今となっては昨年のことだけど12月17日に京都コンサートホールに京都市交響楽団のベートーヴェン第九演奏会を聴きに行った。
北山の駅を降りる。
地上に出ると僕の後方から夫婦と思しきの方の会話が聞こえてくる。
「チケットにLって書いてあるわ」
「Lって左のことやろう」
「そうか左ってどっちから見て左や。わからへんわ」
「そうやな、わからんわ」
普段、関西で暮らしているとごく日常、耳にする会話のパターンだけれど関西をはなれて尾張地方から京都に上っていくと京都と言うか、関西の会話やなあとしみじみ思う。
ほっこりした気持ちになることも事実。
人工知能の台頭の影響も大きいと思うのだけれど、人の口から言葉が出にくくなっているし、出たとしても妙にかまえた中途半端な言葉になってしまったり。
そんな中で 最後までしぶとく生き残るのは案外、関西弁かもしれないとふと思う。
さて、今年の京響第九演奏会の指揮はガエタノ・デスピノーサさん。
第一楽章か第二楽章かちょっと記憶があやふやになってしまったけれど楽章の最後の音が妙に小さかった。そんなところに少しピリオド奏法の影響を感じた。
全体的には僕の感覚だと、アクセントが妙に強いちょっと癖のある演奏に思えた。
指揮者の動きがちょっとオーバーアクションと僕には感じられる場面がいくつかあり、そんなこととアクセントの強い演奏と思ったことときっと関係があるように思う。
ピリオド奏法の影響があると思われたことと関係している気もする。
ちなみに第二楽章の副主題は木管にホルンが重なっていた。しかし、それはワーグナーのように音を雄大に響かせるためのホルンではなく木管に彩りを添えるそいうたぐいの重ね方だった。そんなところにも演奏が必ずしも雄大さを目指したものではないことが感じられた。
オーバーアクションとは関係ないかもしれないけれど デスピノーザさんが頭で頭づきをかますような動きでオーケストラに気を送ったと思える場面もありちょっとコミカルな印象をその時には持った。
デスピノーザさんのプロフィールにイタリア生まれと書いてあるのを見たときには、沖澤のどかさんが京響に就任してはじめての定期演奏会でメンデルスゾーンの交響曲「イタリア」が演奏されたことを思い出した。
僕の音楽におけるイタリアのイメージはあの交響曲イタリア 特に第一楽章の抜けるようにはじける感じ、そしてエレガントさ そういうものだ。
そういうイメージの演奏とは異なるものであったように思う。
木管のアンサンブルが精緻。それはこの日の演奏でとても印象に残ったことの一つだった。
開演前にあらかじめプレーヤの方を目にしていた先入観もあるかもしれないけれど、第二楽章の弦の掛け合いでビオラの音がよく耳に届いて新鮮な印象を持った。
これもプレーヤの方が途中から出てこられて、そこに注目したおかげで、第四楽章、テノール独唱が入る前に木管が歓喜の歌を行進曲風に変奏した旋律を奏でるのはピッコロだと今さらのように気づいた。ちなみにピッコロが出る前のファゴットの音色も心にぐっとくる味わい深いものだった。
自分は楽器の音色を聴き分けるのが困難とさとってから努めて楽器を見るようにしているけれどその成果がひとつ出たなと思った。
コーラスが歓喜の歌を高らかに歌い終えて、終盤のコーラスによるフーガに至る場面でオーケストラのみで緊張感のある旋律を刻む場面があるのだけれど、コンサートマスターの方のリードのもと聴きごたえのあるものだった。
それに続いて コーラスがフーガを歌う時にオーケストラは譜割りの細かい音を刻んでいくのだけれど、そこも本当に弦楽器の方全員が、前向きな気もちで演奏されているように僕には思えて心の充実感を味わった。
そしてこういう場面でのコンサートマスターの役割は大きいなあとステージを見ていて思った。
自分の反省点としてはこの日の演奏会は通常アルトが歌うパートにカウンターテナーが入っていたのだけれどオーケストラの方ばかり見ていて カウンターテナーの方を見るのを忘れていたのが少し残念に思えた。
総括的に思ったことは、第九と言うのはどの楽器も均等に活躍する。そしてそれはソロ的に活躍する場面ももちろんあるけれど、複合的にからみあって活躍するという要素も大きい。要するにソロ的な要素も複合的な要素も均等になっているということ。
つまり第九ほど均整のとれた交響曲は探してもきっとないだろうとおもえるほど均整がとれていると感じた。
木管の充実度はベートーヴェンの交響曲の中でも随一かもと思った。
こういうCDを何度となく聴いても気づかないことに生演奏は気づかせてくれるから、本当にコンサートと言うのはありがたいものだと思う。
それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。