ケンのブログ

日々の雑感や日記

遊びは夜 人の顔見えぬほど

2021年01月31日 | 日記
僕が購読している新聞の今日の紙面の四季というコラムに清少納言 枕草子の次のような文章が紹介されている。

「あそびは夜。人の顔見えぬほど」
これに歌人の長谷川櫂さんが解説というか、ちょっとした文章を添えておられる。

こんな文章だ
“”「遊びは夜」とはなんと素敵な言葉だろう。そこにそっと「人の顔見えぬほど」と添える。さすが清少納言、話がわかると感心するのだか、多くの解説者は、「あそび」は管弦 つまり音楽とおっしゃる。何と堅物な“”と。

清少納言の文章も素敵だけれど。それに添えられた長谷川櫂さんの文章も同じくらい素敵だなと思う。

僕は今、特に早寝早起きというわけではないのだけれど、数年前から、夜、外に出ることがとても少なくなってしまった。

でも、まあ遊びは夜。人の顔みえぬほどというのはわかるような気がするし、素敵だなとも思う。

やはり、人に知られていない、秘められた楽しみというのはあったほうがいいように思う。

また、特に男女の仲はあまり人に知られるとなにかとうまく行かなくなってしまうことも多い。

やはり 「人の顔見えぬほど」というのが基本だと思う。

こういう基本ラインというのはきっと古典的というか、人の心情としてあるものなのだと思う。

これを見て思い出すのは 郡上節の次の歌詞

“”雪の降る夜は 来ないでおくれ 隠しきれない 下駄のあと“”

たぶん通い婚の時代を想定した歌詞なのだと思う。

雪の降る日に来られると 雪の上についた下駄のあとで あの人が来たと 皆にバレてしまう。
だから、雪のふる夜は来ないでおくれ。

とてもよくわかる心情だなと思う。

百人一首にはこんなのがあった

“”忍ぶれど 色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで“” 平兼盛

忍んで隠していたけれど 表情に出てしまった、私の恋は 何か考え事をしているのですか と人から言われるほどに

というような意味になるのだろうか。

いい歌だなと思う。


連想はさらに続く

浜口庫之介さんの作詞作曲で石原裕次郎さんが歌った
「夜霧よ今夜もありがとう」

一番はこんな歌詞だ

“”忍び会う恋を包む夜霧よ 知っているのか 二人の仲を
晴れて会える その日まで 隠しておくれ 夜霧 夜霧よ
僕らはいつも そっというのさ 夜霧よ今夜もありがとう“”

浜口庫之助さんは 旧制教育を受けた世代の人だから、こういう古典を下敷きにしたような歌詞が書けるのだろうか。

最近、こういうしみじみとした情感をたたえる歌詞って少なくなったなと思う。

石原裕次郎さんの歌も甘い声で良かったな、、、。

忍ぶって、隠すという意味の他に、耐えるという意味ももちろんあるけれど、今のコロナという時代にあっては、耐える 、忍ぶという気持ちも大切であると思う。

ところで旧約聖書に出てくるモーセの十戒の中に
「あなたは あなたの神 主の名をみだりに唱えてはならない」という一節がある。

信心もあまり、神様 神様とみだりに口に出していうよりも 心の中で忍んで祈ったほうがいいということだと思う。


さて、清少納言といえば思い出す印象深い文章が一つある。

やはり枕草子の中のこんな文だ。

“”遠くて近きもの 極楽。舟の道。人の仲“”

極楽が意外と近いというのはなんとなくわかるような気がする。

多分、現代の社会では、あまりにも科学信仰が進んでしまって、極楽を近いと感じる感性が人の中から消えてしまっているようにも思える。

そして、科学信仰が進んでいる割には、科学というのはごく限定した範囲でしか成り立たない、人間の知識であるということを意識していない人はあまりにも多いように思う。

極楽を近きものという感性がもっと人の心の中に残っていれば、あるいはコロナもコロナ禍といってここまで禍(わざわい)として受け止められることもないも知れない。

もちろん安易に仮定法でものを語ることは慎むべきかも知れないけれど。

「遠くて近きもの 人の仲」 の人の仲は男女の仲と説明されることが多い。

まあ、そう言われればそうかなと思うし、また、そうあってほしいとも思う。同性どうしでも言えることだとは思うけれど。


さて、春の甲子園選抜高校野球はどうやら開催される見込みのようだ。

東海地区では中京と県立岐阜商業が選ばれた。

戦前からの伝統ある2つのチームが選ばれるというのはある意味嬉しいことだなと思う。

その県立岐阜商業の校歌 一番の出だしはこんな歌詞になっている

“”緑したたる金華山 水清冽の長良川“”

岐阜の人なら分ることと思うけれど、もうこの一節だけで岐阜の全てという気がしてくる。

やっぱり旧制時代からある高校の校歌は違うなと思ってしまう。

自分が卒業した高校の校歌は忘れてしまっているけれど、県立岐阜商業の校歌は少なくとも一番はなぜか覚えている。

不思議だなと思う。

その校歌が甲子園に流れるかどうか。

最近、岐阜県はあまり強くないから、まあ期待してがっかりするくらいなら最初から期待値を低くしておこう。

そのほうが精神衛生のためによいように思う。

こういう言い方は県立岐阜商業の関係者の方には失礼なのだけれど、、、。

もちろん心の中では、中京と県立岐阜商業の健闘を祈っています。


今日は寒い

2021年01月30日 | 日記
新聞を見ると緊急事態宣言を延長することで政府が調整に入ったと出ている。

僕自身、こういうニュースを見ると経済は大丈夫だろうか、また、この長引く自粛生活に僕も含めてみんなどこまで耐えられるだろうかという気持ちが強くなってくる。

コロナが騒がれだしたころ、電車でちょっと僕が咳をすると、さっと席を移動する女性に何度が遭遇した。

しばらく、そういうことはなかったけれど、今日久しぶりに電車の中で咳をしたら、少し間隔をあけて隣に座っておられた女性が、さっと席を移動していかれた。

もちろん僕が咳をして、女性に不快感を与えていることは間違いないけれど、さっと席を移動された僕の方もあまり感じのいいものではない。

要するにお互いに「感じワル」と思っているわけだけれど、もう、こういう思いするのがもし、何年も続くとすれば、コロナで体調を壊す人よりも、コロナによるストレスで体調がおかしくなる人のほうが多くなるのではないかと思えてきたりする。

今日は、そういうわけで、席を移動していかれた方がいたので、余計に咳のことを意識してしまって、我慢している上に、外気はとても冷たく、電車は窓をあけて走っているせいか、しゃっくりが出てきてしまった。

まあ、僕は気温が急激に変化すると、鼻水が出たしたり、しゃっくりが出だすということはもともとあるので、ストレスのせいにするのは短絡的かも知れないけれど、、、。


しかし、これだけ寒いと電車が窓をあけて走るのは身に応えるなと思う。

電車から降りたときは身体が冷え切っているという感じで、スーパーマーケットで買い物をしていても、なんか、体が変な感じと思ったりした。

東北で震災があったとき、福島で放射能何ミリシーベルトとかいう情報が毎日のように出ていて、その情報に怯えて、福島から九州あたりまで逃げていって、そこで行き倒れのようになってしまった女性もいるというニュースを読んだような記憶がある。

結果論だけでいうと、逃げたことが逆によからぬ事態を招いてしまったと。

本当に、ウイルスとか放射能とかそういう情報に怯えてわけがわからなってしまう人はどちらかといえば男性よりも女性のほうが多いようにも思える。

何日か前にも、新聞に普段は、自殺する人の割合は、概して女性よりも男性のほうが多いけれど、コロナのときに限って言えば、逆に女性で自殺される方の割合が男よりもかなり多くなっていると出ていたと記憶している。

新聞には、女性はパートなど非正規雇用の割合が男よりも高く、また、コロナの危険にさらされる仕事につく人も多いので、というようなことが、考えられる原因として書いてあったと思う。

なので、コロナの情報に怯えて自殺されるという僕の考えは違っているかも知れないけれど、、、。

街を歩いていたら、コロナの情報は嘘っぱちだという内容のビラを配っていた。ビラを配る人のそばに警察官が何人か立っていたのでひょっとしたらデモがあったのかもしれない。

そのチラシに目を通すと、コロナで経済が不振になり、一等地の商業ビルが外資に買い占められているとか、PCR検査やワクチン開発は巨大利権だとか、ワクチンの危険性とか、まあ、そう言われればそのとおりだなあと思えることが書いてある。

ただ、こういうチラシを配る運動をする人が出てきて、警察官も街に繰り出すとなると、やはりみんなの不安もかなり高くなっているんだなということは少なくとも想像できる。

確かにこのコロナを境に、急に世の中のデジタル化の動きが加速して、文部科学省も、今まである程度デジタル教科書に慎重だったのが、急にデジタル教科書の方向にかじを切り出したりして、何か不自然だなと思えることもいくつかある。

僕は個人的にデジタル教科書になったら、勉強に集中できない子が増えるような気がしてとても心配だ。

僕自身もデジタルコンテンツに出ている文章は、つい太字のところだけ読んだりとか、流し読みしてしまうことが多いから、、、。

と、まあ考えていたらきりがないけれど、とにかく、毎日を無事に過ごせますようにとそれを一番に願っている。

先日タバコ屋さんに行ってそこに手伝いに来ている女性に、「今日はまだ寒さマシじゃないですか」と言ったら、女性は思いっきり考えて「でも、気象情報では、寒いようなこと言ってましたよ」と返してこられた。

見るとストーブが炊いてあったので、ああ、今日は寒いのに僕は歩いてきたところだから、寒くないと早合点したんだなとその時、思った。

それで、今日はタバコ屋で「今日は、間違いなく寒いですよね」と言ったら、手伝いの女性もご主人も「それは、もう、今日は寒いですよ」と返してくださった。

ああ、よかった。








大相撲大阪場所開催断念

2021年01月29日 | 日記
今日は、寒かったなと思う。

家の中で色々動いているうちは、マンションは気密性が高いのでそれほど感じなかった。

昼間も割とさっさと歩くのでまあ、それほど寒さを感じなかった。

夕方になって、ちょっとゆっくり歩いていたら、体が震えるような感じになってきて、いやあこれは寒いわ と思った。

本当に寒い。

僕は季節を先取りして考える癖があって、もうすぐ立春とか、日も長くなったなあとか思っていたけれど、考えて見れば、立春は近いもののまだ大寒の真っ最中、それは寒いはずだと思う。

新聞に大相撲大阪場所は開催断念と出ていた。

この10年間、なんだかんだ言って、大阪場所は行かない年よりも行く年のほうが多い。

昨年は大阪場所はあったけれど無観客開催ということで、行くことができなかった。

昨年、大阪場所が無観客になったときには、また来年があるさと思っていた。

その来年になってみたら、こんどは無観客で開催どころか開催そのものが断念されるって、やはりコロナが長引いていることを改めて実感する。

人とこの季節、話をするとき、なんだかんだ言って3月はまだ寒いですね と僕は言うことがある。

そのとき僕は大概、大阪場所のことを思い浮かべる。

3月に大阪場所を見に行って大阪府立体育館のベランダに出てタバコを吸うと寒いと感じることが多い。

それで僕は、3月はまだ寒いという印象が心に焼き付いてしまった。

3月場所が終わってしばらく経つと本当に暖かくなるというイメージだ。

本当に暑さ寒さも彼岸までということになるのだけれど。

それにしてもこのコロナ禍、いつまで続くのだろう。なんとか毎日、無事に過ごせますようにとそれを一番に願っている。


語気には気をつけて

2021年01月28日 | 日記
夕方、日が暮れて間もない時刻に、大阪の下町風情のある街の駅のホームに立ったら、向かい側のホームの屋根の上に、ほぼ満月と呼んでいいまん丸い月が出ていた。

今日は1月28日。28日はお不動さんの縁日。1月28日は一年で最初のお不動さんの縁日だから初不動ということになる。

そんな日に満月に近い月を見るのは縁起のいいことなのだろうか。

最近、何かと暗い気持ちになることもあるからこれは縁起のいいことなのだと思いたい。

家に帰ってきて月齢を調べると14.9になっている。つまり、14番目の月。

松任谷由実さんの「14番目の月」という歌に

“”次の夜から欠ける満月より
14番目の月が一番好き“”
 
という一節がある。

本当にそのとおりだなと僕も思うこともある。
そして、今日は丁度、その日にあたったんだなと思う。

もうコロナやし、どんなことでも良い方に験(げん)を担いでしまいたい気持ちになる。

これは、僕の身内の話だからちょっと書こうか迷ったのだけれど、昨日、母から電話があり
「テレビを見てたら、女の国会議員がきつい言葉で、菅首相に詰め寄って、さすがに菅さんもムッとして、それは失礼だと言っとったよ。本当にあれはきつい言葉、あんなのが女性の代表ということになると、逆に女性の評価が下がってしまわないかと心配やわ」という主旨のことを話していた。

そして、今日また電話がかかってきて「あの、昨日、話しとった女性の議員、レンホーという名前やったわ」と教えてくれた。

それで、僕もそのニュースに関連してネットに出ていた動画を見てみると、確かに、見ていて、胸が苦しくなってくるくらいきつい口調で、蓮舫さんは菅首相に詰め寄っている。

ネットの動画は一つ検索すると、関連する動画がいくつも出てくる。

蓮舫さんが国会の委員会で質問しているそういう動画を見ていると、蓮舫さんは、与党の不正を追求してやろうという気持ちが強すぎて、あのように強い語気、口調になってしまっていることが感じ取れる。

不正を追求するというのはもちろん必要なことだとは思うけれど、あまりにもその気持ちが強すぎると、その不正を追求する姿勢が一つの悪ということになってしまうということになりかねない。

僕はクリスマスイブの日だけ一日限定クリスチャンということで、京都河原町のカトリック教会のミサに出たことが何度かある。

そういうミサではしばしばこのような聖句が読み上げられる。

「いと高きところには、栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」 新約聖書 ルカによる福音書2章8~14節

簡単にこの言葉を要約すれば
「天には神に栄光、そして地には人々に平和がありますように」ということだと思う。

みこころにかなう人に平和あれという聖書の書き方は、平和をみ心にかなう人に限定してしまっているようで僕はあまり好きではない。

まあ、とにかく簡単に言えば、天には神に栄光 地には人々に平和 というところがこの言葉のミソだと思う。

これは、西郷隆盛に関連してよく言われる「敬天愛人」という言葉とも相通じるところがあると思う。

平和というのは結局は、人を愛するところから生まれると思うから、、、。
そして、こういうコロナという人智だけではどうにもならないことに遭遇したときは、天を敬うという気持ちも大切になると思う。

つまり、私達のあずかり知らないところで働いている目に見えない力もあるという考え方も大切と思う。

そして、私達は、不正を見つけると、それに憤り、不正は許さない、不正は徹底的に追求してやろうという気持ちになりがちだ。

しかし、その気持ちが強すぎると、不正をした側にも過度に防衛本能が働いてしまって結局、不正の闇がより深くなってしまうという結果を招くことになりがちだ。

そうならないためには、不正をあばく、という気持ちよりも、平和をもたらそうという気持ちを持つことが大切だと思う。

ノーベル文学賞を受賞されたカズオ イシグロさんの受賞スピーチに次のような一節がある。

「私は、歌い手たちの声から何度も重要なことを学んできました。歌詞というより、歌っている人の実際の声からです。人間の歌う声は、極めて複雑に混じり合う感情を表現できます」

この一節を新聞で読んだときに僕は随分、感動したことを覚えている。

そして、これを読んだときに僕は、人間は言葉では嘘をつけるかもしれないけれど、声では意外と嘘をつくことはできないのではないかと思った。

蓮舫さんも語気が強すぎたと、反省のツイートをしておられるとネットのニュースに出ていたけれど、やはり声の質にその人の本当の気持ちが出てしまうということが往々にしてある。

そういうことにも注意を払っていきたいと思う。

不正をあばくという姿勢に対して、山田征さんというかたは次のように書いておられる。

「ほんとうに大まじめで、世の不条理を正そうとしている人達に、いえ、そんなに深刻にならないで・・・・などと、いきなり言ったら大変です。そのような人達には、自分たちがいかに世の中に対して正しいことを主張しているかに自信を持っていることもあって、その考え方の方向を変化させるのは難しいことなのです。

でも、それでいいのです。あの人達は、そうすることを充分に体験し尽くさなければならないからです。そして気づき始めるのです。そのような暗さの中からは何も生まれてはこないことを。光を見、光を感じ始めるには、何をすればいいかを思い始めるのです」と。


本当に、今のコロナというときにあっても、深刻になりすぎて、人間の力だけで強引にこれを封じ込めようと思っても、どうにもならないということがある。

もう少し、ゆとりのある観点からものごとを眺め考えていければいいなと僕自身も思い、そして願っている。














春なのに

2021年01月27日 | 日記
新聞を見ると新型コロナウイルス対策をめぐり、入院を拒んだ感染者には罰金とか、緊急事態宣言中に時短営業の命令に従わない事業者に罰金とか、そんな話が出ている。

新聞の書き方は新型コロナウイルス対策をめぐり、感染者には罰金というちょっとややこしい書き方がしてあるので僕の読解力ではこれがコロナに感染したら罰金の可能性があるということに直接つながるのかどうかはっきりしない面もある。

しかし、新型コロナウイルス対策をめぐり、と書いてあるのだから、やはりコロナに感染したら最悪、罰金ということも考えないといけないのかなと思ってしまう。

まあ、それは感染を防ぐためにはやむを得ないことなのかなと思う反面、感染したら罰金もありか、と思うと少なくとも明るい気持ちにはならない。

むしろ、暗い気持ちになってしまうというのが正直なところだ。

本当にコロナということになってから今まで当たり前と思っていた、自由が当たり前でなくなってしまっていて、そういうのってちょっと怖いなと思う。

時短営業に応じなければ罰金というのも経済活動の自由を奪われることにも繋がりかねないし、、、。

本当に、僕は戦争が終わってから生まれたので、戦争の前に、どれだけ国民の自由が制限されていたかは知らない世代だけれど、少なくとも僕が生まれてからは、これだけ、あれしたらあかん、これしたらあかん、こんなことしたら罰金、という時代は今までにちょっと経験したことがない。

別にそれを感じているのは僕だけではないと思うけれど。

コロナそのものも確かに怖いけれど、そのコロナで世の中のあり方が変わってしまうことにもなんとも言えない不安を覚える。

極端なことを言えば、別にコロナにならなくても交通事故で死ぬかも知れないし、コロナ以外の病気で死ぬかもしれない。

原因がなんであれ生き物はすべて、いつか死ぬし、、、。といっそのこと割り切ってしまったほうが気が楽になるようにも思う。

なかなかそんなふうに割り切れないから、みんなしんどいめしているのかもしれない。

生老病死が人間の4つの大きな苦しみというように、やはり、僕も歳をとってやがて死んでいくかと思うと、なんとも言えない寂しい気持ちになることもあるし。

特に、第二回目の緊急事態宣言になってから本当にいろいろと心が落ち込むようなことがある。

例えば、僕はカレーショップなどに行ってもそれほど店員のお兄さんやお姉さんに気軽に話しかけるというタイプではなく、黙々と食べて、黙々と出ていくタイプだ。

しかし、そんなお店のお客さんが極端に少なくなっていて、今までにこやかに料理をはこんできてくれたり、勘定をしてくれていたバイトの子が知らない間にいなくなっていて、お店は、実質ワンオペレーションのような形で営業されているさまを見ると、今までバイトしてた子はどこに行ったんだろうとやはり思ってしまう。

最近いろんなお店やコールセンターに電話してもぎこちない対応をされることが多くなったけれど、要は、人がある程度いるときなら電話に出るのが得意な人が電話に出るとか、ある程度役割分担できるけれど、今は、どんなお店でも、必要最小限の人数でやっていて、本来電話が得意でない人も電話に出なければならないという状況なので、ぎこちない対応が増えてしまうのかなと思えてきたりする。

もう、こういうときはお店の対応が今までと違うと言って短気を起こしていると、それこそことわざにもあるとおり「短気は損気」で短気を起こしたほうが損をしてしまうということになりかねない。

本当にいつまでこんなこと続くかわからないけれど、なんとか辛抱して無事に過ごせますようにとそれを一番に考えて行きたいなと思う。

昨日に続いて、今日も、ベランダから差し込む日差しがやはり強くなっているなと思った。

寒い日は続くけれどやはり季節は春に向かっているなと思う。

そう思って、駅前の桜の枝をちょっと注意してみると、花はもちろんまだ咲いてないけれど、花の芽がふくらんできているように見える。

しかし、中島みゆきさんの歌の文句じゃないけれど、「春なのにため息またひとつ」という気持ちにもなってしまう。

なんとかだんだんと世の中も明るい方に向いていくといいなと思う。

まだ、しばらく時間はかかるかもしれないけれど、、、。