ケンのブログ

日々の雑感や日記

変わっていく意識

2021年06月30日 | 日記
今日 僕が住んでいるマンションの掲示板を見た。

「ベランダでタバコを吸う人がいる、という苦情が出ています。お気をつけください」と書いてあった。

僕、マンションの管理規約それほど詳しく知らないので、タバコをベランダで吸うのは禁止なのかと思った。

一応、ベランダは、マンションの共用部に当たるはずなので、共用部での喫煙が禁止ならばベランダでの喫煙が禁止になる可能性が高い。

しかし、思えば、1995年ころ、僕が予備校でパンフレットの文章を書く仕事をしていた頃は、職場のデスク上に灰皿があって、吸う人はそこで吸いながら仕事してて、部屋は煙でもうもうとしていたんだなと思い出す。

学生バイトの子は週に何日か来るだけだけれど、常勤アルバイトのSさんという女の子がいた。

だれかが「あんなに、煙がもうもうとしていたら、Sさんちょっとかわいそう」と言っていた。

僕も、当時、職場で机でタバコ吸っていたけれど、さすがにそのSさんちょっとかわいそう という言葉には、そのとおりと思ってしまった。

まだ、今ほど喫煙マナーが言われていない頃だったので、Sさんも我慢していたと思う。それに大人しい子だったし。

まあ、おとなしいからこそ ちょっとかわいそう という声がどこからともなく出てくるのだろうけれど。

でも、そのSさんという子、僕が長い時間かけて、根気よく?版下の校正をしていて、終わった瞬間に、フーっと一服タバコをすったら、「おいしいですか?」と言ってくれた。

その一言はちょっと印象に残ってるなと思う。

そんなに彼女を話したことないけれど、、、。

思えば、その直後くらいから、喫煙マナーということが言われるようになって、僕が勤めていた会社でも2000年代に入ると、喫煙場所に行ってタバコを吸うようにということになった。

すると、タバコを吸って帰ってくると、5分経過、と言ってくる人がいたりして、3回タバコをすうと合計で15分経過とか言われり。

そんな時間、測ってるのも仕事に集中していない証拠なのではと思いつつも、言われると、まあ、適当に笑ったりしてごまかしていた。

最近は、マンションの敷地から離れたところまで携帯灰皿を持って出ていって、タバコを吸っている人を見ると、本当に、タバコの税金払ってるのに(最近は税率どんどん上がってきている)、あそこまで隅に追いやられてちょっと かわいそう と思ってしまう。(個人の感想です)

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最近、電車で、まったりとした感じで缶入りの飲料を飲んでいる人を見かけると、「あれ、お酒かな」と思ってしまう自分がいる。

しかし、その缶がお酒かどうかは見たらあかん と自分に言い聞かせている自分がいる。

缶入りのお酒を飲んでいても、別に一人でまったりと飲んでいるのならば、飛沫感染の可能性が高まることはないだろうし(個人の肌感覚です)へたに、缶入りのお酒に目をやって、その人の気分を害してトラブルになったら、まずいと思っている自分もいる。

しかし、以前なら、電車で誰が何を飲んでいようと気にならなかったのに、最近は気にしてしまう自分がいる。

やはり、社会の規範やルールにより何が気になるかというのは同じ人間でも異なってくるのだなと思う。

ただ、なんとなく最近、近距離移動の車内でも、おそらくはアルコール飲料だろうなという感じの飲み物を飲んでいる人、増えたように思う。

やはり、コロナで、会社帰りに一杯 というのができないせいもあると思う。

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今日の読売新聞の人生相談に、祖母が作ってくれた、手作りの料理を見ると、ちゃんと手を洗って作ってくれただろうか、マスクをして料理してくれただろうか、気になってしまって、なかなか、食が進まない自分がいる という主旨の相談をしている若い女性がいた。

こういうのも、コロナで、手洗い、マスクと言われているうちに、手作りの料理まで、気になってしまう、という可能性もあるように思う。

本当に、人間の意識って周りにどんな規範があるかで、変わってくることが多いな感じる。

規則は必要なものではあるけれど、あまり、規則規則と言い過ぎると、窮屈になってしまったり、間違った意識を産んでしまうこともあるように思う。

まずは、このコロナということ、やはり、だんだん収束していってくれることを願わずにはいられない。

それはともかく、いちにちいちにち無事に健康に過ごせますように、それを第一に考えていきたい。





蘇る過去の記憶

2021年06月30日 | 日記
イチロー選手の全盛期にはメジャーリーグの打撃成績をネットで見るのが楽しみだったことがある。

というよりも、毎日の日課にしていたほどだ。

イチロー選手の安打数がリーグで何位か、打率はどうか。

そのようにしてチェックする中でイチロー選手と打率を争っているジータ選手など他の選手の名前も頭に入ってきたりした。

でも、イチロー選手の全盛期が過ぎて、常にスタメンという状態でなくなったころから、そんな習慣はなくなってしまった、、、、。


今日の新聞にメジャーリーグの大谷選手25号本塁打と出ている。

ええ?6月でもう25本って、全盛期の王貞治と同じくらいのペースやん。と思った。

※実際に王貞治さんが25号を打ったのがいつとか記録を紐解いたわけではなく、「肌感覚」としてそう思った。

それはすごい、ついメジャーリーグの中ではそれはどの程度の位置なのか知りたくなった。

それで、ネットでアメリカンリーグ打撃十傑を見てしまった。

本当にメジャーリーグの打撃十傑を見るのってイチロー選手の全盛期以来、何年ぶりだろうと思う。

かれこれ10年ぶりか。と思う。 大体の感覚だけれど、、、

すると、すごい、ネットの最新の情報では本塁打26本で、ゲレロ ジュニア選手と並んで本塁打数アメリカンリーグトップ。

でも、こういう機会に、アメリカにはすごい人がいるんだなと再認識することになる。

本塁打数は26本とゲレロ ジュニア選手と 大谷選手は同じでも、ゲレロジュニア選手の打率は.342りん 大谷選手は.276りん

ゲレロ ジュニア選手って、打率.342りんで、本塁打26本って、三冠王取ったときの落合選手なみのペースやんと思ってしまう。(感覚的に)

あの頃はシーズン終盤になって、ロッテの優勝の見込みが消えると、ロッテファンでさえチームの優勝は諦めても落合の三冠王を応援するという雰囲気だった。

(メジャーリーグと日本のリーグでは単純比較はできないとわかっていても、メジャーリーグの過去の記憶があまりないので、王貞治とか落合博満とかそういう人の記憶と比較してしまう)

結局、大谷選手をダシに、過去の自分の記憶にふけってるやん、と思ってしまうけれど。

しかし、こういうすごい選手が出てくるから、過去の記憶がよみがえり、また、その偉大さをしのぶことになる。

そういえば、大谷選手のメジャーデビュー当時、多くの人が無理やろうという中、「大谷選手 二刀流やったらいいじゃない」 と言っていたのは落合博満さんだったっけ。確かそのような記憶が。


「人間が生きる意味は、世代から世代へと大切なものをつないでいくこと」 と言った人がいたけれど、そういう言葉もこういう機会に思い起こすことになる。


どの道をとってもそのとおりだなと。

それは、ともかく、いちにち、いちにち、無事に健康に過ごせること、それを第一に願っていきたい。






知名度について

2021年06月29日 | 日記
今日の読売新聞の編集手帳にこんなことが書いてある。

“”
コロナ禍で休止中だが、日本に来る海外客には地域により意外な人気訪問地があるという。イスラエル人は第二次大戦中、危険を冒しユダヤ人にビザを発給した外交官 杉山千畝の岐阜県。タイや台湾の人が猛烈な地吹雪体験に訪れる青森県などである。“” 以下略

これを読んだ瞬間、「あれ、僕、岐阜県の出身だけれど杉山千畝って知らなかった」(恥ずかしながら)と思った。

要するに、そこに興味がないから知らなかったのだと思う。

まあ、イスラエルといえば、戦争していることが多いから、野蛮な国のように思われているけれど、イスラエルフィルハーモニーというオーケストラは、とてもうまいし、世界に先駆けてコロナワクチンの接種を進めていった、知られざる先進国ということは知っていたけれど、、、。

あと、イスラエルがなぜ あんなに戦争をしているのかということがどうもわからなくて、イスラエルがからむ戦争のニュースについていけないので、ちょっと調べてみたら、問題は旧約聖書の時代にまでさかのぼってしまうような、長い、長い、歴史の流れがからんでいるので、もう、調べる根気がうせてしまい、未だに、イスラエルの戦争の問題はわからないままでいる、、、。

ちょっと話が横道にそれてしまったけれど、自分が岐阜県の出身なのに杉山千畝をろくに知らなかった、しかし、イスラエル人にとっては、日本に来たときその故郷、岐阜県を訪れたくなるくらい、まあ有名なのだろうか と思った。

そして、有名、無名って、いったいどういうことなのだろうと思った。

それに興味がある人にとっては有名でも、興味がない人にとっては無名ということは世の中にいくらでもあると。

僕も知名度ということに関する執着というのは、あるので(有名になりたい願望というよりも有名な人をつい、羨ましいと思ってしまうという執着が僕の場合は強いように思う)、有名、無名と言っても、興味のある人にとっては有名でも、そうでない人にとっては無名、と思うと、なぜか知名度ということに関する執着心が少し楽になるように感じる。

僕自身は有名な会社に勤めていなかったけれど、僕の父は、日本の3大海運会社の一つと言われる○○汽船という会社に勤めていた。

それで、その父に、「今、○○汽船の社長って誰?」と聞くと。

「いやあ、もう自分が会社をやめてからの社長は興味がないから知らんわ」という答えが帰ってくる。

まあ、その答えを聞いて、僕も、まあ、そんなもんかと思ってしまう。

僕が勤めていた会社の上司に「ナカシマさんのお父さんって、どこに勤めてたの?」と聞かれたことがある。

その時「○○汽船です」と正直に答えたら

「それって、本四連絡橋ができたときにつぶれた会社ちゃうの?」と聞かれたので
「いえ、父が勤めていた会社は、主に国際航路の会社でしたので、本四連絡橋の影響はおかげさまで、それほど受けませんでした」と答えた。

そして、思った。上司は四国の出身で、今は明石に住んでおられるので本四連絡橋に興味があるんだろうなと、、、。

まだ、僕が会社に入社して間もない頃、ある人に、後にメジャーリーグでも活躍した長谷川滋利投手の話題を振られて、「ごめんなさい、僕、その人知りません」と正直に答えたら。

その方は「パ・リーグの新人賞とりましたやん」とおっしゃって、不機嫌そうな顔になってしまった。

それで、僕は申し訳ないことしたなと思って、長谷川滋利投手のプロフィールをネットで調べた。 この次からは話題についていけるようにと思って。

すると長谷川滋利投手はその不機嫌になってしまった人と出身地が同じということがわかった。

ああ、不機嫌になった理由はこれだな、と思った。

でも、自分と同じ出身地の選手を話し相手が知らないということで不機嫌になってしまうなんてなんて度量の狭い、、、とも思った。

その後、何年かその人と会社で接していく中で、その人は「課長も言ってましたやん」とか「これは僕が部長から直接教わりました」とか、そういういわゆる 虎の威を借るタイプの発言が多いということに気づいた。

一事が万事というか、他人が自分と同郷のピッチャーを知らないと不機嫌になってしまうのと、部長や課長の威を借るのはいわば同じパターンの心理なのだなと思った。

ところで、今日の読売新聞の人生相談のコラムには、兄や、結婚していく周りと自分を比べて、落ち込んでしまう30代の女性の相談が載っている。

それを読んで、30代ってそういう年頃だなと、しみじみと僕自身も思う。

僕も30代の頃、「あいつが書いた本、売れてるらしいぞ」とかいう話を聞いて、あせりを感じたり、羨ましいと思ったりしたことがあった。

ところが60歳に近くなると、そういう気持ちは、だんだん小さくなってくる。

それは、なぜかというと、30代の頃に、「あいつの本売れてるぞ」とか、言われていた本がすでに絶版になってしまっていたりするのをこの年令になると、いろいろと経験してくるからだ。

いまも、「ポストコロナの世の中」とか、そういう感じのタイトルの本が広告によく出ているけれど、そういうタイプの本って、賞味期限があって、それをすぎると、もう売れなくなってしまう。

そういうことをある程度長く生きて経験してくると、ただ、本を書いたから羨ましいという気持ちはなくなるというわけではないけれど、30歳代のころに比べるとずいぶん小さくなっている。

知名度とか、そういうことに関する執着を離れて生きていければいいのにとは思うのだけれど、若い頃に比べると、そういうものは相対的に低くなったけれど、なくなったわけではない。

いろんな執着を離れて生きていければいいとは願っているのだけれど、、、。

それはともかく、いちにちいちにち、健康で無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。










プールの思い出

2021年06月27日 | 日記
今日の読売新聞の投書欄に徳島県の67歳の女性のこんな投書が載っている。

“”22年前、夫婦で北欧旅行を楽しんだ。目一杯観光する日が続きホテルにチェックインすると疲れてバタンキューだった。

午後3時と早く到着した日があった。私は周辺の散策やショッピングを満喫しようとウキウキ気分になっていた。

ところが、ロビーに向かう途中に真っ白で素敵なプールがあり、グラビアから飛び出してきたような水着姿の金髪女性たちでいっぱいだった。集合を呼びかける添乗員の声もむなしく、男性陣の目が釘付けになっている。夫の目も輝いていた。

すると 嫌な予感が的中してしまった。夫は「土産はいつでも買える。せっかく水着を持ってきたのでプールに行くぞ」と宣言した。

私はプールに飛び込んでいく勇気がなく、水泳をせずに貴重な自由時間をホテル内で過ごした。
がっかりだった。“”


うーん、どうなんだろう、67歳の女性の22年前だから45歳。勇気を持ってプールに飛び込んでいってもよかったのに、と思ったりして、、、。

男性陣の目が釘付けになったかもしれない。

しかし、そういうのも緊張するかもしれないと想像したりして、、、。

まあ、女性の気持ちは男にはわからないですよね。

ショッピングを満喫したかった女性に対して、夫は土産はいつでも買えると言ったという。

女性にとってショッピングは、買うことよりも見ることが楽しいという場合もあるし。

多くの場合男にとって、買い物は、目的のものを一直線に狙っていって買うというケースも多いし、、、。

でも、女性の、ウインドウショッピングにはとても及ばないけれど、けっこう僕もお店を見て楽しむということはある。

1990年代、今よりもCDショップの売り場面積がはるかに広かったときには、CD量販店に3時間位いても飽きなかった。

休日の翌日に、上司に「ナカシマさん昨日 何やっとんたん」と聞かれて、正直にCD売り場に行ってましたと言ったら、そういう趣味のまったくない上司は「わからん」という顔をしていた。

その上司は月曜日になると「ナカシマさん、昨日何やっとたん」と聞いてくるのが半ば習慣化してしまって、もううんざりしていたというか、それが、悩みだったことがあった。

まともに答えても、話が通じないし、ごまかして答えるのがあまりうまくないし、、、。

そんな悩みをある女性に話したら 「何聞かれても、寝てました というのを習慣にしたらどう?」と言われて、そういう受け答えって女性は強いなと思ったことがある。

実際、年始に会社に出ていって、男性職員から、お正月はどうでしたか と問われると「寝正月でした」と答えていた女性がいた。

その女性は、ちょっとおとなしい子だったけれど、容姿がわりと可愛くて、男性の社員にいろいろ、その手の質問をされることが多かったから、自衛手段をとっていたのかもしれない。

広瀬香美さんの「ドラマチックに恋して」という歌の歌詞の一節にこんなのがある。

“”髪を切れば 失恋したの? 相手誰? 男はみんな保守的ね 今どきそんな子はいない“”

というのがあるけれど、男の詮索にうんざりする女性の気持ちが現れているのかもしれない。

男の詮索に、どこまで女性は応じたらいいのか。

隠しすぎてもいけないし、出しすぎてもいけない。

微妙なバランスが大切なのかなと思う。(あくまで個人の意見です)

微妙な答え方をされて印象に残っていることっていくつかある。

ある女性に、「僕は昭和37年生まれです、あなたは僕より年上ですか、年下ですか」とたずねたら「東京オリンピックを知らないのが自慢です」と言われた。

うーん、前回の東京オリンピックのとき僕はまだ2歳で僕も東京オリンピック知らない。

だいたい、同じくらいの歳ということはわかるけれど、僕より年上か年下かはわからない。

別の機会にその方に「〇〇百貨店が開店したとき、小学校△年生で、できたての百貨店に行くのが楽しみでした」と言われて、まあ、ほぼ歳がわかったけれど。

ただ、僕は、基本的に、答えるにしろ、答えないにしろ、ぼやかした言い方ではなくて率直に言ってくださる人が好きかなとは思う。(個人の意見です)

僕は、見て楽しむショッピングも好きという話の続きだけれど、今日スーパーマーケットに真空パックのようになった鮎の塩焼きが出ていた。

僕は、この季節になると長良川で、鮎を釣る人や、やな という鮎をとる仕掛けを子供の頃、日常的に見ながら育ったので鮎の塩焼きが出ているとつい、じっくりと眺めてしまう。

形を見ると、きっと養殖の鮎だなと思う。お腹が凹んでいるので、はらわたをとって調理してあることもわかる。

それでお値段が一匹398円。

眺めて風情を楽しむ気にはなっても買う気にはならない。

398円あれば、のり弁当が買えるもの。

鮎一匹ではお腹ふくれないし、、、。

でも、やはり、鮎を見るのは嬉しいものだなと思う。

岐阜県民謡郡上節の歌詞をひとつ

“”お国自慢にゃ 肩身が広い 郡上おどりに鮎の魚“”

ああ、いいな と思う。

それは、ともかく、いちにちいちにち無事に健康に過ごせますように、それを第一に願っていきたい





思いを馳せる

2021年06月27日 | 日記
読売新聞の 四季 というコラムに夏目漱石のこんな歌が載っている。


“”青梅や空(むな)しき籠に雨の糸“”

この句に長谷川櫂さんのこんな文章が添えられている

「青梅を摘む人もなく、空っぽの籠に雨が降っている。ところがこの句には『悼亡』の前書き。

いったい誰の追悼句かと思えば、門下の松根東洋城が飼っていた文鳥が死んだのだという。

空っぽの鳥籠に雨が降っている。『漱石全集』から」と。

※悼亡とは、親しい人の死を悲しむということです。

うーん。鳥の死にも、こんなに悲しみを感じてしまうのか。

籠というあるものを眺めながら、亡きものに思いを馳せる。

人間の心の本質に迫っているとも言える。

まさに天才的。それ以外に言葉が浮かばない。

そんなにたくさん読んだことないけれど、夏目漱石ってすごい芸術家なんだなと改めて思う。

思いを馳せる。今の、人々がともすれば失ってしまっている心情であるようにも思える。

「愛を失ってしまったら、もう 人間ではありません」岐阜の八王源先生がそうおっしゃっていたことをしみじみと思い出す。

それは、それはともかく、いちにちいちにち無事に過ぎますように、それを第一に願っていきたい。