンニ序曲

こじんまりまとまった演奏であるように僕には思えた。

例えば、この曲で調がマイナーからメジャーに転じて急に明るい雰囲気になっていくときモーツァルトがかけた魔法のように音楽が暗から明に変化していくそのスリリングさが表現されていたかと言うとそうでもないように思えた。

堅実な演奏だけれどちょっと色気がない そんな風に僕には思えた。

次に演奏されたのがバイオリン独奏ジョシュアブラウンさんで
ベートーヴェンのバイオリンコンチェルトニ長調作品61

華美な表現を目指すのではなく音楽の内面を表現するような演奏に僕には思えた。

そういう意味で美しい演奏と思った。

ベートーヴェンは美しい素材を こんなにも熟慮の末に展開していくのかと改めて感動した。

この曲はCDで聴くときは 穏やかな曲調であることも手伝ってついムード音楽的な聴き方をしてしまうのでこうして演奏会で聴くことで改めて曲の美しさに気づくことができてよかった。

この曲が世にも美しい曲と呼べるほど美しいということに今日初めて気づいた気がする。

特に第一楽章と第二楽章は僕にはとても美しく感じられた。

第一楽章のカデンツァは ティンパニーの合いの手が入る場面があってそこは僕にはとても新鮮なものに感じられた。

管楽器 弦楽器とバイオリン独奏との掛け合いもとてもうまくいっているように僕には思えた。

ファゴットと言う楽器はサイズが大きい割に僕は音を聴きとるのが苦手なのだけれど、この曲はファゴットの音もとても聞き取りやすいように書かれているということも僕にとっては一つの発見だった。

ファゴットが美しい旋律を奏でる場面が多かったのもその理由の一つだと思う。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのが

ドボルザーク 交響曲第6番ニ長調作品60

凝縮された音で推進力もとてもある演奏のように僕には思えた。

ただ、第三楽章など速い楽章を聴いた時 これはスラブダンスだなと思ったのだけれど、スラブの人たちと一緒になって踊っているようなスリリングさがあったかと言うと、それはあまりなかったように感じられた。

それとはあまり関係ないことだけれど 第一楽章で木管の音を聴いた時、鳥のさえずりのようだと思った。

ベートーヴェンのバイオリンコンチェルトもとても木管の活躍する演奏だったけれどそこでは、無常に美しい旋律が弦から管へ管から弦へと移行していく連動性そして音楽全体の包括性の中で木管の美しさが際立っているという感じで、そのことがそれ以外の何かを連想させるということはなかった。

ドボルザークの場合、木管が鳥のさえずりの意識させたり、スラブ特有の哀愁、ロマン、を連想させたり そういう何かの想いにつながるということが多かった。

そしてその違いがもっと一般的にベートーヴェンとドボルザークの違いと言えるのかもしれないと思った。

ベートーヴェンを聴いた後ではドボルザークをどこかムード音楽のように思って聴いている時間も演奏中にはあった。

モーツァルトの時と同じように それなりに引き締まっていて推進力のある演奏だけれどちょっと色気とかスリリングさそういうものには欠けるように僕には思えた。

それはともかくいちにち、いちにち無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。


京都市交響楽団定期演奏会を聴ききに行く(第694回)

2024年10月22日 | 音楽
10月12日京都コンサートホールに京都市交響楽団第694回定期演奏会を聴きに行く。

指揮はデイヴィッド レイランドさん

ピアノ アンドリュー フォン オーエンさんで最初に演奏されたのが
モーツァルト ピアノ協奏曲第23番 K.488

演奏の前に管楽奏者の方々が練習かホールでの音の響き方を確認しているのかわからないけれど、ステージに出てきていろいろ音を出してくださった。

協奏曲23番は僕にとって録音を聴く頻度も高い曲なので、ああ、あのメロディはあの楽器なのかとかいろいろわかってよかった。

演奏を聴くためのいい予習になったと思う。

それで演奏はどうだったのかと言うと、完璧な演奏と思った。

人間って、物足りないところがあると、あそこはこう直した方がいいとか思うから、具体的にどのように物足りないかを言うことはそんなに困難なことではない。

しかし、完璧なものは要するに満足して聴いているわけだから この方がいいとか思わない。

なので 完璧ってどんな風に完璧だったのかと言われても 何しか 完璧だったということになってしまう。

ああ、よかった。

聴くのに力が入って ちょっと バテたけれど。

特に第三楽章は鳥肌モノだった。

指揮者とピアニストの意気もよくあっていた。

ピアノとオーケストラの意気もよくあっていた。

アレグロの楽章は快活だけれどふくよかさもあってよかった。

とにかくよかった。

しいて感想と言えば、快活なのだけれど、その快活さの中にどこか柔らかさがある点がいいなと思った。

それで 演奏とは直接関係ないことだけれど 例えば交響曲の様式を確立した人って古典音楽の時代ではハイドンとよく言われるし、まあ、そうだろうと思う。

モーツァルトは天才だけれどどんなジャンルの音楽の様式を確立したのか、そんなに言われないと思う。

でもモーツァルトの音楽の中でピアノ協奏曲は、様式美の極致だなと思う。

ピアノ協奏曲と言う分野の様式を完璧に確立したのはモーツァルトだと思う。

研究したわけではないから 直感で書いているけれど。

余計なことを書いてしまいました。

でもモーツァルトの音楽で完璧な演奏を聴くことができてよかったと思う。

彼の音楽は微妙に変化する要素が多い分、完璧だと思う演奏に遭遇することは、のっけから、あきらめてしまっていることが多い僕だったから。

コンサート後半は
ムソルグスキー作曲ラヴェル編
展覧会の絵が演奏された。

モーツァルトの演奏が良くてグーっと力が入って後半のムソルグスキー ラベル編曲の展覧会の絵の演奏時には もう僕はバテテしまっていて、ボーっとした感じで演奏を聴いていた。

でも ボーっとして聴いていてもやはり 演奏はここが物足りないとか全く思わない。

いい感じと思うことばかり。

それで演奏の途中から オーケストラのプレイヤーよりも指揮者デイヴィッド レイランドさんのの方に目が行くようになった。

指揮者を見ていると 音楽の曲想に応じて 細やかに的確に指示の出し方を変化させ、驚くほどの集中力をもってオーケストラにとても誠実に気を送っておられるように見える。

これは 指揮の仕方とやわらかそうな人柄の両方でオーケストラのメンバーを魅了するタイプの方だなと思った。

それも演奏がよく聴こえることに大きく寄与しているなと思った。

いやあ本当によかった。

それはともかく いちにち いちにち無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。





名古屋フィル定期演奏会を聴きに行く(第527回)

2024年10月17日 | 音楽
10月11日愛知県芸術劇場に名古屋フィル第527回定期演奏会を聴きに行った。

指揮は川瀬賢太郎さん。

最初にベートーヴェン シュルホフ編
「失われた小銭への怒り」作品129が演奏された。

ニューイヤーコンサートの雰囲気と思った。

そういうウィーン的な要素のつよい音楽であるように僕には思えた。

もうちょっと具体的に言うと演奏が始まった時、ニューイヤーコンサートでよく演奏されるトリッチ トラッチポルカをなんとなく連想した。

時折、弦楽器のアンサンブルがもう少しクリアなものであればと思った瞬間も少しあった。

次にグルダ
チェロ協奏曲が演奏された。

チェロ独奏佐藤晴真さん
チェロのそばにスピーカーがおいてあったので 音の出どころは楽器かチェロかスピーカかととても気になってしまった。

たぶん両方なのだと思うけれど。

どうも最近音の出どころが気になってしまう癖がついてしまったかもしれないと思った。

メヌエットの楽章一つとっても古典音楽のメヌエットを思わせる場面もあれば、ビゼーやラヴェルのようにスペインとフランス両方の要素を感じさせる場面もあって、多彩な音楽だと思った。

最後の行進曲風の楽章は心の中でプログラムの楽曲解説には軍楽隊のマーチではなくお祭りを盛り上げる街頭パレードのような音楽と書いてあった。

ただ、僕自身はこれを聴いて心の根底でどこかスーザーのマーチを連想しながら聴いている時間が結構あった。

多彩な音楽だから何を連想させるかは人にもよるし、音楽のどの場面であるかにもよるのだと思う。

休憩をはさんでベートーヴェンの交響曲第5番が演奏された。

僕はこの曲の録音はハイティンクさんのものを聴くことが多い。

その演奏に比べてフレージングが驚くほど短い、音が急に小さくなる。そういう場面では 古楽器奏法の要素があるかと思った。

ただ、演奏全体が古楽器奏法的だったというより随所に古楽器奏法的な感じが出ていたという印象を受けた。

オーボエが管楽器のかなめと言うことをベートーヴェンはきっとかなり強く意識してたんだろうなと思った。

どの楽器も活躍するけれど 楽器がソロとして
個別に目立つということはあまりなく すべての楽器が活躍しながら全体の調和の中で機能しているという印象を持った。

そういうことを意識できたのは生演奏ならではの体験だったと思う。

第四楽章のコーダのところではピッコロが転がっていく。

交響曲第9番のコーダでピッコロが活躍するのは録音を聴くだけでわかっていたけれど、恥ずかしながら5番のコーダでもピッコロが活躍するのはこの演奏会で初めて知った。

家に帰ってきてからYouTubeに出ている交響曲第5番の動画を確認すると第四楽章最後の盛り上がりのところで管楽器のファンファーレに重ねるようにピッコロがドレミファソの音階を何度も繰り返す。

こういう音楽のかなめの部分で基本的な音階を執拗に使うのがいかにもベートーヴェンらしいし、またそれが実際に金管のファンファーレを盛り上げるのに驚くほどの効果をもっているのだから改めてすごいなと思ってしまう。

やはり録音で何回も聴いた曲でも生演奏を聴くことで初めて気づくことは多いなと感じる。


定期演奏会でベートーヴェンの5番を聴く機会って意外と少ないのでよかった。

それはともかく一日いちにち無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。