12月16日 名古屋フィルのベートーヴェン第九を聴きに行く。
会場は愛知県芸術劇場コンサートホール。
会場の入り口を入ると 女性の係の方が 後ろから 追いかけてきて 「すみません 検温お願いします」とおっしゃった。
「はい」と言って立ち止まると 女性は 僕の手首のところに 検温の測定器をあてるのだけれど 測定器が反応しない。
セーターの上から 測定器を当てているからだ。
たぶん とっさに 「セーターをまくってください」とは言いにくいのだと思う。
「手首で検温ですね」と僕は言って セーターの手首をまくると そこに 女性は測定器をあてて 無事に検温が 終わった。
やれやれ。
たぶん 入り口の 外で 検温をするべきなのだろうけれど 僕が 自動検温の機械をスルーしたのか それとも 女性が 僕を 見落としていて 追いかけてきたのか それは わからない。
でも 後ろから 係員の方に 声を かけられると ドキッとすることは 事実。
特に 僕のように 過去の人生で 私服警官に職務質問されたり 機動隊の人に呼び止められてかばんの中をあけて見せるように言われたり カラオケの 店員に 自動支払機をスルーしたと 勘違いされて 大阪のなにわ筋通りを50メートルくらい 追いかけられたりした 経験のあるものは もう 警察官や 警備員 会場係員は ちょっと 苦手 という意識があるので より ドキッとしてしまう。
まあ 女性の係員の方も 遠慮があるから 僕に セーターのそでをまくれ とは言えなかったのだろうけれど、、、。
こういうところにも いわゆるコロナ禍というものは 終わっていないな と 感じてしまう。
キープディスタンスの シールが床に貼ってある一方で 混雑してくると 「おつめに なってください」と係の人が みんなに 声を かけているのを きくと やはり キープディスタンスと言っても ここは 国土の大半が山で 平地は人口密度のたかい 日本だな と思ってしまう。
さて 今回 指揮者はオーラ ルードナー という 外国の方だった。
久しぶりに 外国人の指揮者でオーケストラを聴くなと思う。
最初に演奏されたのは ラーションの シェイクスピア劇のための4つのヴィネット「冬物語」 作品18
演奏の 冒頭で チェロの音がいきなり ゴーっと 聴こえてきて ああ ベートーヴェンの田園の始まり方のようだ と思った。
ベートーヴェンの 田園も 最初の チェロの音が ゴーっと割とはっきり 聴こえるタイプの演奏がある。 僕が知っているものでは フルトヴェングラーが1952年ころにウィーンフィルを指揮して たぶん スタジオで録音したものが そんな 感じだ。
さて、名古屋フィルの演奏が進んで 弦の柔らかい音に乗って 木管が渦巻くように盛り上がっていくところがあったけれど そこを 聴いて うーん なんだか スメタナの モルダウのような盛り上がり方 と思った。
もう 年齢が60歳になると 自分が過去に聴いた音楽が 頭に いろいろ 浮かんできて 連想のお花畑のようになってしまう。
このように 冒頭付近のことは 二日たった今でも覚えているけれど そのほかのことは 忘れてしまった。
ただ、 最初に なんだか 田園の始まりのようだ とおもった その 第一印象が 僕には 大きくて 全体に 心が和むタイプの音楽だったように思う。
なんだか よかった。
次に ベートーヴェンの交響曲第9番が演奏された。
演奏は ピリオド奏法 あるいは ピリオド奏法的 と言うのとは 違うと思うのだけれど テンポが速くて 引き締まった感じのものだった それは 第一楽章から 第三楽章にかけて 言えることだったと思う。
第二楽章で弦楽器の音が 細かく動くところ そして 第四楽章でウィキペディアの楽曲紹介に『Alla marcia Allegro assai vivace 変ロ長調 8分の6拍子
"Froh, wie seine Sonnen"
行進曲である。
それまで沈黙を守っていた打楽器群が弱音で鳴り始め次第に音量を増し、その上を管楽器が「歓喜」の主題を変奏する。
続いて、テノール独唱が「歓喜」の主題の変奏の旋律で"Froh, wie seine Sonnen"「神の計画」を歌い、それに男声三部合唱(第1テノール、第2テノール、バス)、続いて管弦楽の伴奏が力強く重ねて入ってきて一つの頂点を作る』と書いてあるところで その 管弦楽の伴奏の音が細かく動くのだけれど それらの細かい音の動きの弦楽器のアンサンブルが 引き締まっていて 聴いていて 気持ちが 充実するのを感じた。
それで 上記の第二楽章の 弦の音の細かい動きのところと 第四楽章の弦の音の細かい動きのところを心の中で歌ってみて気づいたのだけれど 基本のリズムの形が 同じになっている。
この歳になってそれに はじめて 気づいた。
気づくのが遅いかもしれないけれど 何度聴いても 新しい気づきを与えてくれる点で やっぱり ベートーヴェンはすごいな と思ってしまう。
そして そういう気付きの きっかけを与えてくれるのは 生演奏だということにも気づく。
家で 漫然とCDを聴いているとなかなか気づかないで終わってしまう。
そして、こういう 楽章間のリズムの 整合性など 曲全体に心を配る姿勢が きっとベートーヴェンは極めて卓越していて それゆえに 様々な作曲家に与える 影響力も大きいのだと感じる。
ずっと オーケストラの方に視線をやっていて 第四楽章で なんだか 合唱の声が くぐもった感じだなあと思って 高いところに目線を移すと 合唱団の人は みんな マスクをしていた。
うーん こういう ご時世だから 仕方ないと 思いつつも 残念 と感じた。
確か 定期演奏会で マーラーの復活を やったときには 合唱団は マスクをしていなかったように思う。
なので 今回は マスクなしで すると 思っていたけれど やはり いろんな 事情があるのだろう。
こういうご時世に 書いては いけないことかもしれないけれど コロナを 忘れたくて 第九のコンサートに 行っている という面も あるのに 逆に マスクの合唱団を見て コロナを 思い出す 結果に なってしまった。
第九は 録音でも 生演奏でも 何度も 聴いていて マスクをしないときの 響きが 耳に 残っているから やはり ギャップを感じてしまうな と思った。
プログラムの楽曲解説の 第三楽章の紹介で 「(第三楽章の)後半に『目覚めよ』という警告のようなファンファーレが鳴り響く」と書いてある箇所がある。
そのような 箇所を はじめとして 第一楽章から 第三楽章まで 金管楽器の音が 抑え気味になっているな と思う場面が 何度かあった。
それも ひょっとしたら 合唱団が マスクをするから 指揮者の方が 演奏全体を通しての バランスを 考えて 金管を 抑え気味にしたかもしれない と ちょっと深読みをしてしまった。
第三楽章までで 高らかになる 金管に 耳が 慣れてしまうと マスクをした 合唱の声が より 小さく 聴こえてしまう可能性があるから、、、。
ただ、 マスクをすることの デメリットとして 音量的な ことだけではなく 細かい表現が できなくなってしまうこと が ある。
ひょっとしたら 音量的なことよりも 細かい表現が マスクで妨げられる と言うことの方が 個人的には 気になったのかもしれないと思う。
たぶん これで 3年連続で マスク着用の 第九を聴いたような 気がする。
あるいは マスクなしで 合唱団の人も また その 関係者の方も 何も気にすることなく 第九を歌えるようになった時が コロナ禍 が 終わった時なのかもしれないと思った。
そういういみでは やはり 第九は 象徴的な 音楽だなと思う。
コロナが収束し マスクなしの 第九を 聴ける日が 来ることを 祈りたい。
それは ともかく いちにち いちにち 無事にすごせますように それを 第一に 願っていきたい。
■残酷な天使のテーゼ
高橋洋子さんの「残酷な天使のテーゼ」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものです。
聴いていただければ幸いです。
リズムに勢いがあって好きな歌です。
↓「残酷な天使のテーゼ」をカラオケDAMの音源で歌いました。