ケンのブログ

日々の雑感や日記

響龍なくなる

2021年04月30日 | 日記
今日の新聞とネットのニュースに大相撲の三段目力士 響龍が死去したと書いてある。

新聞の見出しには首付近強打、ネットの見出しには頭を強打と書いてあった。

響龍の死去の原因になったと思われる取り組みの動画がネットに出ていたので見た。

響龍は相手力士のすくい投げに、頭から落ちていっている。

そして落ちた頭の頭頂部が丁度、俵(たわら)のところに突っ込んでしまった。

なので、俵(たわら)が響龍の頭の動きのストッパーの役割を果たしてしまう。

頭が俵(たわら)で固定されて動かなくなった状態で、すくい投げで崩れた体勢の150キロもあろうかという巨体が突っ込んでいったから、慣性の法則で、響龍の頭部と胴体の間、つまり、後頭部から首にかけての中枢神経が集中している部分に、ちょっと想像を絶するような力が瞬間的にかかってしまったという状態になっている。

土俵の真ん中で倒れていれば、俵(たわら)が頭の動きを止めることはないから、巨体が頭に突っ込んでいっても、頭もそれに応じて前方に移動するので、あのような事故は起こらなかったと言って差し支えないと思う。

まさに、不運に不運がかさなってしまったとしか言いようがない。

本当に究極の不運という気がする。

5年ほど前に、豊真将という力士が、日馬富士との相撲で、膝が俵(たわら)と腰の間にはさまるような形で倒れ、そのときもそのために豊真将の膝に過大な力がかかり、豊真将はその場でうごけなくなってしまった。

あのとき、テレビで解説をしていた北の富士さんは、「よくよく、運のない人だね、この豊真将という人は、やっと上がってきたと思ったら、怪我だもんね」とおっしゃっていた。

本当に、もう、運としか考えられないようなことが、この世界では起きるものなのだなとしみじみと思う。

豊真将の場合は、あの怪我が結局、引退につながったけれど、響龍の場合は、本人がなくなるということにつながってしまった。

本当に、息子さんを大相撲に預けた、ご家族は、もう、やり場のない気持ち、むせびあげるような気持ちでおられることと思う。

もちろん、力士を預かっている、親方や部屋の人もそうだけれど。

奇しくも何日か前に王貞治さんが

硬式ボールが体に当たった時の痛さを知らない人は野球を語ることはできない。
同様に、土俵の(稽古の)厳しさは、実際に、それを体験した親方や力士にしかわからない。

という主旨のことをおっしゃっていたことをまたしみじみと思い出した。

やはり、あの土俵の中で、鍛え上げた巨体の男同士が、ぶつかり合う時の、恐怖感とかそういうものは実際にそれを体験したものにしかわからないと思う。

素人が軽々しく口を挟める世界ではないし、もし口を挟むとしても、やはり、実際にそれをやっている人にしかわからないものがあるのだという畏敬の念をもって発言するべきだということを思った。

相撲の世界だけでなく、どんな世界でも、本当に、道によって賢し という言葉もあるように、実際にその世界を体験した人にしかわからないということはいくらでもあるとおもう。

他人の道というものを尊重することも大切だし、また、困ったことがあったら、その道の人を頼っていく、その道の人に相談してみる、そういう気持ちも忘れないようにしたいものだと思った。

響龍さんのご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

どうぞ、毎日が無事でありますように。それを一番に願っていきたいと思う。






昭和の日

2021年04月30日 | 日記
昭和の日と新聞に書いてあるのを見て初めて今日が昭和の日であると知った。もちろん今日は、昭和天皇の誕生日であることは知っていたけれど、みどりの日と呼ばれてきた時期が長かったので昭和の日という意識がなくなっていたのかのしれない。

本当に、昭和も遠くなったものだなあと思う。

昨日、コールセンターに電話したら、何を聞いても、個々によりますというような答えをしてこられて、故意、または、かたくなに話の落ちがつかないようにしておられるような女性にあたってしまったということをブログに書いた。

一日経過してみても、本当にあれはいやなことだったなあという思いがこみ上げてくる。

さらに時がたてば、そのいやな思いは薄れていくのだろうと思うけれど。

こういうときは、諸行無常という言葉を思い浮かべようと思う。

いつまでも同じ気持ちが続くことはないと、諸行無常なのだからと。

だんだんと、気持ちや物事が良き方に流れて浄化していきますようにと願う。

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連日、わいせつ教員を、教育現場から排除する法整備の話題が新聞に載っている。

僕、大学生の頃、ちょっと好きな女の子がいて、その子の気を引こうとして、その子がポニーテールにしていた日に、歩きながらその子のポニーテールを引っ張ったことがある。

すると、その子は烈火のように怒った。

烈火のように怒ったというのは、その子が僕に向かって、なにか抗議してきたということではなく、僕がポニーテールを引っ張った瞬間のその子のムッとした表情を見て、あっ これは、尋常ではない怒り方だと自分で悟った。

無言の怒りだったから、余計と身にこたえたということがある。

それ以来、なんと言うか、そういう雰囲気にならない限りは、女性の身体には安易に触れないということにそれなりに注意して人生を送っているつもりではある。

つもりなので、どこまで実行できているかはわからないけれど。

予備校に勤めているときも、京大を受けた女の子と一緒に、合格発表の掲示板を見ていて、その子の受験番号を本人よりも僕のほうが先に見つけたときにちょっとどさくさで、「受かってるやん」と言って、その子の肩に軽く手を回したことがあるけれど、まあ、そのくらいしか、女の子の体に触れたことって思い出せない。

お別れのときとかに握手をしたことは結構あるけれど、それも、あまり無理やりという感じで握手をしたことも自分ではないつもりではいる。

あとは、肩こりでしんどいと言っている女性に、腕を体の後ろに回すようにするといいよというような話を僕がして、その方が、体の後ろに腕を回しても、なんだか不器用そうしていたので、ちょっと手助けのつもりで、その方の腕を補助的に後ろに軽く引っ張ったこととか。

でも、そうやって思い出すと、僕も、女性の身体には安易に触れないことをこころがけていても、それでも女性の身体に触れたことはけっこうあるなと思う。

今日、新聞に載っている「わいせつ教員対策新法」の自民、公明両党のワーキングチームによる条文案を見ると

わいせつ行為について「児童生徒性暴力」と定義し「衣服の上から身体に触れる」などの行為も性暴力に該当するとした、と書いてある。

本当に、わいせつ教員を許さないということは確かにそのとおりだと思うけれど、いざ、それを立法と言う形で規定しようとすると、そんなに楽なことではないのだなとしみじみと思う。

衣服の上から女の子の身体に触れても、性暴力と認定される可能性があれば、男も、女も性暴力ということに神経質になりすぎて、また、別の問題が生まれることも考えられる。

さわらぬ神にたたりなし、と女の子の指導に手抜きをする教員が出てきたりとか、、、。

過剰に、男と見たら性暴力を疑え、という女性が増えたりとか、、、。

言葉が生み出す人間の意識の変化って結構馬鹿にできない、

松田聖子は、「タバコの匂いのシャツにそっと寄り添う」と歌っていたけれど、
タバコの害がしばしば言われるようになったら、タバコの匂いのシャツに寄り添うなんてありえないことで、逆に、タバコの匂いのシャツは洗濯機に入れるな と言われる夫も出てきたりして、、、。

わいせつ という言葉が過剰に独り歩きしないことを願っている。

まあ、僕があれこれ考え過ぎであって、法律が整備され、みんなが幸せになれることを祈ってはいる。

ある女性に、写真撮影をお願いしたら、その方はいろいろと僕の衣服の乱れとかを直してこられて、「男が女に触ったらあかんけど、女が男に触ることは別に、気にする人そんなにいないから、こういうときは女は便利です」とおっしゃったけれど、そのときはなるほどそのとおりだなと思った。



それはともかく、毎日が無事でありますように、それを第一に考え、願っていきたいと思う。







個々によって異なります

2021年04月29日 | 日記
ちょっと今、個人的な都合で電気の契約ということを考えている。

今日、ある電力会社のコールセンターに電話した。

何を目安に、契約のアンペア数を決めたらいいのか質問した。

答えは、個々によって異なりますということだった。

それで、質問の仕方を変えて、どんな契約のプランがありますか
それを列挙してくださいと言った。

その質問にはすぐに答えてくださってすべての契約プランを列挙する形で
教えてくださった。

しかし、それでは種類の数が多すぎるし、やはり目安がわからない。

もう一度、この列挙されたものの中からどのような目安が考えられますかと質問した。

答えは、個々によって異なりますとのことだった。

それで、住んでいる建物の平米数を言って、このくらいの平米数の建物でしたらどのような目安が考えられますかと尋ねた。

答えは、契約プランは建物の平米数で決まるものではありませんだった。

それで、では、標準的な世帯ではどのような契約をされますかと尋ねたら。

個々によって異なりますと答えられた。

では、もう、標準世帯とかそういうことすべて抜きにして、どのプランの契約数が一番多いですかと質問した。

答えは、個々によって異なります、だった。

それで、今、僕は、このくらいの電気の消費量で、このくらいの電気代を払っています。そういう場合は、どういう目安が考えられますかと質問した。

答えは、個々によって異なります、だった。

本当に、僕、うそを書いているのではなくて、何を聞いても、ほとんどの答えは、個々によってことなりますの一点張りだった。

そのうち僕もコールセンターのお姉さんもイライラすると言うか疲れてきて、お姉さんが そもそも契約する意向はありますかと聞いてこられた。

契約する意向はありますと僕は答えた。

するとお姉さんは急に声が明るくなって、このプランはどうですか、とその時はじめてプランを具体的に勧めてこられた。

そのプランを勧められる理由は、現状そうなっているから、ということだった。

もう僕もしんどくなってきて、それではそのプランでお願いしますと言った。

電話を切った瞬間に、電話機に表示されて通話時間を見ると48分になっていた。

好きな子と48分話をするならまだ、幸せだけれど、押し問答のような電話を48分も続けるなんて、僕もお人好しなのか アホなのか 単なる変わり者なのか、、、。

電話を切って、しばらくしてから、でも、なんだか心配になってきて、ネットで、「電気、契約、アンペア 目安」と入れて検索してみると、お姉さんが進めてこられた〇〇アンペアというプランは、テレビも見ない、オール電化を考えているわけでもない、電子レンジと クッキングヒーターと、ヘアドライヤーを同時につかうなんてありえない(今は、頭が丸刈りなのでそもそもヘアドライアを使わない)僕には、ちょっと過大なアンペア数の契約だということがなんとなくわかる。

ネットで調べた限りではどう考えてもお姉さんが進めてこられたのよりも少ないアンペア数の契約で足りるようだ。

本当に、こういう対応をされると、おちょくられているのか、バカにされているのか、だまされているのかわからないような気分になってくる。

それなら最初から、ネットで申し込めばということなのかも知れないけれど、僕、ネットにいろいろ記号やらそういうの入力するの苦手。

それに、ネットの契約というのもまたくせもので、知らぬ間に、業者に有利な契約に誘導されることもあるし、、、。

折しも、たまたま、今日の新聞は、本当にスマホなどによるデジタル化が進むと、どこでどう情報をとられて、どんな、情報や広告を、スマホなどの端末に表示してこられるか極めて不透明な世の中になっているという内容の記事がけっこうたくさん載っている。

デジタル化にかたよりすぎてしまうのも怖い、コールセンターのお姉さんは、とても客の相談にのれるような思考力や、知識があるわけではない場合が多い。

特に、今は、コロナの出勤制限で、よりその傾向が強くなっているようにも思う。

それでも、まだ、それなりに社員の質のいい会社なら、コールセンターでらちが明かなかったら、有料ダイヤルでもいいから、東京の本社に電話するとしっかりした職員がしかるべき対応をしてくれる場合もかなり多い。

電気も、コールセンターはたよりにならない、本社に電話をしても、たよりにならない社員が出てきたらと思うと、単に電気代が安いと言うだけで、名前も聞いたことないという会社と契約するのは怖いなと思ったりもする。

しかし、こういう書き方をするとコールセンターで一生懸命、真面目に働いている人には失礼だけれど、一般的には、コールセンターに電話するときは、期待値を高くすると、がっかりするから、アルバイトのように、マニュアル通りの対応をしてくれる子が出る場合が多いということをあらかじめ想定して、期待値をあげないようにしないと、がっかりしたり、頭にきたりすることが多くなってしまうなと思う。

本当に、科学技術が進んでいると言う割には、ショボショボの対応になってしまっている会社が増えているように思えてならない。

まあ、僕も、会社に勤めているとき、お客さんにショボショボの対応をしてしまったこともあるので、人のことをあまり言える立場ではないかも知れないけれど、、、。

まあ、あまり執着をもつとしんどいので、どんな世の中になっても、それはそれで、なるようになる、と考えるのが精神衛生的にはいちばんいいのだと思う

その、なるようになると、信じきることも、なかなか、容易なことではないけれど。

それはともかく、毎日、無事でありますように、それを第一にねがっていきたい。

夏も近づいて

2021年04月28日 | 日記
今日の新聞の「今を語る」というコーナーで東京の有名私立大学の教授でネットワーク論、人間関係論などが専門の方が新聞記者の取材に対して語った言葉を、記者がまとめた文章が載っている。

こんな文章だ。

“”
なぜ、人は孤独・孤立に陥るのか。最大の原因は、人間関係が介在しなくてもなんとか生活できるような社会を我々がつくってしまったことにあります。

中略

今は、お金とネット環境があれば、誰かの助けがなくてもほしいものやサービスはほとんど手に入る。

お金がない人も社会のセーフティネットで生きていける。

人間関係の煩わしさ息苦しさから開放されたわけです。

こうした変化により人間関係は「必需品」から「嗜好品」に変わりました。

(人間関係を)作るのも作らないのも自由で、付き合いたい人とだけ付き合い、会いたいときだけ会えばよくなったのです。

でも、そういう都合のいい関係は誰でも作れるわけではない。高学歴や高収入など相手が求める「資源」があれば多くの人とつながれる一方、資源を持たない人は関係をうまく結べなくなりました。

人間関係を切るのも自由ですから、切られないためには相手の気分を害さない、迷惑をかけないといった配慮が求められます。

そうなると、気軽に悩みを相談したり弱みを見せたりできません。

ある50代の独身男性は人付き合いが盛んでしたが、母親の介護が始まっても周囲にその苦労を打ち明けられず孤立感を深めました。

母親がなくなると自暴自棄になりゴミだらけの自宅に一人で過ごすようになってしまったのです。

中略

この男性が孤立から脱却できたきっかけは、自宅のゴミを片付けるために呼んだ清掃業者との会話でした。片付けをすすめる中で、友人には明かせなかった介護の苦労話を、初対面の業者には話すことができた。

弱くゆるい人間関係が相談しやすさにつながることもあるのです。 以下略“”



読んでいて、それはデタラメやうそが書いてあるわけでは決してないけれど、あまりにも皮相的で、短絡的な文章、そして冷淡な文章と思ってしまった。

もちろん、ゆるい人間関係の中に逆に、相談のしやすさがあるという主張は、僕もなるほどど思う面もあるけれど、、、。

しかし、僕自身、今、孤独の中にいるので、孤独という見出しにつられて文章を読んでしまったけれど、あまりの内容の皮相さに逆に心が落ち込むような気分になってしまった。

最近、なんだか、こういう、中身があるのか、ないのかわからないような言葉を、人間関係の「必需品」から「嗜好品」への移行など、もっともらしいキーワードをキャッチフレーズに展開するタイプの人が増えているように思う。

筆者の考えが、現実に根ざしていると言うよりも、むしろ観念の世界だけで形成されているように思えてくる。

ネットワーク論がご専門のひとつと紹介されている方なので、ネットを見て、あるいはネットの中でものを考える時間が長すぎて、考えが、観念の世界だけになってしまっている可能性もあるような気がした。

もちろん、これは、大学の先生本人の文章ではなく、大学の先生を取材したものを新聞記者がまとめた文章なので、記者のまとめかたが観念的なまとめかたになったのかもしれないけれど、まとめるベースにある言葉にもきっとそういう傾向があるのだろうと思った。

例えば、この文章に
“”お金とネット環境があれば、誰かの助けがなくてもほしいものやサービスはほとんど手に入る。“”

とく下りがあるけれど。

そのほしいものやサービスを提供してくれるのは、ほかならぬ人間なのだという視点が欠如していることが、文章や考え方がこのように皮相的で冷淡になってしまう一因なのかなと感じた。

まあ、どうでもいいといえば、どうでもいいことなのだけれど、ちょっと気になってしまった。

本当に、最近、こういう文章で人を啓蒙したつもりになっている人って多いなと。

ただ、僕にとって興味深かったのは、記事に添付されている「孤独を感じる割合」という棒グラフで男性よりも女性のほうが孤独を感じる人の割合が多くなっていること。

女性のほうが男性に比べると一般によく話すし、男は、うちとけるまではほとんど話さないということが多いのに、女性のほうが孤独を感じる割合が多いというのは、ちょっと僕にとっては意外と言うか、わからないものだなと思ってしまう。
まあ、アンケートのとり方にもよるのだと思うけれど。

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昨日から、スーパーマーケットの花売り場には花菖蒲が出ている。

端午の節句が近いなと思う。

童謡、背比べ も流れている。

“”柱のキズはおととしの 5月5日の背比べ

ちまき食べ食べ兄さんが、はかってくれた背の丈“”

本当に僕がまだ子供だった頃の情景が浮かんでくるような歌詞だなと思う。

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歯医者で歯の治療をしてもらう。

お会計のとき、僕の予想よりもちょっと高額の請求額だった。

僕は請求書を見てちょっとびっくりして
「ああ、お金おろしといてよかった。何とか足りるわ」と言った。

「今、金属って結構高額なんですよ。やっぱり次回、詰め物が取れたときには忘れないように持ってきてください」と歯科医師は言った。

まあ、とれた詰め物をもってこいと言われたのに忘れた僕が悪いのだから、「はい」と答えるしかない。

この歯科医師は、歯の治療中、歯科衛生士に、治療道具を手渡すように要求するときに、例えば
「メスお願いします」という具合に「〇〇お願いします」と必ず言う。

そのお願いします、という言葉遣いが聞いていて耳に心地良い。

やはり、言葉遣いがいいというのは人に心地よさを与えるなとしみじみと思う。

「ちょっとこれから削るところは神経の残っているところですから、痛かったら手をあげてくださいね」と歯科医師は言って、そこは確かに、痛かったけれど、手を上げるほどではなかった。

ヘタに手をあげて、では麻酔をしますと言われても、その麻酔の注射が針を刺すときまた痛いということもあるし、、、。

いつかこの歯科医師が僕の口をあけたときに、僕が、体をこわばらせたら
「まだ、何もしてませんよ。怖いんですか?」と歯科医師は言った。
「はい、怖いです」と僕は言った。

それに対して歯科医師は無言だった。

基本的に、この歯科医師は治療中は不必要なことは話さない。

話すことで注意が散漫になり事故につながらないようにとの配慮だと僕は思っている。

今日は緊急事態のせいか、僕のあとに患者はいなかった。

お会計のとき、女性の歯科医師と、歯科衛生士の方が会計のカウンターにいて
もう一人の歯科衛生士のかたが奥の診療室の方から僕の方を向いておられた。

3人が3人ともそれぞれに美人で、そういう感じで、見送ってもらえると、まあ、悪い気分になるはずはないということになってしまう。

「右奥の下と左上はたぶんナカシマさん、歯磨きの苦手なポイントなんでしょうね。もう少し歯磨きうまくなってくれると嬉しいです。できれば3ヶ月くらいしたらまた来てほしいですけど、まあ、今は、先のことはわからないときですから、判断はおまかせします」と歯科医師はおっしゃった。

歯磨きがうまくなってくれるとうれしい と言われると、嬉しくなってしまうし、がんばろうと思うけれど、結局いつも3日くらい頑張って終わってしまう。

それはともかく、どうぞ毎日、無事にすごせますように。













あとの祭り

2021年04月27日 | 日記
今日の新聞に大阪、梅田の日曜日の人出は大幅に減ったと出ている。

実際、日曜日に、梅田には行かなかったけれど、電車の乗車率も低かったし、本当に大阪府知事の強い意思が効を奏したと感じた。

高校の頃、政治経済の授業で、国政は、国会で内閣総理大臣を指名するなど、イギリスの議院内閣制を見習った側面が強い。

それに対して、地方自治は、首長が議会と並ぶかそれより大きいくらいの権限を持っていて、これはアメリカの大統領制に近いということを習った記憶がある。

本当に大阪の少ない人出を見て、知事の権限の大きさを僕なりに悟ることになった。

また、新聞には、繁華街の人出は少ないが、府県を飛び越えて滋賀県のびわこなどのレジャーや買い物に自動車で繰り出す人が多かったと出ていた。

僕も当日、マンションが静かな割に駐車場から出払っている自動車は多いなあと思っていて、ひょとしたら、いろいろと、自動車で、買い物やレジャーに行った人が意外と多かったのかもと思った。

このように、自分が観察したことと、新聞に書いてあることに、一致点と言うか思い当たるふしを見つけたりすると、なんとなくちょっと嬉しかったりする。

ちょっとした自己満足の世界という感じだ。

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国政の補選で自民党が全敗したと新聞に書いてあって、やはり、コロナへの対応や政治と金の問題の不満が噴出したと書いてある。

しかし、いざ、国会が解散となると、このコロナを野党にまかせることができるのかという意識になる人も多いと思うので、補選と、解散による総選挙というのはまた別物と思えなくもない。

本当にそういうところは、選挙というのはわからないというか、油断ができないなと思う。

だから、つい、寄付と言うか、お金を配ってしまう議員もでてくるのだと思うけれど、やはり、だめなものはだめですよね、これだけは、、、、。

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僕、リポビタンdとかc1000タケダとかそういう系の飲み物を、ドラッグストアで買って、ぐいっとその場で飲むのが結構好き。

飲み干したビンの処理はドラッグストアによって、カウンターにおいていってくださいというところと、あそこの箱にほかしといてくださいというところに大きく二分される。

基本的に、ドリンクを飲んで愛想よく対応してくれたドラッグストアでは、他の買い物もするけれど、そこで、不愉快そうにビンをうけとったりするドラッグストアからは足が遠のいてしまう。


なんだか、僕の場合はそういう感じになっている。

今日、ちょっと国道沿いのドラッグストアにいった。

そこで、リポビタンDではないけれど、そういう系統のドリンクと、カロリーメイトを買って、
レジのお姉さんに、「ビンはほかすとこありますか」と尋ねた。

僕は最初から、「ビンの処分はたのむね」とお願いするのはぶしつけな気がするので、最初は遠慮がちにビンはほかすところがあれば自分でほかしますので、という思いを込めて「ビンほかすとこありますか」と尋ねるのが習慣になっている。

ところがその僕の「ビンは、ほかすとこありますか」という僕の質問にお姉さんは、とても無愛想に「ありません」と答えた。

こういう答え方をする店員さんて珍しい。

大概は、ほかすところがない場合は「ほかすとこはないので、飲んだらカウンターにおいていってください」と言われる。

それで、お姉さんからぶっきらぼうに「ありません」と言われた瞬間に、僕は「では、このドリンクは買いません、カロリーメイトの勘定だけお願いします」と言って、ドリンクを脇にのけてしまった。

するとお姉さんはちょっとびっくりした感じで「今、飲まれるのでしたら、ビンはカウンターでお預かりします」とおっしゃった。 

「それなら、ドリンクも買います」と僕は言った。

「カードはお持ちですか」とお姉さんは言った。

普段は こういうとき カードはなしでおねがいします と僕は言うのだけれど、ぶっきらぼうに「ありません」と言われたのにムッとしてしまっていたから
「カードは持ってない」と強い語気で言ってしまった。
僕の場合、下手に出て カードはなしでおねがいします と言うのでなければ、逆に強い語気で「カードは持ってない」と言わないと、「カードをお作りしましょうか」と営業をかけてこられる可能性が高まるので、ついそうなってしまう。

すると、僕の次に並んでいたおばちゃんが、レジのお姉さんに「ありがとうね、がんばってね」と声をかけたので、僕は、やさしいおばちゃんに対する、横柄な感じのわるいおっちゃんという構図になってしまって、本当に間の悪いことになってしまった。

ただ、一連のレジでの流れを振り返ってみて、お姉さんが僕にぶっきらぼうに「ありません」と答えたのは、まだ、バイトに入りたてで、レジに慣れてないので言葉が出てこなかった可能性が高いということがわかった。

そういうのって、いつもの常連のおばちゃんがそのレジのお姉さんにどういう感じで接しているかを見ているとなんとなく雰囲気でわかる。

あと、国道沿いの店舗なので、駅の改札近くの店舗に比べるとドリンクをその場で飲んでいく人の比率が低くて、そういうビンに対する質問の対処に慣れていなかったということも十分に考えられると思った。

お姉さんには申し訳ないことをしたなと思うけれど、本当に、あとになって申し訳ないと思ってもそれこそあとの祭りだ。

レジで、カードは? レジ袋は?など確認しなければならなことが多すぎて慣れていないと、本当にコミュニケーションがうまくとれなくなってしまうことがある。

複雑な世の中になったものだなと思う。

でも、お姉さんには申し訳ないことしたなと思う。あとの祭りだけれど、、、。

まあ、それはともかく、毎日無事にすごせますように、、、。