ケンのブログ

日々の雑感や日記

京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く(第697回)

2025年02月22日 | 音楽
2月15日 京都コンサートホールに京都市交響楽団第697回定期演奏会を聴きに行った。

最近ずぼらになってきて、定期演奏会の演奏曲目は当日コンサートホールでプログラムをもらって知ることも時々ある。

年間スケジュールであらかじめ演奏曲目を確認していても忘れてしまうこともあるし。

今日は指揮が準メルクルさんとは知っていたけれどラフマニノフのパガニーニの主題による変奏曲と知ったのは演奏会の当日だった。

その二日くらい前に家でブルーノワルターが1950年にニューヨークフィルと演奏したベートーヴェンの交響曲第五番のモノラル録音のCDを聴いた。

そこに収められている演奏は かなりテンポ変動が激しく、なんとなくドラマチックな演出であるように聴こえた。

そしてアメリカでのモノラル録音の時代のこういう演奏はラフマニノフなど20世紀前半に主要な作品を残した作曲家の音楽がもつドラマ性と共通した時代的な背景があるのかもしれないとなんとなく思った。

そういえば戦争などの影響でヨーロッパを離れアメリカに生活の拠点を置いたことはラフマニノフもブルーノワルターも共通している。

そんな矢先に演奏会でラフマニノフの晩年の作品を聴けるのは偶然にせよなんとなくいいタイミングだなと思った。

演奏会では最初に指揮、準メルクルさん ピアノ独奏アレクサンドラ ドヴガンさんで
ラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲」が演奏された。

バイオリンの弦の音とピアノのからみがスリリングに聴こえた。

音楽の前半でバイオリンが弓で弦をたたくような奏法をしていた。

僕が知る限りこのような奏法があるのはベルリオーズ 幻想交響曲の第五楽章だけだぞ、と思う間もなく幻想交響曲第五楽章の主要な主題と同じメロディが出てきた。

家に帰ってきて演奏会プログラムの楽曲解説で確認するとこのメロディはグレゴリオ聖歌の「怒りの日」と出ている。

YouTubeを見て確認すると「怒りの日」はこの弓で弦をたたく奏法の後で初めて出てくるわけではないけれど この順序で出てくる時が最も幻想交響曲での使われかたに近い旋律の出し方だと思った。


幻想交響曲では弓で弦をたたく奏法に続いてこの「怒りの日」のテーマが出てきてそして曲がフィニッシュとなる。

ラフマニノフでも弓をたたく奏法から「怒りの日」のテーマの提示となる。

こういうことはきっとラフマニノフは意識してやったと思う。

僕個人にとっては世紀の大発見だった。

これも演奏会で視覚を伴った状態で聴くから気づくことで、家でCDを何回聴いても気づかなかった。

やはり生演奏はいいなと思う。

クライマックスの第18変奏が終わり19変奏以降は音楽がフィニッシュに向かって盛り上がっていく。

この場面で弦楽器の響きにもう少し骨太なものであればもっといいのにと思った場面があった。

それは僕の好みと言うか願望だけれど。

全体的に振り返ればとても素晴らしい演奏だったと思う。

20分の休憩をはさんで次にラヴェルの「ダフニスとクロエ」全曲が演奏された。

有名な日の出の場面、
ころがる木管が鳥のさえずりなど日の出の中での個々の営みを表し それと並行してゆったりと音が動く弦楽器は夜明けの個々の営みの背景、つまり空とかそういうものを表していると思った。

その意味で絵画的だなと感じた。

前半いろんな曲想が次々と出てきて「展覧会の絵」を連想した。

やはりラヴェルのような人が何の考えもなく「展覧会の絵」をオーケストラに編曲することはないのだろうなと思った。

木管はオーボエ フルート ファゴット クラリネットと言うのが僕の心の基本にあるけど管楽器がそれよりもたくさんステージに並ぶのでその心の基本ラインが崩れてしまう。

あれ、変わった音が出てるけど、どこから出てるの?と思っているうちに曲が次の段階に進んでいたり よく演奏に集中できていない時間も結構あった。

この日の演奏はコーラスを伴う形でなされた。
コーラスは最初に出てきたとき神秘的だなと思った。

メルクルさんがプレトークでこの曲の主要なテーマをピアノで奏でてくださりそれは「愛のテーマ」と言うのだと語っておられた。

そのテーマは本当にいろんな楽器で繰り返し出てきたけれど 特にビオラで出てくる場面が僕には印象的だった。

メルクルさんがダフニスとクロエはラベルの曲の中でも情熱的なもの(パッション)という主旨のことを言っておられたけれどビオラでこの旋律が出てくるときになんとなく特に情熱と言うか熱い思いが感じられるような気がした。

メルクルさんの指揮は体幹がしっかりしていて指示が細やかで鋭く さすがに世界の多方面で活躍しておられる方だなと思った。

お客さんの入りもよかったしちょっといつもの定期演奏会とは違う緊張感があったのできっと東京方面からもお客さんが来ておられたのではないかと思った。

メルクルさんはNHK交響楽団にもよくでておられる方だから。

最近の京都市交響楽団はいつも安心して聴けるなと思う。

それはともかく一日いちにち無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。

















名古屋フィルハーモニー名曲シリーズを聴きに行く(第94回)

2025年02月02日 | 音楽
1月23日 フォレストホールに名古屋フィルハーモニー交響楽団第94回名曲シリーズを聴きに行く。
指揮はロベルト フォレス べセスさん。

最初にドビュッシー 牧神の午後への前奏曲が演奏される。

5日前に他のコンサートでメンデルスゾーン シューマンを聴いた後だと
フランス音楽はエレガントだな夢のようだなと思う。

ドビュッシーの音楽は独特の弛緩性があるなと思いながら演奏を聴いていた。

次に演奏されたのがピアノ独奏 田所光之マルセルさんで
矢代秋雄 ピアノ協奏曲

演奏の冒頭ショスタコーヴィチかと思うけれどそんな思いも10秒くらいで消えた。

ただ、冒頭のピアノの音が異様な存在感を持ったものとして耳に届いてきたことはとても印象に残っている。

家に帰ってきてYouTubeにアップロードされている1960年代録音の動画を見たのだけれど録音 生演奏の違いはあるものの そのような録音と比べても冒頭の音の存在感はけた違いだったように僕の記憶には残っている。

演奏全体を通じてピアノの音が異様に大きくというか存在感をもって耳に届いてきた瞬間がその他にも何度かあった。

僕は昔の大阪フェスティバルホールなど天井の高いホールのほとんど最後列で聴いた音が若いころの原体験として心に残っている。

この名曲シリーズが開かれる名古屋のフォレストホールも天井が高くて登ってくる音の感じがある意味、旧大阪フェスティバルホールに似ているような気がする。

そういうこともピアノの音が時に驚くほど耳に飛び込んできた理由かもしれない。

もちろんピアノがそういう演奏だったということなのだと思うけれど。

演奏を聴きながら怪獣映画の音楽のようだと思ったり ガーシュインのジャズの要素を取り入れた音楽のようだと思ったり いろいろ思いを巡らせていた。

一楽章のある瞬間に指揮者がパーカションとピアノに同時に気を送り パーカションとピアノがピタッと息の合った打楽器的な音を出したとき 音がそろうように気を送るのがとてもうまい指揮者だなと思った。

体幹がしっかりしていて 手や腕の動きも細やか かつ鋭いからそういうことが可能になると思った。

それに、ピアノとパーカション、つまり指揮者から見てほぼ正反対にある楽器に同時に気を送るような器用な動きができる指揮者ってそんなにいないような気がする。

そういうところはすごいと思った。

今日の演奏は一曲目のドビュッシーから音がよくそろっているなあと思って聴いていたけれど、指揮者のリードがうまいというのもきっと大きな要因だったのだと思う。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのが

ラヴェル 古風なメヌエット 
メヌエットって3拍子だけれど これって4拍子じゃないの、どこが3拍子なのだろうと思いながら演奏を聴いていた。

でもメヌエットなら3拍子のはずだしと思って心の中で拍子を取っていくと確かにワンツースリーで拍子は取れる。

ただ、僕の場合メヌエットの典型例として心に焼き付いているのはモーツァルトの交響曲のメヌエット。

そのメヌエットに比べると随分早い拍子だなあと思った。


しかし、ベートーヴェンのスケルツオのように高速かつ快活であるわけでもなく、やはりメヌエットかと思った。

ただ、そういう微妙なラインを行くところがラヴェルらしいかもしれないと考えていた。

しかし、モーツァルトあるいはハイドンのメヌエットをピリオド奏法のようにビブラートをかけずに、早めのテンポで音を抜くような感じで演奏した場合を心に思い浮かべると、少なくともテンポ感という意味ではちょうどこの古風なメヌエットのような感じが想像されるから やはり そういうところが古風なのかもしれないとかいろんなことを考えてしまった。


音楽は独特の哀愁の漂うものでそれが演奏にもよく表現されていた。

なんだかいい感じだなあと思って演奏を聴いていた。

次にドビュッシー夜想曲より 第一曲 雲と第二曲 祭りが演奏された。

祭りは ラテン音楽の祭りと言う感じで 熱狂的だなと思う場面もあった そんな時はビゼーの「アルルの女組曲」の終曲ファランドールを思い浮かべたりもしていた。


最後にラヴェルのダフニスとクロエ第二組曲が演奏された。

演奏の中でどう考えてもヴァイオリンソロが夜明けの鳥の鳴き声を表していると思える場面があった。
鳥のさえずりと言えば木管と思っていたけれど バイオリンの音を聴いて鳥のさえずりと思ったのは生まれて初めてだった。

それも、生演奏で視覚を伴った状態で聴いているからわかることで、家でCDを聴いていてもわからなかった。やはり、生演奏はいいなと思う。

最後の方の盛り上がりはとてもよかった。僕から見て若い奏者が多いこともあると思うけれど盛り上がるところは本当に盛り上がるなと思う。

普段はステージで見られないような楽器もステージには並んでいて最後の方に指揮者から見てクラリネットの最も左に位置している見慣れない楽器がおどろおどろしいフレーズを執拗に繰り返していたのも印象的で最後の盛り上がりに大きな役割を果たしていると思った。

当日のプログラムの楽器編成の記載を見るとEフラット管クラリネットと記載されているからこの楽器がそれなのかと家に帰ってきてから思った。

一番左にいたからこの楽器が目立ったけれど、最後の盛り上がりのところではほとんどすべての木管が目まぐるしく転がるような音を出していた。

プログラムのすべてを通して、とても満足できるコンサートだった。



それはともかく一日いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。



京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く(第696回)

2025年01月23日 | 音楽
1月18日土曜日 京都コンサートホールに京都市交響楽団第696回定期演奏会を聴きに行く。

北山の駅を降りてコンサートホールに向かう道すがら女性二人の会話が聞こえてくる。

「このあたりって大学もあるし 静かやし、こんなところに住めたらいいなあ」
「テントでも張ったら?」。。。。。。。。。

「『テントでも張ったら?』って、あなた、そういう話やないでしょう。こんな場所にテント張って住むわけにいかんし」
と突っ込む人は誰もなく、女性二人の間に何とも言えない沈黙が続く。

たぶん あのまま コンサートホールにつくまで沈黙は続いたのではないだろうか。

僕と女性二人の距離は歩く速度の違いで離れてしまったからわからないけど 本当にテントのボケが宙に浮いてしまって、言った女性はかわいそうだった。

今はもう立ち直っておられたらいいんだけれど。

関西にずっと住んでいれば日常 ごく当たり前に耳にする会話のパターンも尾張地方から登ってくると本当に懐かしいものに思えてくる。それだけでも来た甲斐があった。

さて、京都市交響楽団の演奏

指揮者はヤン ヴィレム デ フリーントさん

最初に演奏されたのが メンデルスゾーン「夏の夜の夢」から序曲。

公演プログラムに「別世界へいざなうような管楽器の4つの和音に続き、4グループにわかれたバイオリンが飛び回る妖精を思わせる」と書いてある箇所のバイオリンの音色がキラキラ輝いているように聴こえ、アンサンブルも精緻で、よかった。バイオリンが指揮者の左右に配置されていたので音が程よく散ってそれも音のキラキラ感に彩りをそれていると感じた。

そのキラキラしたバイオリンを聴いていて素晴らしい演奏だな、京都は今や国際都市だけれどこの演奏なら世界のだれが聴きに来てくれても大丈夫、と思った。

静かに細かく音が動くところからダイナミックに音が動くところまで音楽のシーンごとに演奏の雰囲気を切り替えるのが巧みで プログラムに指揮者がオペラのキャリアもたくさんあることが記載されているけれど なるほどど思った。

次に演奏されたのが
ベルト作曲 ヴァイオリン 弦楽と打楽器のためのフラトレス

バイオリン独奏 会田莉凡さん。

最初あまり独奏者を見ないで演奏を聴いていたけれど バイオリンから低い音 高い音両方出ていて 「ええ? 2台のバイオリンで弾いてるの?」とびっくりして奏者の方を見たらひとりで演奏されていて またまた びっくりした。

曲想はいろいろ変化して、独奏もそれにうまく対応していたけれど 独奏者の方がその変化の中でも変わることのない 一定の緊張感を保っておられるように僕には思えて それか素晴らしいと感じた。

曲は後半になると神秘的な沈んだ楽想に浄化していき 何とも言えない 心の落ち着きを感じさせるものだった。

そこを聴いていてなんとなく ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番の第三楽章 「病いえたるものの感謝の歌」を連想しながら演奏を聴いていた。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのが

ダウランド 弦楽合奏のための「あふれよ涙」 そして切れ目なくシューマンの交響曲第2番が始まる。

金管の音が鳴り前の曲から切れ目なくシューマンの交響曲が始まった時は「ええ?聞いてないよ」と思った。

長い間コンサートに通っているけれど 違う曲が切れ目なく続けて演奏された記憶はちょっとない。

なぜこういう演出になったかわからないけどちょっと不思議だなと思った。

第一楽章が終わった時 会場から拍手が沸いたけれど それは そうだろう 前の曲から切れ目なく演奏されたので 第一楽章の終わりが前の曲の終わりと思う人は多いはずだと思った。

僕はたまたまネビルマリナーさんのCDを家にもっていたのでつられて拍手をせずにすんだ。

演奏は曲想の変化に応じて多彩に変化するタイプの演奏で聴いていて楽しかった。シューマンのシンフォニーって演奏次第でこんなに楽しいんだと思った。

音が波打って流れるようだなと思って指揮者を見ると本当に波打って流れるようなジェスチャーをしておられて 結局は京響くらいのオーケストラになると意気が合えば指揮者の動きの通りの音が出るんだなと思った。

滑らかなところ スッとするどく気を送るところ ダンスのように動くところ 体を伸ばして力強さを要求するところ いろんな動きが的確に繰り出されている感じで、指揮者をみるのもとても楽しかったし 演奏も 本当に指揮者の動き通りの演奏だったように思う。

例えば第一楽章はプログラムの楽曲解説を見ると アレグロ マ ノントロッポと書いてある。

今まで僕が録音 録画などで耳にした演奏は このマ ノントロッポという記載のせいかちょっとアレグロと言っても重々しく感じるものが多かった。

でも この日の演奏は 快活で流れるようで滑るようで 本当に聴いていてワクワクする感じだった。

コントラバスが 指揮者から見て左に配置されているのになぜか右から聞こえた。それも印象的だった。僕の席の位置だときっとホールの壁に反響した音がよく耳に届いたのだと思う。

でもシューマンの交響曲って 手に届きそうで届かないものへのあこがれ、逆に手に届かないことへのもどかしさなどが表現されているような気がして そこが大きな魅力だなと演奏を聴いていておもった。

とてもいい演奏だったと思う。

帰りに北山の駅に向かって歩く道すがら夫婦と思しき人の会話が聞こえてくる

「音楽が結構せわしないから奏者の人大変やなあ」と奥さん。 
「でもそのせわしないとこがベートーヴェン的と言うか、いかにもクラシックっていう感じやなあ」と旦那さん。

本当に的を射た会話だなあと思った。京都ってやっぱり文化レベルの高い街だと思う。

「今日の指揮者の人楽しかったわ」と話している若い女性もいた。

本当に楽しい演奏会だった。

それはともかく 一日いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。




京響の第九を聴きに行く

2025年01月05日 | 音楽
今となっては昨年のことだけど12月27日に京都コンサートホールに京都市交響楽団のベートーヴェン第九演奏会を聴きに行った。

北山の駅を降りる。

地上に出ると僕の後方から夫婦と思しきの方の会話が聞こえてくる。

「チケットにLって書いてあるわ」
「Lって左のことやろう」
「そうか左ってどっちから見て左や。わからへんわ」
「そうやな、わからんわ」

普段、関西で暮らしているとごく日常、耳にする会話のパターンだけれど関西をはなれて尾張地方から京都に上っていくと京都と言うか、関西の会話やなあとしみじみ思う。

ほっこりした気持ちになることも事実。

人工知能の台頭の影響も大きいと思うのだけれど、人の口から言葉が出にくくなっているし、出たとしても妙にかまえた中途半端な言葉になってしまったり。

そんな中で 最後までしぶとく生き残るのは案外、関西弁かもしれないとふと思う。

さて、今年の京響第九演奏会の指揮はガエタノ・デスピノーサさん。

第一楽章か第二楽章かちょっと記憶があやふやになってしまったけれど楽章の最後の音が妙に小さかった。そんなところに少しピリオド奏法の影響を感じた。

全体的には僕の感覚だと、アクセントが妙に強いちょっと癖のある演奏に思えた。

指揮者の動きがちょっとオーバーアクションと僕には感じられる場面がいくつかあり、そんなこととアクセントの強い演奏と思ったことときっと関係があるように思う。

ピリオド奏法の影響があると思われたことと関係している気もする。

ちなみに第二楽章の副主題は木管にホルンが重なっていた。しかし、それはワーグナーのように音を雄大に響かせるためのホルンではなく木管に彩りを添えるそいうたぐいの重ね方だった。そんなところにも演奏が必ずしも雄大さを目指したものではないことが感じられた。

オーバーアクションとは関係ないかもしれないけれど デスピノーザさんが頭で頭づきをかますような動きでオーケストラに気を送ったと思える場面もありちょっとコミカルな印象をその時には持った。

デスピノーザさんのプロフィールにイタリア生まれと書いてあるのを見たときには、沖澤のどかさんが京響に就任してはじめての定期演奏会でメンデルスゾーンの交響曲「イタリア」が演奏されたことを思い出した。


僕の音楽におけるイタリアのイメージはあの交響曲イタリア 特に第一楽章の抜けるようにはじける感じ、そしてエレガントさ そういうものだ。

そういうイメージの演奏とは異なるものであったように思う。

木管のアンサンブルが精緻。それはこの日の演奏でとても印象に残ったことの一つだった。


開演前にあらかじめプレーヤの方を目にしていた先入観もあるかもしれないけれど、第二楽章の弦の掛け合いでビオラの音がよく耳に届いて新鮮な印象を持った。

これもプレーヤの方が途中から出てこられて、そこに注目したおかげで、第四楽章、テノール独唱が入る前に木管が歓喜の歌を行進曲風に変奏した旋律を奏でるのはピッコロだと今さらのように気づいた。ちなみにピッコロが出る前のファゴットの音色も心にぐっとくる味わい深いものだった。

自分は楽器の音色を聴き分けるのが困難とさとってから努めて楽器を見るようにしているけれどその成果がひとつ出たなと思った。

コーラスが歓喜の歌を高らかに歌い終えて、終盤のコーラスによるフーガに至る場面でオーケストラのみで緊張感のある旋律を刻む場面があるのだけれど、コンサートマスターの方のリードのもと聴きごたえのあるものだった。

それに続いて コーラスがフーガを歌う時にオーケストラは譜割りの細かい音を刻んでいくのだけれど、そこも本当に弦楽器の方全員が、前向きな気もちで演奏されているように僕には思えて心の充実感を味わった。

そしてこういう場面でのコンサートマスターの役割は大きいなあとステージを見ていて思った。

自分の反省点としてはこの日の演奏会は通常アルトが歌うパートにカウンターテナーが入っていたのだけれどオーケストラの方ばかり見ていて カウンターテナーの方を見るのを忘れていたのが少し残念に思えた。

総括的に思ったことは、第九と言うのはどの楽器も均等に活躍する。そしてそれはソロ的に活躍する場面ももちろんあるけれど、複合的にからみあって活躍するという要素も大きい。要するにソロ的な要素も複合的な要素も均等になっているということ。

つまり第九ほど均整のとれた交響曲は探してもきっとないだろうとおもえるほど均整がとれていると感じた。

木管の充実度はベートーヴェンの交響曲の中でも随一かもと思った。

こういうCDを何度となく聴いても気づかないことに生演奏は気づかせてくれるから、本当にコンサートと言うのはありがたいものだと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。















名古屋フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴きに行く(第592回)

2024年12月14日 | 音楽
12月7日愛知県芸術劇場コンサートホールに
名古屋フィルハーモニー交響楽団第529回定期演奏会を聴きに行く。

指揮はアントニ ヴィットさん
最初に
シューマン 序曲「ヘルマンとドロテア」が演奏された。

ラマルセイエーズのメロディが頻繁に形を変えて出てきた。ちょうど知り合いの人がフランスに行っているときだったので、フランスに思いを馳せながら祈るような気持ちで演奏を聴いていた。

次にバイオリン独奏 森岡聡さんで

シューマン バイオリン協奏曲 が演奏された。

録音、生演奏、含めてたぶん初めて聴いた曲だと思う。

バイオリンが独奏楽器としてオーケストラと対峙して際立っているというよりも、バイオリン独奏がオーケストラの演奏と融合しているという印象を僕は持った。

たぶん独奏の森岡聡さんが名古屋フィルのコンサートマスターと言うことでオーケストラと独奏者のなんというか心理的な距離が近いことが一因かもと思った。

何楽章とか言うのは忘れたけれどコンサートマスターとバイオリン独奏が掛け合いをする場面があってよく息があっているなと思った。

例えば一楽章でオーケストラ全体が一斉に鳴るようなところは特に何番と言うわけではないけれど シューマンの交響曲を連想しながら聴いていた。

楽想は交響曲を彷彿させる場面でも演奏は音量的にはかなり抑え気味であることも印象的だった。

オーケストラのメンバーの方が遠慮しておられるのだろうかとも思ったけれど、指揮者を見るとやはり大きな音を求めるような動きはされていなかったのできっと指揮者の意図によるものなのだろうと思った。

全体に抑え気味にまとまった演奏であるように僕には思えた。

チャイコフスキー 幻想曲「フランチェスカ ダ リミニ」

演奏の前半 悲劇的な楽想が頻繁に出てきたけれど、弦の高音域がその悲痛さに見合うような音が出ていないように思える場面がしばらくあった。
そんな時には、もう少し 弦の高音域が悲痛さを表現するようなある種の鋭さがあればなあと思いながら演奏を聴いていた。

ただ、演奏が進んで音楽が躍動的になって来るとそのような弦の高音域の音不足のような感覚はだんだん気にならなくなってきた。

結果的にはよく盛り上がって演奏が終わったように僕には思えた。

金管の高らかに鳴る感じ、木管の音が転がるような感じ そんなところでチャイコフスキーの交響曲第4番を心に思い浮かべながら聴いている時間もかなりあった。

チャイコフスキー 幻想序曲「ロメオとジュリエット」

最初は割と静かな曲調が演奏を支配していた。

前に演奏された幻想曲では最初、弦楽器の高音域がもう少し耳に届いてくればという思いで聴いていた場面もあったけれど この曲ではそういうこともなく その意味でリラックスして演奏を聴けた。

基本的に初めて聴く曲という認識で演奏を聴いていたけれど 後半になって金管と絡みながら弦の音が細かく動くようになると、ああ いつかどこかで聴いたことのある音楽と思った。

曲が盛り上がるところは演奏にとても満足することができた。

この日は4曲演奏されて4曲とも実質初めて聴く曲だった。

最近はそういう機会も減っているように思うけれど 知らない曲を聴くときはどうしても自分が過去に聴いた曲と結び付けて聴いてしまうことが僕の場合多い。

もともと連想癖が僕にはあるので、そういう連想をしながら演奏を聴くのもまた楽しみの一つだなと思う。

それにしても、若いころはオーケストラの奏者の方がおじさん おばさんに見えたけれど、最近は奏者のほとんどの方は僕より年下でなんとなくフレッシュに見えるなあと思うことがある。

それはともかく いちにち いちにち無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。